東欧物語
        
  ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア。ブルガリア、ドイツ 
   2001年5月21日〜6月4日 15日間
プロローグ
2月頃、学友高野君から、東欧の旅へどうかと誘いがあった。この旅は高野君が65才定年で辞めたら、ベストシーズンに行こうと兼ねてから願っていたコースである。それから5年を経た今年、高野君もこの4月からフリーダムな生活に入れるとのこと、よどむことなくOKをしてこの旅は実現した。早く申し込んだためか参加者名簿は、高野君が1番で私は2番であった。両者のこの旅に寄せる意気込みが感じられる。
私は71才、高野君は半年遅れの70才の旅である。



出発
5月21日 月 晴 出発

昨夜は高野君宅泊、早朝2時半長野中央タクシーで成田空港へ。ドライバーは女性であった。参加者は男12名女9名計21名。最年長者は72才の男性2名。次が私と高野君最年少者は58才だからお年寄りツアーである。だが、70才後半とも思える女性がいたが、60歳代と見る人もいて年齢的には定かでない。何歳ですかと聞くわけにもいかないし。この方は一人参加で地味な出で立ち、何時もしっかりとメモをとっていらっしゃいました。目的は60カ国の観光、話の向きだと40数カ国は回っているらしい。今年の9月に中南米6カ国の観光に出かけると言っていた。一風変わった素晴らしいおばさんである。料金・目的地からして若者には魅力のないもののようである。華やいだところのない一行はポーランドのワルシャワへ向かって成田空港を飛び立った。
途中オーストリアのウイーン乗り継ぎ、ワルシャワのホテルに着いたら現地時間23:30過ぎであった。高野君宅を出てから28時間余の長ーーーーい1日でした。 (計算式23:30−2:30+7=28 時差マイナス7時間)ウイーンで乗り継ぎの待ち時間がなんと5時間もありました。私はくたびれてバタンキューーー。高野君は疲れすぎて眠れなかったとか。いつものパターンとは反対であった。



ワルシャワ
5月22日晴れ ワルシャワ市内見学
ワルシャワ【Warszawa】
ポーランド共和国の首都。ヴィスワ川左岸に位置し、商工業や交通の中心地。第一次・第二次大戦中ドイツ軍が占領、戦争のたびに市街はほとんど破壊された。人口166万7千(1987)。英語名ワルソー。

  午前はワルシャワ郊外にあるショパンの生家を見学した。途中山並みの全くないポーランドの大地をしみじみと見た。出穂したライ麦と思われる麦畑、牧草地、緑濃い街路樹が続く田舎道を走った。ガイドは50才代のアンナさん。ワルシャワ大学日本語学科卒。情緒的で非理論的に話す面白いおばさんであった。彼女によればポーランドのポーは畑の意味、ランドは大地ですからポーランドは畑の国。国全体が平坦だから他国の侵攻を受けやすい。(写真はアナさん ショパンの生家で)ガイドの説明は受話器を通して聞ける。これは良か った。
この国の自慢は、地動説を唱えたコペルニクスと卓越した音楽家のショパン、それと現ローマ法王ヨハネ・パウロ二世でる。ポーランドの基礎知識へのリンク


(写真は旧市街の市場広場)午後はワルシャワ市内の見学。第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けた旧市街も見事に復元されていた。自然豊かなワジェンキ公園や聖十字架教会にもショパンの大きな銅像があったり教会にはショパンの心臓が納められているなどショパンにかか関わるものが多かった。ショパン【Frdric Franois Chopin】  ポーランドの作曲家・ピアノ奏者。パリに居住。ロマン的な繊細さに基づく独特な鍵盤技法でピアノ音楽の洗練された新様式を開き、ピアノの詩人と呼ばれた。(181011849)天才は若死にですね。 ワルシャワ


クラコフ
5月23日 晴れ 朝食後列車で古都クラコフへ。
クラクフ【Krakw】
ポーランド南部の都市。ヴィスワ川上流に位置し、17世紀初頭までポーランド王国の首都として繁栄。現在は製鉄を中心とする重工業化が進む。同国最古の大学がある。人口80万人。ドイツ語名クラカウ。

