ロシアと北欧
1996年(平成8年)6月5日〜6月16日
プロローグ
学友、高野昭君と小林文治君が、どうも久方ぶりに長野でいっぱいやっている中で、北欧へ行ってみようじゃないかという話になったらしい。小林君はロシアに惹かれ、高野君は北欧に惹かれ、私はその話を高野君から聞いてその気になって、このトリオの旅が実現することになったのである。動機とチャンスが新たな行動を生み出すものである。
出発
1日目 6月5日 水 晴れ
成田空港で、ラーメンとコーヒーの朝食を摂ったら、ようやっと、もやもやした気持ちもすっきりし、12日間の旅始めのそれとなく華やいだ気持ちになってきた。「やあ!どうも、しばらく振りです」小林君と40数年振りにあった。彼は私よりも2−3歳若く見え、より溌剌としているように思えた。髪は黒々としていて、色浅黒く・逞しく・エネルギッシュな感じがした。旅を通してこの感じは事実であった。握手をしようかなと思ったが、きざな感じがしたので止めた。だが、若き頃の友達は、40数年の歳月を何のハードルもなく話が通じ合うものである。長く思えた待合い時間も、そのようなことで囲碁をする暇もなく過ぎてしまった。
成田発11時40分 ノンストップでモスクワへ。シートは翼の後ろの窓際、積層雲が少したなびく程度の梅雨入り前、天気は上々で見晴らしも良い。佐渡島がよく見える。3人が窓に顔を寄せ合ってしばし見入った。これを日本のしばしの見納めにして飛行機は高度を上げていった。
JALはやはりいい。日本語のスチュワーデス、サービス満点、自分の家にいるような感じである。高野君と何番か囲碁をして負けた。気が付いてみたらブラインドが下がり一眠りずる時間になっていた。うとうとしたり、機内食を食べたり、囲碁をしたりして、10時間余りの飛行時間もそれほど退屈しないでモスクワに着いた。現地時間16時30分 未だ陽は高い。
モスクワ
他国の悪口は言いたくないが、ロシアの玄関であるモスクワ空港のご粗末さには驚きました。『玄関は家の顔』と言われているが、まさにその通りである。パスポートのチェックに時間がかかり、税関でも待たされ、空港を出るのに延々3時間もかかってしまった。トイレは汚く使い物にならない代物だし、もう全く疲れ果ててしまい、税関を通ったら、これで全ての旅が終わったような、気持ちでした。
夜の8時頃、空港から市の中心にあるホテルへ向かった。未だ夕日は燦々とし、アパート群に映えて美しい。、エリツインの選挙用ポスターや角張った旧型の車が目を引く。道路は広々として、空港から 市の中心に向かって真っ直ぐに走り、大平原のまっただ中にいる感じがする。これが旧ソ連かと感慨 一入であった。
今夜の宿舎は、ホテルコスモス 石鹸は貧弱で、トイレの紙質も悪かった。時差を含めて31時間の長い一日だった。ベッドに潜り込み死んだ様になって眠った。
2日目 6月6日 木 晴れ
クレムリン、赤の広場とモスクワの市内観光。モスクワ発17時30分アエロフロート空港からサンクトペテルブルグへ。
赤の広場、クレムリン
【赤の広場】
モスクワのクレムリン宮殿の東側にある広場。レーニン廟がある。赤色広場。
クレムリン【Kremlin】
(kreml ロシア 城砦の意から) モスクワの旧城砦。帝政時代に宮殿が設けられ、今はソ連政府諸機がある。転じて、ソ連政府を指す。

赤の広場の入り口で:左から2番目アスパカヤ塔、右側ワリシー寺院
ここが、なんと言ってもモスクワのメインであるクレムリンはモスクワ市発祥の地、その後の発展の中核となった城塞である。周囲に煉瓦の城壁を張り巡らし20の塔が建っている。このクレムリンの東壁から赤の広場に入ってクレムリンに向かった。先ず目に付くはアラビアンナイトの話に出てくるような幻想的な聖ワシリー寺院である。
その左側の時計塔はスパスカヤ塔といって、高楼に天然の宝石をちりばめた星がつけられている。

レーニン廟をバックにして
赤の広場の中央には若き頃崇拝したレーニンの廟がある。私達の学生時代は学生運動の華やかな時代でサンジカリズム的(労働組合の直接行動によって、産業を管理し、社会革命をしようとする思想や運動)な思想は誰しも多少は抱いたものである。小林君もその一人、この広場に立ちレーニン廟を眺めて感激したのではないかと思います。赤の広場は世界で一番美しい広場と言われている。広大で、帝政ロシア時代からの積み上げてきた建造物には、歴史的な重厚感があり、参加者を圧倒する物であった。広場を歩いていると、なんだか自分が小人なったような、また巨人の国に迷い込んだような気分だった。