列車は6人一部屋になっていた。私の隣は現地のご婦人が二人、それに高野君とグループの誰かであった。ご婦人とも話したかったが、ドイツ語やましてポーランド語など話せないので何となく気まずい感じであった。シートは広くて座り心地はまあまあだったが、トイレは地上落下式、水の出が悪く感じの悪いものであった。
暫くして車内販売のウェイトレスが何とか言ってきた。何を言っているのか分からなかった。1回は無料サービスだと添乗員が言っていたので、入り口にいた私が「サービス イズ イット?」と聞いたがぽかんとしている。さてどういえばいいのかなと考えていたら、隣のご婦人が「ノーマネイ」と教えてくれた。「ノーマネイ?」とサーバーの娘さんに聞けば通じたのかも知れない。隣のご婦人に「サンキュウ ベリマッチ」と言ったらにっこりしていた。これで気まずさもとけ、また 車内サービスのコーヒーもうまかった。

昼食はレストラン「マキシム」 メニューはポーリッシュハムにキズ、クリームマッシュルームスープ。これで腹一杯になったのに、メインは大型の川ますを油で揚げたのがでーんと出てきた。とてもじゃないが食べ切れたものではない。デザートはクリームケーキ。
レストランの名は【maxim】だが内容はマキシマム【maximum】であった。
午後はヴェリチカ岩塩抗の見学。岩塩を掘った大きな穴とでも言えばいいのかな。佐渡金山を何千倍にもしたような大規模のものである。中には大きな教会がうがってあったり、運動場ぐらいの部屋があったり、地下湖(塩水)があったりする。半日がかりで100数十メートルまで階段を下りながら見学したが、これで全容積の1パーセントとのこと、気の遠くなるような容積を持つ洞窟である。坑道の全長は300q。部屋の数は2000、ツアーで見学するのはその1パーセント。私はここへ原油を備蓄
 したらどうかな、等ふと思った。    クラコフ泊  

5月24日 木 晴れ 朝食後クラコフ市内の見学。
クラコフはポーランド第3の都市、人口80万人。バベル城の見学。ヴィスワ川のほとりに立つゴシック・ルネッサンス様式の美しい城、(←バベル)この城の中にある代々のポーランド国王が戴冠式をした大聖堂へ入ってみた。3つの礼拝堂を持ち主礼拝堂で戴冠式が行われた。大聖堂内から周囲8メートルの鐘のあるジグムント塔にも登ってみた。日本式に言えば鐘撞堂である。フウフウ言いながら木製の階段を上った。100メートルも登ったような気がするほど疲れた。この塔は外部から見れば威風堂々としていて、この城の中心的な存在感のある建造物なのである。何か特別なことがあるときに、8人がかりの男で、この鐘を鳴らすとのこと。内部は木造。クラコク市は、戦災を受けていないので見るべき建造物は多い。コペルニクスも学んだヤギェウオ大学や旧市街を見て回った。

(写真は収容所入り口)昼食後バスでアウしビッツへ。クッコフから西へ50qナチス・ドイツが強制収容所を作ったところだ。今回の旅で訪れてみたかった一つである。収容所入り口にはARBEIT MACHIT FREI 「働けば自由になる」と言う空々しい言葉が書かれている。ガイドは中田さん自分の言葉で考察を含めながら怒りをもって説明してくれた。時ヨーロッパにいた1000万人のユダヤ人の内600万人が殺された。ここではユダヤ人、ジプシー、ポーランド人、(女子供も多数含まれていた)戦争捕虜、政治犯、等が収容され言語に絶する残行為が行われた。ガス室(ガスを送ると30分ぐらいもだえ苦しんで死んでいった)の他銃殺、餓死、立ち牢などで110〜170万人が殺された。列車で運び込まれた内70パーセントは直ちにガス室送り、他は収容所で働かされた後殺されていった。収容所には、収容された人々の写真や遺品、毛髪、靴、眼鏡、はずされた義足が山となっていた。...こんな悲惨なことは2度とあってはならないと痛感させられた。の後クラコフ発22:41の夜行列車で、チェコの首都プラハへ。車内は3段ベッド、上から吉川さん、私、高野君。吉川さんは暑いとこぼしていた。寝心地はまあまあ、疲れていたのでよく眠れた。



プラハ
5月25日 金 晴れ
"中世の宝石"とも言われる佇まいを今日に残しているプラハ市内観光
プラハ【Praha】
チェコ共和国の首都。ヴルタヴァ(モルダウ)川に沿い、ボヘミア盆地の中心に位置し、交通・文化の中
 心地。自動車・織物・化学工業が行われ、ガラス工芸品も有名。人口120万3千(1987)。(チェコ:人口1100万人、広さは北海道ぐらい)
ガイドはパブラさんチェコ人のボリュウムたっぷりのおばさん。扇を頭上でひらひらさせながら誘導し、熱意を込めて説明してくれた。プラハ城から見学したが城の中には王宮の他に大聖堂などの教会もあった。人出が多くて彼女のひらひら扇を見失いようにして歩いた。ジプシーもいるから貴重品はひったくりにあわないよう十分注意をしながら。(写真はガイドのパブラさん)

カレル橋はヴァルタヴァ川に架かる中欧最古の石橋、歩行者専用になっている。橋の欄干には30体の聖人像が並びスケッチや民芸品が売られていた。高野君と「これが有名な○○像だ、」「あれが旧市街橋塔だ」など言いながらの見学。見なければならないものを重点的に見るように心がけた。人出が多く街の中を歩いているような感じであった。(写真カレル橋上の高野君)


(写真は遊覧船上から見たカレル橋)   この後ユダヤ人街を見たりして、夕方モルダウ川クールズを楽しんだ。川面から眺めるカレル橋は又 趣の違ったものであった。夕日に輝くプラハの街、高く聳える教会が午後7:30の夕日を浴びて立 ち、河畔の木立の陰が川面に揺れる。 甲板のテラスは、1テーブルが4人、私達のテーブルは、高野君と私に17〜8才の娘さん2人であっ た。彼女たちはジュースやコカコーラを注文し、お菓子を食べて、飲んで、食欲旺盛であった。直ぐ前 はコックピットになっていて、若者二人が操舵していたが、汚いおんぼろの腰掛けに斜めに腰をか け、たばこを絶えず吹かしながら、その上テレビでサッカーを見ながら運転していた。服装はTシャッ ツにぼろズボン、履き物は突っかけ。プラハの街並みから受ける印象とは正反対であった。共産主義 から解放されて日の浅い、経済的には貧しい東欧の姿を見る思いがした。

 夕食はビアホールで。 チェコの伝統的スープ、ローストポークと野菜、デザートはアイスクリームとバースディケ−キ。(今日は、吉川さんの誕生日。)飲み物は旅行社のサービス。みんなでハッピバスディの歌を唄い吉川さんの誕生日を祝った。
 以前カリブ海クルーズの折、高野君の誕生祝い(12月8日)を船上、ディナー時にやってくれた。4人の黒人歌手がすーっと寄ってきて、高野君の前にケーキを置き、バリトンの大きな声で「ハッピバースディ高野」とやりだした。予告なしに急に始まった。旅の中で、参加者のバースデイをこの様にして祝ってくれるのかと驚きました。吉川さんも旅の良い思い出になることでしょう。心楽しく酔わせていただきました。
  プラハ  ホテル「バルセロ」泊 23:00 バタンキューー



スロバキア
5月26日 土 晴れ
バスで、チェコから国境を越えてスロバキアへ。途中チェコ内の古都、モラビア王国時代の首都ブルノ市の観光をした。
 プラハを出ると菜の花の黄色の畑や麦畑が続く。その中にポピーの赤い花が雑草として混じってい る。石の文化から解放されて、豊かな自然に浸るとやはり気が休まる。休まりすぎて、すっかり眠りこけている方もいらっしゃった。
ブルノ市では、スウェーデン軍から、国を守ったと言い伝えのある聖パウロ・ペテロ教会や自由広場を見て回った。自由広場は、緑の広場とも言い、新鮮な果物や野菜を売る市場でもあるとガイドブックにはある。が、売っている物は全く新鮮ではなかった。(写真は自由広場)しなびたような赤かぶ、発育不全な小さなタマネギ、こんな物がよく商品になるものだ。勿論量り売りである。(パック詰 めは何処にもなかった)

 ここで昼食、この後はスロバキアへ入るので、チェコのお金は使い切らないと損をしてしまう。ビール大ジョキ1杯空けた。トイレ用の小銭をわずか残して使い切った。国ごとにチェンジマネーをして、出るときには使い切らないと損をする。今回の旅は7カ国もあるので、国ごとに、どのくらいチェンジすればいいかの金勘定が大変だった。計算器を持参された方がいたが、何をするにも役立ったと思いました。昼酒は効きました.。この後バスの中で高いびき30分。