赤の広場で:バックはクレムリン、指を指しているのはガイド
ガイドは、白系ロシア人の魅力的な女性でした。口角に泡を飛ばし、熱っぽくガイドをしてくれ好感が持てた。クレムリンはあいにくの休みで、中へ入れなかった。ガイドとクレムリンの入り口で写真を撮ったが写真の彼女は知的で優しそうな女性である。
ロシアは芸術の国。バレエ・オペラ・音楽・サーカスなど、どれも世界一流である。オペラとバレエの殿堂ボリショイ劇場を始め、それに関わる大小の建造物があちこちにあり、バスの中から見て回った。ボリショイ劇場の屋根の上に、芸術の神アポロが二頭立ての馬車にひかれ、勇ましく走ってる銅像もあったが、この面の学の乏しい私には、何れも、今ひとつ心の琴線に振れるものではなかった。
街中を走っていると、アパート群が多く目についた。ガイドの話では、ペレストロイカ以後物価を始め、アパート料金も高くなり住み難くなってきた。でも週末には、郊外の別荘地で自営と楽しみを兼ねて、ジャガイモなどの家庭菜園作りをしている。富は国の高官や、商人に握られていて一般は貧しく、共稼ぎをしないと暮らしが立たないとのこと。でもここで、この様に私達外国人観光客に、ロシア人のガイドが、国情を話せるようになったのは、ペレストロイカ効果ではないかと考えられる。そして今、以前のような共産党支配による統制経済にするのか、苦しくてもこのペレストロイカを押し進めるのかを決める大統領選挙が行われようとしているのである。
サラリーマンは、貧しいが週末にはアパートのキス籠から解放され、シベリアの大地で、土に親しむ生活を送っていることは羨ましくもある。
レーニンの丘で

レーニンの丘から:正面の建物がレーニンスタジアム、手前右側がジャンプ台
モスクワ川が大きく蛇行しているその出先に、レ−ニンの丘がある。モスクワ大学を背にしてこの丘に立つと、モスクワ市内が一望のもとに展開し、クレムリンの諸塔も遠望される。サイドにジャンプ台、その下にレーニンスタジアムがある。モスクワ川から吹き上げる風が涼しい。日本の五月初め頃の陽気だという。露天商が品物を並べ、物売りが後ろを付きまとう。ガイドは、ここでは何か買わない方がいいという。買う気はなかったが、小林君が記念バッチを立ち売りの青年から買ったのに触発されて、高野君も私も買った。結構日本語を話す青年であった。今になってみると、モスクワ大学生のアルバイトかなとも思われる。露天商も立ち売りの人も、メキシコ辺りよりも品がいいように思えた。
サンクトペテルブルグ
『貧すれば貪する』という諺がある。モスクワから飛行時間1時間30分、北西へ飛んでサンクトペテルブルグの空港へ着いた。スーツケースを受け取ったら、何と参加者19名中6個のトランクの鍵がこじ開けられていた。幸い盗られたものは何もなかった。トランクは、鍵をかけ、しかもガムテープで厳重に封印して置いたにもかかわらずこの状態である。高野君もその一員であった。その時は気づかなかったが帰ってみたら、私のトランクも開閉の取っ手部分が曲がっていた。添乗員も、ここではこの様なことがあることを予告し、大事な物はトランクの中に入れないよう再三注意していた。同じ様なことが毎回ある様なのに、国としての対策はどうなっているのか、私たちには理解出来ないことである。
ホテル ブリバヤ チイスカヤ 泊
3日目 6月7日 金 小雨後晴れ
終日サンクトペテルブルグ(レニングラード)の観光
レニングラード【Leningrad】←旧名 現在名はサンクトペテルブルグという
ソ連北西部にあるモスクワに次ぐ大都市。バルト海の支湾、フィンランド湾頭に位し、ネヴァ川にまたがる。1703年ピョートル大帝の築いた都でペテルブルグと称し、1914年ペトログラードと改称。18年までロシア帝国の首都。ロシア革命の中心地となった。機械・造船を中心に工業地帯を形成。冬宮・エルミタージュ美術館などがある。人口494万8千(1987)。
今回の旅の目的は、歴史・芸術そして大自然との対話である。その歴史と芸術に関わりのある物がこのサンクトペテルブルグである。無数の運河の流れ"北の水の都"と言われるサンクトペテルブルグは、あいにくの天候でその美しさを実感できないままに終わったのは残念であった。
街の中は午後になると、週末を郊外の別荘で過ごす人の車が多く、ネバ川に架かる橋のたもとで、車が渋滞していた。

ネバ川にかかる跳ね橋
景色がいいと言われるネバ川のほとりに立つ。ネバ川越えに見える対岸の冬宮、ネバ川にかかる跳ね橋(時間が来ると橋の中央が上に開いて船が通られるようになっている橋(写真右)、ピョートル大帝が建築したペトロパプロフスク要塞等を眺め、小雨混じりの川風に吹かれながら、ガイドの説明を聞いた。周りの景色はくすんで見え、景観を味わうどころか、早々にしてバスに引き返した。