国境を越えてスロバキアへ。首都ブラチスバラの市内観光。スロバキアの国情ドナウ川のほとりに立つブラスチバラ城の見学、ミハエル門を入り旧市内の見学をした。城の見学では、城内部のことより、そこから眺めたドナウ川や街の景観が印象的であった。赤煉瓦色の屋根。高く聳える教会の尖塔が夕日に輝いている。ゆったりと横たわるドナウ川、夕日に映える街と大河、実に美しい光景であった。(写真:プラスチバラ城からのドナウ川)
ホテル「ダニューブ」泊。部屋の窓越しにドナウ川があった。今日も疲れました。

ドナウ【Donau ドイツ】
ドイツ南西部シュヴァルツヴァルトの東部に発し、オーストリア・ハンガリー・バルカン諸国を流れて黒海に注ぐ大河。長さ2860キロメートル。水上交通が発達し、沿岸にウィーン・ブダペスト・ベオグラードなどの諸都市がある。英語名ダニューブ。



ドナウベンドの3市とブダペスト
5月27日 日 晴れ  →ハンガリーへ
スロバキア首都ブラスチバラよりハンガリーの首都ブダペストへ、バスで。
ハンガリー【Hungary・洪牙利・匈牙利】
 東ヨーロッパの共和国。ドナウ川中流のハンガリー盆地を中心とし、面積9万3千平方キロメートル。(日本の4分の1)人口1059万(1988)。9世紀末マジャール人が定着、11世紀初め王国を建設。1867年オーストリア‐ハンガリー帝国、1918年共和国、20年再び王制、46年共和制。89年ハンガリー人民共和国からハンガリー共和国に国名を変更。ヨーロッパでただ一つのアジア系マジャール人の国。首都ブダペスト。
 途中ドナウベンドにあるエステルゴム、ヴィイシェクラード、センテンドレの3つの街を見学して、ハンガリーの首都ブタペストへ。ハンガリーの国情


  
           ドナウベンド                      エステルゴム大聖堂
  註 ベンド:湾曲の意、この辺りでドナウ川は90度曲がって南下する。

 エステルゴムは昼食後大聖堂の見学。
 ヴィイシェクラードは古い要塞、高さ315メートルの山頂にある要塞から眺めるドナウは、その昔ここで繰り広げられたであろう死闘と関わりなく、悠々と流れ下っていた。崩れかかった要塞とは対称的であった。

 センテンドレは牧歌的なコバーチ・マルギット美術館の見学。コバーチ・マルギットは制作者の名前。素朴で個性的、自然を大事にした作品であった。見て楽しい、肩の張らない美術館であった。街も傾斜地にある小さな街、通りも狭く中世を感じさせてくれる街、私が好きになれそうな街、自由時間があり散策した。
(←写真はセンテンドレの街で)
ガイドはレオさん。東洋人ぽさを若干感じさせるマジャール人。「、」「。」なしで、吸い込んだ肺の空気が無くなるまで、機関銃のように大きな声でしゃべりまくる。何処でもかまわずに、息継ぎをしては話をする、すごい人であった。私は彼の誘いにのり、お土産のチョコレートを買ってしまった。商売気もありそうな人だったな。
夕食は郊外のレストランで、民族舞踊とハンガリー料理。ラテン文化とトルコ文化をミックスした感じの唄と踊りに、ハンガリーの歴史的な苦渋が感じられた。ワインに酔った。ドナウ川クルーズに出かけた人もいたが、高野君と私はホテル「ハンガリアン」でバタンキューーー。

5月28日 月 晴れ
ついている今日も晴れだ。ブタペストの市内見学。

 写真左は王宮 右は王宮からドナウ川越しに撮ったペストにある国会議事堂


ブダペスト【Budapest】
 ハンガリー共和国の首都。ドナウ川にまたがり、壮麗な王宮・国会議事堂などの建築物がある
1872年、右岸の町ブダと左岸の町ペストが合併。人口209万9千(1987)。

何処も石造り。中世の面影を十分感じられ、美しさと気品を宿した街である。バスを有効に使いながら見て回った。英雄広場から街の通りを歩いた。ドナウ川に架かる橋をあっちの橋こっちの橋と渡り、王宮、教会、国会議事堂等を見学し、川を挟んで眺めたりもした。昼食後はブタ地区にあるゲレルトの丘へバスで登り、ドナウ川とその両岸にある街を上から見下ろした。まあ十分と言うことでしょう。一言で表現すれば美しい街であった。

 午後の後半は自由時間。仙台の石巻から単独参加された72才の成田さんと私たち2人で行動した。先ず中央市場へ行ってみた。私はここで孫二人にそれぞれテーシャッツを買った。売り子の女の子は電子計算器を持っている。性別と年齢を告げて彼女の選んだ中から選択した。支払いは現地の金と不足分は日本円で払うことにした。混ぜると計算が面倒で駄目だという。どちらかにしてくれと言う。私は現地の金は使い切らなければいけないから、混ぜて支払いが出来なければ駄目。他の店で買おうとしたら「OK」だと言う。現地のお金と不足分は日本円のコインで払った。このシャッツは孫によく似合い喜ばれた。
成田さんは、現地のお金が、日本円にして250円ばかり残ったという。何にしようか物色して、チェリーを購入した。量り売りだが、量はバレーボール位もあった。近くの公園で3人で食べた。とてもじゃないが食べきれなかった。残った物は私が処分することになった。同行のご婦人方に夜行列車の中で食べて貰った。この後はドナウ川沿いに散策、橋も中程まで渡ってみた。大河である。風が心地よい。
夕方夜行列車でルーマニアのブラショフへ。19時の夕日が眩しい。緑濃い木々が、緑の大平原を次々と飛び去っていく。時間とともに...............。



ルーマニア
5月29日 火 雨
夜行列車で国境越え。午前5:30頃ルーマニアの古都ブラショフ着。ブラショフは雨だった。ついに雨になった。
ルーマニア【Rumania;Romania・羅馬尼亜】
(「ローマ人の住む地」の意) バルカン半島北東部にある国。14世紀ワラキア・モルダヴィア両公国が建設され、オスマン‐トルコの支配下にあったが、18世紀以降ロシアの勢力が進出、19世紀半ば両公国合併、ベルリン会議で独立が承認され、1881年ルーマニア王国が成立。第二次大戦でソ連に敗れ、1947年人民共和国、ついで65年社会主義共和国。東欧民主化のなかで、89年チャウシェスク独裁政権が崩壊、国名を「ルーマニア」と改め共和国となる。面積24万平方キロメートル。(日本の3分の2)人口2300万。言語はルーマニア語。首都ブカレスト。ルーマニアの概況・基礎データ

 古都ブラショフの見学  夜行列車の降りたて、ぽけっとしていた私は、首都ブカレストと勘違いしていた。ブカレストの地図をガイドのマリウスさんに示して、「今私のいるところは何処ですか」と尋ねた。彼は地図をじっくり見て「ぼくの家はここです」と指でその位置を示し、「でもここはブラショフですから、この地図には載っていません。」.......参りました。
 雨の中、14〜5世紀に80年かけて作ったという黒の教会を見学した。戦争で壁が焼けこげて黒くなっているから、この様な名が付いた。今は修復されて、それほど黒くはなかった。この後朝食、食事をしたら、ようやっと人心地がついた感じになった。


ブラン城
朝食後、聖ニコラス教会(ルーマニア正教)、ルーマニア最古の学校の見学――バスでブラショフから30q→ブラン城(ドラキュラ城とも言う)の見学をした。ブラウン城では警備室、塔の弾薬庫、礼拝堂、音楽室、中庭テラス、寝室を見て回った。1377年〜1947年まで使われていた。家具を通して、生活していた人たちのぬくもりが感じられた。ここの城主であったヴラド3世は吸血鬼ドラキュラのモデルになった人物で、攻め入るトルコ軍の兵士を次々に倒したことから、「串刺し公」の異名をとったと言われている。
ドラキュラ【Dracula】
アイルランドの作家ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」(1897年作)の主人公の名。本来はルーマニアのブラン城の城主。たびたび映画化された。


峠からの眺望
ブラショフ→シナイアへは、主幹道路は工事中のため通行止め。1000メートル以上の峠を越えて行った。久しぶりの山道である。雨に洗われた草木の濃い緑、谷間に点在する民家。村落では荷物を積んだ馬車、のんびりと生活をしている人たち。ルーマニアの本当の姿とその良さが感じとれた。ルーマニアは平地より山の多い国である。