聖イサク寺院
青銅の騎士(ピョートル一世)、壮大なドームを持つ聖イサク寺院、ヌモリイヌ宮殿等の歴史的建造物の多いネフスキー大通りを見て回った。
ショッピングは、騎馬の銅像の建つ、バロック様式(17世紀イタリアで生まれた豪華で権力誇示的な装飾趣味を持つ)の立派な建物の中にあるベリョーシカ(日本円など外貨で買い物のできる店)で、キャビア(チョウザメの卵の塩漬け)、マトリョーシカ(人形の中にまた人形が入っている物)を購入した。
昼食は市内のレストランで、簡単なフルコースで内容もよかった。ここでは小林君の持って来た石鹸を誰にどの様にしてあげるか話題になった。ロシアでは石鹸は貴重品。特に日本の石鹸は商品価値が高く、女性の間では人気の的だそうです。小林君は、「1ダースの石鹸をくれれば何でも出来る」と聞いてやくやく持参した石鹸である。誰にと言っても勿論若い美人の娘さんです。そういう仲立ちをするのが好きな私は、早速よせばいいのに森山さん(添乗員30歳少し出た女性)に聞いたら、一緒にいたガイド(レニングラード大出身40歳前の白系ロシア人、女性で美人)と目を見合わせ、『このエッチ爺が』という感じで「相手に負担を感じさせないように、ごく自然にプレゼントしてください」とのこと。言い出したからには、やらなければ男の恥?でも、これは彼の物、私の好みでプレゼントするわけにはいかない。彼は、先ずガイドにあげたいという。これは、はい、どうぞでOK。後が大変、美人のウエイトレスを物色し、そのウエイトレスが私達のサイドを通るのを待ち、チャンスを逃さずに、ごく自然に石鹸を出し、相手が何の負担も感じないようにプレゼントしなければならないのです。しかも、森山さんとガイドは興味津々として私達を伺っているのですからスリル満点であります。.......それらの条件を満たして、何とかかんとか、わが小林君はやってのけました。大したものであります。高野君は直接の関わりのなかったことを、彼の名誉のために明記しておきます。以後私は、森山さんから悪のリ−ダーのように思われたようです。でも反面より親切に接してくれました。.......その後チャンスがなく残り石鹸は日本へ持ち帰ったようであります。
エルミタージュ美術館(旧冬宮)

旧冬宮この中がエルミタージュ美術館

エルミタージュ美術館の内部
楽しかった?昼食の後は、世界有数のコレクションを誇るエルミタージュ美術館(旧冬宮)の参観をした。マチス・ピカソの作品と宮殿自体の建物が印象的であった。

旧海軍省
広場を挟んで旧海軍省の立派な建物があり、強大な権力を感じさせる物であった。
昨夜と同じホテル泊 囲碁を何番かやり、暮れなずむロシアの最後の夜を楽しんだ。
ヘルシンキ
4日目 6月8日 土 晴れ
ホテルを出発10時専用バスで、北欧の玄関、フインランドの首都ヘルシンキへ。
ペテルブルグの市街を抜けると、ヨーロッパの何処へも通じる国道を、先ず国境へ向かって走った。道路は、唐松や赤松の原生林が中央分離帯になっているから、対向車は全く見えない片道車線の部分が多かった。国境への途中でパスポートの点検があり、20歳前の兵隊がバスに乗り込んできて点検した。国境の手前で昼食。バルト海に面したペクトパーレストランにて。
食事をしながら、税関申告書の整理をした。それを森山さんが正式な書類にしてくれるのである。出国の手続きは、添乗員任せ、パック旅行の良さである。
国境では1時間ばかり待たされたが、入国時に比べればパスポートチェックも型どおり、スーツケースのチェックもなく、予想以上に簡単であった。
国境を通過すればフィンランド、何か気持ちも楽になった。
ヘルシンキ泊......ラデソンSASヘルシンキ
空港経営(スカンジナビア航空)のホテルは使いよく、清潔で、気持ちが良かった。例により3人で代わる代わるに囲碁をした。高野君と小林君は二段、私はほやほやの初段『手筋はいいんじゃないの』とおだてられ、慰められながらやり、そして負けた。
5日目 6月9日 日 小雨
フィンランド【Finland・芬蘭】
北ヨーロッパ、スカンディナヴィア半島の頸部を占める共和国。12世紀以来スウェーデンの治下、18
09年以後ロシアの大公国、1917年独立。面積34万平方キロメートル。人口495万(1988)。全土の一割は氷食湖で、三分の一は泥炭の沼沢地。林業・牧畜業が盛ん。住民はフィン族で、多くは新教を信奉。首都ヘルシンキ。フィンランド語名スオミ。
ヘルシンキ【Helsinki】
フィンランド共和国の首都。フィンランド湾の北に突出した岬角の先端に位し、同国の政治・経済・学 文の中心。明色の花崗岩で造られた建物が多く、「北の白都」の称がある。人口48万6千(1986)。スウェーデン語名ヘルシングフォルス。
午前中は自由行動、午後は専用バスでヘルシンキ市内観光へ。マーケット広場、エスプラナディカトウ通り、ウスペンスキー寺院、テンペリアウキオン教会、作曲家シベリュウスの記念碑、セウラハリー野外博物館などをバスでまわった。18時"バルト海の女王"−と呼ばれる豪華船シリアラインでストックホルムまで船旅、...船中泊
自由行動でホテルから地下鉄を利用して、小雨のぱらつく中ショッピングと散策をした。日本語で買える店に案内して貰ったが、これと言って欲しい物もなかったので何も買わなかった。店は元老院広場の通りを挟んだ真ん前にあり、こざっぱりとした綺麗な店であった。