 バスでシナイアへ出た。山の中の街である。シナイアでは、城と僧院を見学。


ペレシュ城
ペレシュ城:ドイツルネッサンス様式、カロル1世の夏の離宮、 1875年築。近くにカロル1世の狩猟の城もあった。


シナイア僧院

シナイア僧院。古い方はこの写真の奥にあり修復中。の写真は19世紀に作った物である。カロル1世築この後一路首都ブカレストへ。
ブカレスト【Bucharest】
 ルーマニアの首都。ドナウ川の支流に沿い、交通の要衝。市街美しく「東方のパリ」の異名がある。 人口197万5千(1985)。ルーマニア語名ブクレシュチ。ルーマニアはラテン系の民族である。かつて のオリンピックで活躍したコマネチもこの国の人。昨年のシドニーオリンピックでは、金メダルを11個 獲得している。日本は5個であった。独裁者チャウシェスクの登場とチャウシェスクの失脚による流血 革命で街はすっかり荒れ果てたが、インフレにあえぎながらも復興しつつあるように思えた。1レイ= 0.004円 ブカレストとは「歓喜の都」の意


夕食は街へ出て民族音楽と舞踊と共に

ワインつき、前菜盛り合わせ、シチュー、メインはダックロースト、パパナッシュ(ドーナツ型デザート)ラテン系の唄声が明るく響き、唄にあわせて若いダンサーの男女が軽いステップをふむ。その中に、かつてのコマネチを思わせる色白の女の子が一際人目を引いていた。高野君と「コマネチのようだね。」等話していたら、何と そのネオ コマネチ嬢が私のところへ来て、手を引いて舞台へ。先ず向き合って座って、右の頬をつけて、左の頬をつけ合って挨拶をした。挨拶の後は、一緒に手を取り合ってホークダンスを楽しんだ。彼女の頬は冷めたかった。          ブカレスト泊

5月30日 水 晴れ   ブカレストの市内見学→ブルガリアへ


農村博物館

農村博物館:1936年ルーマニアの様々な地域の家や教会を集めた屋外博物館、15ヘクタール、300件 屋根の高いのは雪が積もらないようにするため、門のない家は貧しい家、教会はギリシャカトリック教会。

凱旋門:写真左
パリを思わせる勝利の門。ブカレストの人々は「パリと同じ門だ」と誇りにしている。第一次世界大戦の勝利を祝って建てられた。
チャウシェスクの遺産国民の館:右側の写真 
チャウシェスク大統領が計画した、総大理石の建物。彼は、完成を見ることなく、民主化の波に倒れ、処刑された。建物は幅275メートル、高さは84メートル。内部には、2800個のシャンデリア、3000トンのクリスタルガラス、49のエレベーターがある。

市内のレストランで昼食、後、ブルガリアの首都ソフイアへバスで移動。



ブルガリア
ブカレストからバスで1時間ばかり走ったら国境。ドナウ川に架かる友好橋を渡ってブルガリアへ入った。この両国はビザのいる国だから、パスポートの検査に時間がかかると思っていたが、極めて簡単だった。バスは山を越えて走った。車窓からは、緑濃い木々、広々とした牧草地、出穂した麦畑が続き、林間にたたずむ民家の赤い屋根が美しく眺められた。午後8:30分の陽光が眩しい。夕飯は、途中 山の中のレストランで田舎料理。ソフィアのプリンセスホテル着午後10時45分。今日も疲れました。
ブルガリア【Bulgaria・勃牙利】
バルカン半島南東部にある共和国。6世紀にスラヴ族、ついでトルコ系ブルガル族に征服され、1014年東ローマの、14世紀末トルコの支配下に入った。1878年公国、1908年独立国となり、第二次大戦後、人民共和国となった。89年以降民主化がすすみ、ジフコフ長期政権は退陣。90年、共和国となる。
面積12万平方キロメートル。(日本の3分の1)人口850万。首都ソフィア。

5月31日 木 晴れ  リラの僧院へ
ソフィアから124qの山道をバスに揺られながら、リラの僧院へ向かった。途中牧歌的な景観をたんのう堪能しながら。トイレタイムの折りに見た、草むらのポピーの花が可憐であった。



リラの僧院
リラの僧院:標高1147メートル、ブルガリア正教の総本山。領有地は8000平方キロメートルもあり国王の次に金持ちであった。山の中にこの様な大規模な僧院を作ったのは、トルコの圧力から逃れるため。また 宝物殿には兵器もあり外敵への防御手段を持っていたと考えられる。初めてみたのに何処かで見たような懐かしい感じがした。そうだ!スペインのアルハンブラ宮殿だと思った。後でアルハンブラ宮殿の写真を見るとよく似ていた。アルハンブラ宮殿はアラビア文化(イスラム文化)の粋を結集して造ったものだが、この僧院もアラビア文化というかトルコのイスラム文化の影響を受けていることが感じとれる。10世紀に建立、14世紀に現在の形になった。内部は祭壇、周囲の壁、天井など全体がキリストをはじめ聖者のイコンが描かれていた。これがビザンチン文化の一つの象徴なのかなと思いながら見た。