アレクサンテエリン通り
アレクサンテエリン通りは石畳を敷いた道路、伝統的なビルが建ち並ぶ見事な通りであるが日曜日の所為か、人影はまばらであった。

元老院広場
この通りの東側に元老院広場がある。 元老院広場の中央にはロシア皇帝アレクサンドル2世の銅像があり、その広場に続いて大聖堂が建っていた。ここから南に歩いて南港にあるマーケット広場に出た。テント張りの中で、食品、雑貨、衣類、鞄、あらゆる物が並んでいた。ここもやはり石畳であった。民族意識の強いフィンランド人が征服者のロシア皇帝の銅像を元老院広場に残しておくのはどうしてだろうと思った。帰国後、ロシアがスウェーデンとの戦争に勝ち、それまでスウェーデンの一つの州であったフィンランドを割譲させた。その後ロシアはフィンランドの自治権を認め、やがてロシア革命の折りに、独立を果たした。この様なフィンランドの歴史を調べて、納得できた。
帰りも地下鉄。同じ切符で乗車できた。1時間以内であれば、同じ切符で何回も乗れる仕組みになっている。何か儲かったような気分であった。
バスでの観光 午後
テンペリアウキオ教会

テンペリオス教会はこの岩の下にある。
硬い岩石を掘り下げ、岩壁の上に銅製のドームを載せた建物。岩石は、古生層の物で、氷河時代にはその上は厚い氷雪が堆積していた。よく見ると圧縮されて変成された傷跡が幾重にも見られた。岩石の中に造られた教会も珍しいが、私は岩石そのものに興味があった。これが氷河を支えた岩石かと何回も撫でてみた。
作曲家シベリウスの記念碑

シベリウスの記念碑
パイプオルガンを思わせる、総量24トンにもなるスチール管群からなるモニュメントがこの記念碑である。周囲一帯は、シベリウス公園になっており、その一角にこの記念碑がある。
セウラハリー野外博物館
湖に浮かぶ小さな島に、17世紀頃の民家や教会を移築して、島全体が博物館になっている。島へ渡る橋の白い欄干にもたれて記念撮影をした。何枚か撮ったが、何枚も撮りたくなるほど景色がよかった。橋の下で3人の主婦が子供連れで魚釣りをしていた。練り餌の浮き釣りで面白いように、ボラのような魚を釣り上げていた。島の農家風の庭に、桜草のような可憐な赤い花とシダと、星状の小さな白い花が咲いていた。どうも私は、観光の対称よりもその周辺に興味が引かれるようである。
観光を終えて........
ヘルシンキは、フィンランドの首都。人口50万人の小さな街である。季節的には、日本の四月下旬か
ら、五月の初め頃の気候とのこと。ナナカマド、アカシアの黄色の花?(ガイドはニセアカシアと言い小林君はアカシアだと言うが)ライラックの赤紫の花、マロニエの白い花、木々の若葉が実に美しい。緑を大事にする北欧人の心が産んだ街ヘルシンキが、何処にも感じられた。
8時豪華船シリアライン(5万8千400トン全長203b)で、バルト海を横断してスウェーデンの首都ストックホルムに向かって出発。私達のキャビンは、10階の2号室。ワインが一本サービスされていた。
夕食後、デッキへ出てバルト海、そしてそこに点在する青葉の島や森影に佇む山荘風の人家を飽くことなく眺めた。天気は薄曇り、もう一つパットしなかった。
甲板から:バルト海と森影に佇む山荘
デッキで韓国の青年と出会い「サッカー、コリーア、アンド・ジャパン」とか言いながら握手を交わした。
彼の握手は力強かたった。
ワインを飲みながら、キャビンで囲碁をした。ワインのせいだろうか、初めて小林君に勝てた。
ストックホルム
6日目 6月10日 曇り
ストックホルム着9時 専用バスでストックホルム市内観光。旧市街やノーベル賞の受賞祝賀パーティーが開催される市庁舎、リッターホルム教会、カール・グスタフ16世が住む王宮をまわり、昼食は和食。午後は遊覧船で"北欧のベルサイユ"と呼ばれるドロットニングホルム宮殿の観光。ストックホルム泊
スウェーデン【Sweden・瑞典】
北ヨーロッパ、スカンディナヴィア半島の東部を占める立憲君主国。1523年デンマークから独立。1814年ノルウェーを合併、1905年分離。社会保障制度が発達。面積45万平方キロメートル。人口843万(1988)。ほとんどすべて新教徒。首都ストックホルム。
ストックホルム【Stockholm】
スウェーデン王国の首都。同国南東部、メーラレン湖がバルト海の支湾に流入する所に位し、風光明媚。人口66万6千(1987)。
歴史的にも地理的にもまた現在の社会機構としても大変興味のある国である。スウェーデンは、メー湖から見ゲルマン人、バイキングの末裔、北極圏まである南北に長い国である。また 碧眼・金髪・長身。北欧4カ国でスウェーデンの娘が一番美しいと言われている。ゆりかごから墓場までの社会福祉が充実している、市の何処にもホームレスやスラム街はない。ただし税金は高い。一人当たり日本の6倍の原子力発電に頼っていた国が、原発は今年限りで廃止すると昨年の国会で決まった。自然を大事にしている。死の基準を脳死としている。国民背番号制。ノーベル賞を出している国。国王が自分の住んでいる王宮の一部を解放している。王妃が気軽に街へ買い物に出かける。市庁舎の議事堂まで、観光客に開放している。我が日本もこの実験国の良さを見習いたいものである。
ストックホルムの観光
メーラン湖とバルト海に囲まれ20余りの島を橋結んで出来た街。"水の上に浮かぶ街""北欧のベネチェア"とも呼ばれている。一日観光となると、その時はなるほどと分かったような気で見てくるが、後になると何がどうだったのか、ごちゃごちゃになってしまう面があるものです。

市庁舎
先ず市庁舎から観光を始めた。メーラン湖のほとりに建つ赤い煉瓦造りのこの建物は、北欧で今世紀最高の建築美を誇っているとのこと、2番目にノーベル賞の祝賀会場のあるところです。大江健三郎さんが受賞後演説をした古めかしい演題もあり、その前で記念撮影をした。階段は、ドレスを着て上り降りするには高さをどの位にすればいいかを考慮して造られているそうである。その他、天井・壁・議場と何一つとっても凝った造りになっていた。市の議員101人中、女性議員が38人、女性専用の控え室もあり、女性の地位を伺い知ることが出来る。
メーラン湖にその影を落とす106bの塔は、3つの金色の冠を頂いて建ち、外部的にも美しい建物であった。

旧市街 紺色のスーツを着ている女性はガイドさんです。
旧市街は、市庁舎からメーラン湖を挟んで400b離れた対岸にある島である。ここがストックホルム発祥の地であり中世の面影を今に残している。王宮、グスタフ3世像、大聖堂、証券取引所などを見て回った。またハンザ商人の活躍したところである。それに関わって貴族の大虐殺された場所もあった。
狭い道路には、伝統的な商店やホテルもあり、中世の匂いを感じる街であった。
ガイドは、元アナウンサーの日本人女性、美人で歯切れ良く、場所を選んで明快に話してくれた。
昼食後、遊覧船で北欧のベルサイユと呼ばれるドロットニングホルム宮殿の観光へ。

ドロットニングホルム宮殿
ストックホルムから、メーラン湖を遊覧船で西へ約10q、ローベン島のメーラン湖畔に建つ。柔らかいクリーム色の壁に緑の屋根これがドロットニングホルム宮殿である。
宮殿の南側には、芝の美しい広大な庭園があった。1982年に現王の居城となった。224室の一部を一般に公開している。内部には、鉛ガラスのお飾りのついたシャンデリアや歴代の王の肖像画があり、思ったより質素な感じであった。国民を愛する王であり、国民から親しまれている王であることをガイドは強調していた。
遊覧船から見る光景は、メーラン湖にその影を映す宮殿をはじめ、市庁舎、街並みや諸々の建造物とそれらを取り巻く緑の木々が良く調和し、湖に映えて見事であった。
観光を終えて.......、ストックホルムは、ヘルシンキよりも見る物が多くまた規模も大きかった。自然が豊で、ゆったりとしている。1日観光は疲れました。
ストックホルム 泊 ホテルは、スキャンデイックホテル マルメン
オスロ
7日目 6月11日 火 晴れ
ストックホルム発11時 ノルウェーの首都オスロへ、オスロ着12時
ノルウェー【Norway・諾威】
北ヨーロッパ、スカンディナヴィア半島西部を占める立憲君主国。古くはノルマン人が国家を形成。1397年デンマーク・スウェーデンと共に同君連合王国を形成、1905年分離独立。面積32万平方キロメートル。人口419万(1988)。首都オスロ。
オスロ【Oslo】
ノルウェー王国の首都。オスロ‐フィヨルドの湾頭に位する良港。冬季競技地として国際的に有名。人口45万2千(1987)。旧称クリスチャニア。
昼食後バスでオスロ市内観光へ。
バイキング船博物館、雄大な彫刻群のあるフログネル公園、ホルメンコーレン・スキージャンプ台、コンチキ号博物館、目抜き通りカールヨハンス通りを巡る。ノルウェーは前回のオリンピック(1994リレハンメル)の開催国であり、フィヨルド(氷河によって出来たU字谷に海水が侵入してできた入江)やバイキングが有名である。私はノルウェーバイキングに興味を持っていたので、この観光を楽しみにしていた。バイキングについて思い出すままに項目的に上げてみることにする。
バイキングとは、入江の人の意。食うに困ってなった。8世紀から11世紀にかけて活躍した。(日本の奈良時代から平安時代」。イギリス・ノルマンディー、フランス、地中海沿岸、アイスランド、グリーンランドに進出し殺戮、略奪、植民地の建設をしやがてその一部は同化していった。コロンブスより約500年も前にアメリカ大国に到達している。グリーンランドに移住したバイキングは、気候の変化でやがて絶滅し、悲惨な最期を遂げている。スウェーデンバイキングやデンマークバイキングは(海上にも進出したが)主に東方から南東の川沿いに黒海方面まで侵入している。併せて考えると、ヨーロッパ人は多かれ少なかれ、バイキングの血を受け継いでいると考えられる。ノルウェー人は、バイキングの後裔であることを誇りにしている。また ナンセンやアムンゼンの偉大な二人の北極・南極の探検家もこの国の人である。
オスロ市内観光
カール・ヨハンス通りは王宮に繋がるメーン通りである。この通りにあるレストランの二階で食事をしていたら、窓の下の通りを、衛兵が、隊列を組ん歩いていた。衛兵の交代だとガイドが言っていた。黒の制服に黒の帽子でなかなか格好良かった。州の全ての祭りはこのヨハンス通りから始まるとのこと。通りには細長い旗がたくさん立てられていたが、何かのお祭りがあるらしかった。
フログネル公園
食事の後、先ずここから観光した。ものすごく広い公園に、人の彫刻がここ彼処にある。噴水、橋、階段、芝生これらの全てをノルウェーの生んだ大彫刻家グスタフ・ビーゲランが、"人間の一生"をテーマにして、半生をかけて制作した物である。作品数は192点、刻まれた人間像は650本。