民族舞踊と音楽
夕飯は街へ出て民族舞踊を楽しみながら。同行のご夫婦の方で、リズムにのって軽快にダンスを楽しんでいらっしゃる人もいた。が、羨ましいですね。高野君と私はそんな光景をぽかーんとして、ただ見ていた。        ソフィア泊

6月1日 金 晴れ ソフィア市内見学  夕方飛行機でベルリンへ
ガイドは現地人の娘さんで、イリアナさんという。日本語が堪能でアクセントも日本人並、歯切れの良い東京弁であった。彼女の話によると共産時代は一般民衆の収入は平等だったが、役人や、権力者に富は集中していた。今は、月給は人によって差がある。多い人は2万円、安い人は1万円、8000円くらいの人もいる。この様に経済的には貧しく、オンボロ車も走っていた。ボンネットを開けたエンコ車を2〜3台目撃した。経済的には未だ貧しいが、文化遺産には見るべき物が多かった。


国立歴史博物館



お菓子をくれた子供さん
右手にかざしているのは、私にくれたのと同じお菓子
国立歴史博物館:先史時代から、トラキア、ローマ、イスラム、現代に至る2万2000点が展示されている。専属の40代後半と思われる女性のガイドさんが、汗を拭きながら克明に説明してくれた。古代の文化水準の高さには目を見張る物が多かった。未だ地下に未発見の物が数多くあるとのこと。今日は「こどもの日」。ダンス大会がこの建物の中で行われていた。現地の子供さんと一緒に見ていたら、隣の男の子がお菓子をくれた。イチゴジャムサンドの美味しいお菓子だった。何かあげようと思ったが、何も無いので名刺をあげた。握手をして別れた。可愛い子供さんだった。


昼食後市内を歩いて見て回った。


アレキアレキサンダーネフスキー寺院
サンダーネフスキー寺院:当時のロシア皇帝の名)1882年から40年かけて作られたロシア正教の教会。トルコからブルガリアを解放する戦いで戦死したロシア兵20万人のために建てられた。ネオビザンチン様式。バルカン半島最大の大聖堂。内部は大理石を使った豪華なもの。


大統領事務局
外部から見ただけ、衛兵がなかなか格好いい。



聖ペトカ地下教会
モスクより高い教会を建てるのが禁止されていた。地下を掘り下げて作った。窓もないが内部の装飾は美しい。

18:10ソフィア国際空港よりウィーン経由でベルリンへ。 ホテル「ベルリン」着22:00



ドイツ

6月2日 土 雨 ポツダム、ベルリンの見学
朝から雨、バスでポツダムへ(旧東ドイツ)フリ−ドリヒ大王の新宮殿とサンスーシ−宮殿を見学した。イツの概況・基礎データ
フリードリヒ‐だいおう【―大王】 (Friedrich der Grosse) プロイセン王。啓蒙専制君主の典型。1740年即位、行政の改革、軍隊の増強、教育・産業の奨励につとめ、ヴォルテールらフランスの啓蒙思想家に親しんだ。オーストリア継承戦争・七年戦争でマリア=テレジアと戦いシレジアを領有、ポーランド分割に参加して領土を拡張。また、音楽を愛し、「反マキアヴェリ論」ほか著述も多い。(17121786)フリードリッヒは先の見えるプロセインの経営者。今何をなすべきか試行錯誤し、力量を培った方のように思いました。また 彼は自分用に造ったサンスーシー宮殿を愛用したそうです。偉大な経営者は孤独を愛するようですね。 


ノイレスパレス宮殿
 客用宮殿(ノイレスパレス宮殿と言う)と私用宮殿(サンスーシ宮殿)はバスで移動するほどの距離があった。公私のけじめを付けた生活態度が感じられた。