モノリッテンの石柱
メーンはモノリッテンと言う高く聳える一本の石柱である。高さ17bの御影石に、121人もの老若男女が刻み込まれている。13年の歳月を要しという。

一番美しいといわれる子供の像
どの像が美しいかは、見る者の生き方と重なって感動や共感を呼ぶ結果と考えられるので一概にこれといえるものではないと思う。が、一般的に言ってこの中で一番美しいと言われている像は、橋の中程にある等身大の5〜6歳の男の子の像だとガイドが言っていた。その像は裸体で肩を威からし、肘を張り右足を軽く上げ、力強く見えた。言われてみればそうかなと3人そろってこの像と記念撮影をした。
"俺が一番美しいんだぞ!どうだい!やい!"とでも言っているような像であった。
"青葉風 肩威からして ガキ大将"
この後 ホルメンコーレン丘にある大きなスキージャンプ台を見た。1952年オスロで開かれた冬季オリンピックのために建設されたものである。その近くに、現国王がスキーを履いて犬と走っている銅像があった。ノルウェー人は大昔からスキーを生活の一部として使ってきた。日本に初めてスキーを持ち込んだのはノルウェー人であり、ナンセンの北極探検もアムンゼンの南極到達もスキー技術があったから出来たと言われている。
バイキング船博物館

バイキング船ゴクスタ号
女王等の棺と共に埋葬された三隻のバイキング船が復元され、展示されていた。北海の荒海を越えて活躍したバイキング船が、死者の黄泉の国へ旅立ち用として埋葬されたものであろう。それぞれ発掘された場所の地名がつけられている。ゴクスタ号は9世紀後半の物と推定されている。全長23b最大幅5・2b32人で漕いだ物。大型ではないが典型的なバイキング船と言われている。この様な船を何隻か連ねて北海の荒海を越え、海岸周辺の街を襲ったのであろう。彼らの立ち去った後には何もなく、街は壊滅してしまったのである。材は樫の木の薄い板を使い、流線型で何処も丸みを帯び、水の抵抗を出来るだけ少なくしている。船体は黒い塗料を塗り船首はぐーんと高く突き上げて見るからに精悍な感じである。船底外部の中央は、背骨のように突き出し、直線的に船尾から船首に繋がっている。軽くて丈夫、水の抵抗を極力少なくし安定していて早く走れるこれがバイキング船であることが実感できた。日本のこの頃の船は、これと全く対照的で厚い板、直線的で角張っていて、鈍重。帆船であり、漕いで走れる物ではない。速くよりもより沢山荷物が積めるようになっていった。
観光を終えて.......樹木が多く若葉が眩しい。ライラックがそこかしこにあり紫の花が美しい。ここも日本と同じく、今年は一週間くらい季節が遅れているとのこと。ガイドは小柄で早口の日本人女性。ここが好きで住み着いた。日本へは旅費が高いのでなかなか帰られないとのこと。
夕方より雨 自由時間のショッピングは値段が高いので止めた。
夕食はフルコース。ビールはライトで今日の日に乾杯。高野君は痔、私も腹の調子がおかしい。囲碁をしないで早く寝た。
ソグネ・フィヨルドへ
8日目 6月12日 水 雨
オスロ発7時42分 ベルゲン鉄道→フィヨルド山岳地帯入り口のミュールダーで乗り替え
フロム登山鉄道→美しい渓谷を通りフロム着13時30分 昼食 フロン発14時40分
遊覧船でソグネフィヨルドの観光(2時間)→グッドバンゲン→ボス着17時30分 ボス泊
今日の旅行目標は、自然との対話である。オスロから山を越えてフィヨルドを船で観光する行程である。身支度はそれぞれ衣替えの冬支度高野君は革製スーツ、私は冬用ジャンパー、小林君は厚着の夏支度。それにしても生憎の雨であった。

ベルゲン鉄道
ベルゲン鉄道の明るい赤色の電車をバックに記念撮影をしてから出発した。座席は我々日本人には広すぎるほどゆったりとしている。この列車でミルダールまでは、ひたすら山登りである。

カール壁を落下する滝 車窓より
車窓に展開する景色は刻々と変わり、飽きることはない。はじめは湖とそのほとりに展開する街を走り、次にカール底に流れる川沿いに走り、高度が上がるにつれて、カール壁の上部から川を見下ろしながら走るようになる。ライラックの紫の花から、白樺の林になり、それが、青葉から若葉、芽ふきの頃になりやがて芽ふき前の荒涼とした木々へと変わってゆく。川沿いには鮭やマスを捕る小屋がけがしてあったが人影はなかった。
カール底の湖には未だ薄い氷がすじ雲のように広がっていた。またカール底の堆石やカール壁の石や岩石にはゼニゴケが生え薄緑色に見えた。カール壁を滝が数百b糸を引いて流れ落ちている。この壁の上部は雄大な山岳地帯に繋がっているのである。滝の近くで列車は停止し、プラットホームへ出て滝の参観をした。近くで見る滝は水量が豊かで水を吹き上げ飛沫を飛ばして流れ落ちていた。ノルウェーでは、この豊かな山の水で発電し、使い切れない電力をスウェーデンへ売っているそうです。羨ましい限りであります。
さてミュールダールからはフイヨルドの標高0bまで、登山電車でのスパイラルな駆け下りである。滝がカールを流れ落ちるのを、上から眺めたりしながら谷の底へ廻りながら降りていった。終点フロム下車。ここで昼食。
昼食後ここから遊覧船で、ソグネ・フィヨルドの観光に出発した。ソグネフィヨルドは長さ2百q、深さは世界最深で1300bに達する。ここには何処よりも透明で新鮮な水と空気 また 深い森が残されているとガイドブックに書かれていた。
だが現実は小雨にフィヨルドは霞み、その良さを十分に満喫する状態ではなかった。デッキには寒くて長い間はいられたものではない。これも自然である。ガイドによれば、海水は水で薄まり涙ぐらいの塩味、鮭・マスなど魚は豊富であるとのこと。

ソグネ・フィヨルドに注ぐ滝 遊覧船より
外は寒いので、船室の窓越しにカール壁を見上げる観光であった。天気が良ければ、デッキ鈴なりの状況だったと思うが.........。船室の座席もほぼ満席、水蒸気で曇る窓を拭き拭きの観光である。

ノルウェーの中学一年生
その中に、ノルウェーの中学一年生だという生徒が、男女併せて15〜6人が乗り合わせた。既に夏休みに入っているとのこと。何処の国のこの頃子供がそうであるように、わいわい騒いだり、笑ったり跳ねたりして開放感に浸っていた。私も気づいてみたら、いつの間にか子供達の輪に入りワイワイ、ガヤガヤやっていた。
フィヨルドの観光を終えてホテルまでは、バスでカールの底を走り、峠を越えて湖畔の街ボスへ。
途中標高370bに建つステルハイムホテルに立ち寄る。その目的はホテルの中庭から見下ろすネロイ渓谷の景観である。思わず何枚かの写真を撮った。これもカールである。ホテルからら道路へ出る途中で、水量豊かなレシブ滝とスタルハイム滝を間近で参観した。
ボス泊 パークホテル
ベルゲン
9日目 6月13日 木 曇り
ホテル発9時45分 バスで港町ベルゲンへ、午後市内観光。市内で最も古い木造建築ハンザ博物館、古い街並みが残るされているブリゲン、作曲家グリークの家などをまわった。
ベルゲンはバイキング時代の根拠地であり。またオスロが首都になる前の首都であった。またハンザ商人が一手に干鱈を買い占めたハンザ商人の活躍した街である。自由時間にハンザ博物館のまえにある青空市場を見て回った。ここでの主役はなんと言っても漁貝類である。テントの屋台が十数件並んでいる。品物が豊富で、新鮮で値段も安い、ここで蟹の缶詰やキャビアなどを購入した。毛皮類も随分安く売っていた。
ハンザ‐どうめい【―同盟】
(Hansa; Hanse ドイツ 「商人の仲間」の意) 13世紀から近世初期にかけて、海上交通の安全保障、共同防護、商権拡張などを目的として、北ドイツ、特に北海・バルト海沿岸のドイツ人諸都市が結成した有力な都市同盟。リューベックが盟主。16世紀以降次第に衰えた。
ハンザ博物館
1702年建築という市内で最古の木造建築の中に、16世紀のハンザ商人の倉庫兼住居が再現されている。天井から干鱈が下げてあったり、汚い布団とベッドがあったり、その頃の匂いがしてくる感じであった。逞しい商人達の生活ぶりが偲ばれた。

グリーグの家
海を望む木立の中に、山荘風の白く塗装をした木造の小さな家がある。これがノルウェーの大作曲家グリーグの家である。彼が生活をしていた当時のままに保存されている。グリーグの家のそばに、コンサートホールがあり、2百人収容のこぢんまりした物であった。小人数で音楽を鑑賞するには、もってこいの環境のように見受けられた。これは現在も使っている物である。
ブリッゲン
ブリッゲンとは埠頭の意味であり、同じ様な形をした切り妻型の木造家屋が軒を連ねている。ハンザ同盟時代のドイツ商人の住居と仕事場、倉庫を兼ねた物であった。今は土産物店やレストランなどになっている。これがベルゲンのシンボルとのこと。
スイテル エドバード グレイグ ホテル泊
この頃になると、疲れが出てきて、夜は囲碁をする元気が無くなってきた。
コペンハーゲン
10目 6月14日 晴れ
ベルゲン発6時55分、デンマークの首都コペンハーゲンへ 着8時15分着
午前は市内観光 午後は自由行動
市内観光は専用のバスで、ゲン王室の居城アマリエンボウ宮殿、国盗り物語のデンマーク版の伝説を伝えるゲフィオンの噴水、人魚姫の像などを見て回った。
デンマーク【Denmark・丁抹】
北ヨーロッパの立憲王国。ユトランド半島とその東方の島々から成る。面積4万3千平方キロメートル。人口523万(1988)。住民はデーン人、言語は北ゲルマン語系。9世紀から14世紀にかけ、海洋に進出して国勢盛ん、一時は北欧全域を併合。国民は新教(ルーテル派)を信奉。首都コペンハーゲン。
コペンハーゲン【Copenhagen】
デンマーク王国の首都(1443年以来)。バルト海の入口、シェラン島の東海岸に位置する港湾都市。
北欧の経済・文化の中心地。人口46万9千(1987)。デンマーク語名ケーベンハウン
デンマークは、世界地図では虫眼鏡で見るほど小さな王国である。9−11世紀の昔、ノルマン人として、ジブラルタル海峡を通って地中海に勢力を広げたバイキングの一員である。その子孫達は、世界で最も古い王国を築き また 北欧4カ国のリダーとして君臨したこともある。やがて、沢山の童話やおとぎ話を生んだ。そして今ここに、彼等自らが豊かな暮らしを誇る現代の"おとぎの国"になったのである。そのおとぎの国の人魚姫が港を守るコペンハーゲンは、北欧の国々の表玄関であり、また社会福祉の充実、女性の職場進出の先進国として世界をリードしている。400年も前の王クリスチャン4世(11歳で即位し、在位60年間の名君)の遺産に囲まれ見るべき物が多い。市内は、人も多く活気が感じられた。
午後の自由時間は、娘理恵の案内で、高野君、小林君と一緒にアマー広場の人混みに揉まれながら、王冠と3本の波形マークで有名なロイヤルコペンハーゲンやシンプルなシルバーアクセサリーのあるハンスハンセンを見て回った。私はハンスハンセンでシルバーのネックレスを購入して帰ったがこれは喜ばれた。この後高野君はチボリ公園へ、小林君はナイトバーへ、私は孫を抱きに理恵の家へと三者三様の自由行動を楽しんだ。