ツェツィーリエンホフ宮殿(写真):第二次世界大戦の対日終結が話し合われたポツダム会談の場所。スターリン、チャーチル、ルーズベルトの執務室や会議室がそのままの状態で保存されていた。ポツダム‐せんげん【―宣言】1945年7月26日、ポツダムにおいてアメリカ合衆国・中華民国・イギリス(後にソ連が参加)が日本に対して発した共同宣言。戦争終結、日本の降伏条件を定めて発表したもので、軍国主義的指導勢力の除去、戦争犯罪人の厳罰、連合国による占領、日本領土の局限、日本の徹底的民主化などを規定。日本ははじめこれを無視したが、原子爆弾の投下、ソ連の参戦により同年8月14日受諾して、太平洋戦争が終了。

第26回連邦ガーデンショウを見学した後ベルリン市内観光 
ガーデンショウは日本の淡路花博より規模は小さいように思えた。会場は広いので歩き疲れた。疲れてもベンチがないので掛けられない。これは不親切である。



ベルリンの壁
ベルリンの壁は是非見たいと思っていたもの。年を経て何の変哲もない、くたびれたコンクリートの塀である。この壁が為した、冷酷の隔離を思い出しながら見た。また 取り払われた壁跡には、目印になる物を埋めて、何処に壁があったか分かるようにしてあった。



ブランデンブルク門
東西ドイツ統一の象徴ブランデンブルク門: 1788年〜91年にかけて建設された古代ギリシャ風の市門。門の上には勝利の女神が乗るカドリガの像がたっている。東西分断のベルリンの壁の近くにあったために、東西分断の象徴と見られてきた。修復の工事中であった。



ベルガモン博物館(写真:博物館の内部にあるイシュタル門) 旧東ベルリンにある世界的な博物館。先ず入館すると、オリンピアの発掘作業で発見されたベルガモン祭壇(紀元前164〜156)がでーんとある。この祭壇の左側は古代美術品、右は西南アジアコレクションが陳列されている。右側は規模の大きな物が多く、バビロンの行列通りやイシュタル門(写真最右)が復元されていた。この様な規模の大きな物が建物の一部のように自然の状態で陳列されている。ここも重点的に見て回った。入館時に渡されたハンドレコーダーに,作品についているナンバーの数字を打ち込めば、日本語で説明が聞けるようになっている。これは都合がよかった。
註 ベルガモン:ヘレニズム時代の小アジアの王国とその首都,シリア王国から独立、ヘレニズム文化の一中心、前133年ローマに併合された。(大辞典DESK)
今日は珍しく教会の見学はなかった。バスの車内から眺めた程度であった。夕飯は街へ出てゆっくりと最後の夜を楽しんだ。     ベルリン泊



帰国

6月3日 日 晴れ  帰国の途へ
ホテルを9:00出発、ガイドの浜田さんも一緒に空港へ。ウィーン経由帰国の途へ。機内で囲碁1番、疲れ果てて、うとうととして過ごす。ビールとワインを飲みながら。

6月4日 月 晴れ
朝8:00頃成田空港着。旅は終わった。ベルリンは14度だったが28度もあった。暑い!帰国の第一印象です。
家へ帰ると愛犬クウ君が感激して迎えてくれた。彼は嬉しいと尿をシビル癖がある。女房が庭へ連れだして対面した。尾をちぎれるように振りながら、盛んに尿をまき散らした。畑の作物は予想以上に大きくなっていた。15日間の浦島太郎を埋めるのは大変。
  "旅終えて 初生り胡瓜 味噌つけて"


エピローグ

 脊椎管狭窄症の手術をして1年半を過ぎたところ、歩くのが多い今回の旅に体が持つかなと心配したが、無事に過ごせたことに感謝したい。これも同行した高野君が気をつかって出来るだけ腰掛けられるように配慮していただいたことにもにもよる。有り難いことであります。

旅の中では今回に限らず、お金を使って、どうしこんなに苦労をしなければいけないのかな?早く終わらないかな、など思うこともあるものです。今回の旅の中でもそうでした。
旅が終わると、何かほっとすると同時に、満たされた満足感に浸れるものですね。今回も苦労の多い旅だったが、行ってみて良かった。中欧から東欧にかけて、中世のキリスト教文化や王朝文化に接し、東へ行くに従ってビザンチン文化化している事実に感動した。
民族が違い、言葉が違っても、ガイドさんをはじめ、ホテルやショッピング等で接した皆さんは、大変人なつっこくて又親切でした。
この様な人々や、同行の皆さんのおかげで楽しい旅が出来ました。又添乗員小黒洋平さんも熱心に面倒を見ていただきました。有り難うございました。                               
        
 国や都市、人物等の解説文は広辞苑からコピーしたものです。   
                             

                              
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