チボリ公園
理恵の家からは夜のチボリ公園を散策してホテルへ帰った。チボリ公園は、何千ものイルミネーションに彩られた宮殿・照明を浴びて輝く噴水やレストラン、湖水に黒々と浮かぶバイキング船などファンタスティックであった。ホテルまで、理恵とバリさんと開に送ってもらった。
コペンハーゲン アドミラル ホテル泊
11日目 6月15日 土 晴れ
ホテル出発9時15分バスで ハムレットの舞台となったクロンボウ城など北シェランド島の古城巡り。観光後、空港へ。16時35分コペンハーゲン発→パリ乗り替えで一路帰国の途へ
クロンボウ城への途中ヘルシゲルという港町を通った。フェリーの向こうに、対岸数10q足らずの処にスウェーデンのヘルシンボリという街が望めた。このフェリーで列車も運べるとガイドは話していた。
クロンボウ城は外観だけ、堀で遊ぶ白鳥が印象的であった。フレーデンスボウ宮殿も外観だけ。現王室の春と秋の居城である。バロック様式、青い屋根に白い壁、近代的な建物の感じがした。

ファース湖
ァース湖のあたりで記念撮影をした。

フレデリクスボウ城(博物館)
フレデリクスボウ城(博物館):この城は、デンマークで一番美しい城と言われている。言われてみるとルネサンス形式のこの城は、庭に大きな噴水があり また 幾重にも塔が建ち並び、赤煉瓦造りの壁と青い屋根も程良く調和がとれている。周りは湖に囲まれていて湖水に浮かぶ城の感を呈している。
内部には、この国の長い歴史を語る装飾、絵画、宝物など数多く展示されていて興味深く参観できた。
この北シェランド巡りでは、デンマークの田園風景の中をバスで走る旅でもあった。緑濃いナナカマド、赤ブナの木、黄色の花を付けているニセアカシア?、デンマーク特産の赤い牛の遊ぶ広々とした牧場など。どの一つをとっても絵になりそうな風景であった。
一日観光であったが、宮殿、海、湖水、広々とした緑濃き田園、牛の遊ぶ牧場、樹の下で食べた昼食のサンドイッチパンなど疲れを感じさせない日であった。
12日目 6月16日 日 晴れ
帰国の機内では囲碁をする元気もなく、お互いに、うとうとして過ごした。
成田空港15時着......
12日間の旅が終わった。
エピローグ
"旅終えて、熱燗一本 梅雨の雨"
学友高野君、小林君をはじめ一緒に行動することの多かった小倉さん、元トヨタ勤務のエンジニア夫妻、アメリカの女性を征服した先輩夫妻、小林君となんかあったロボット夫妻、デンマーククローネを快く貸してくれた一人旅の紳士、小柄なピチピチとした奥さんと相思相愛の夫妻、写真好きの優しそうな旦那を支えるがっちり奥さん、囲碁好きなおじいちゃんとボリュウム満点の孫娘、ロイヤルコペンハーゲンで、8万円もする絵皿を買った優しい紳士とボリュウムのある美人の奥さん夫妻、それに、添乗員の森山さん、ガイドの女性の皆さん。一緒に食べ、語り合い、写真を撮り合い等々、お陰様でとっても有意義な楽しい旅をすることが出来ました。
振り返れば、赤の広場、夕日に輝くモスクワのアパート群、幻想的な教会、バルト海に白く尾を引いたスクリューの航跡、湖と緑の木々、今を精一杯に咲き誇っていた北欧の花々、フィヨルドと船上での明るい子供の笑顔、王様の勇ましい銅像と宮殿、ファンタスチックなチボリ公園........。走馬燈のように脳裏をよぎっていく。チャンスがあったら再度訪れてみたい。完

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