南アフリカ他
南アフリカ、ジンバブェ、ボツワナの周遊
1996年(平成8年)11月9日〜11月21日
プロローグ
アフリカ大陸は、アジアやヨーロッパとは、アラビア半島を境につながっている。北半球から南半球にまたがる大きな大陸である。
オランダ、ポルトガル、スペイン、イギリスなどのヨーロッパ人は、スエズ運河のなかった頃は、アフリカ南端の喜望峰を周り、インド洋を経て、東南アジアや日本に渡来したものである。喜望峰の発見は1448年ディアス(ポルトガル人)、ポルトガル人の最初の訪日は1543年である。
アフリカ【Africa・阿弗利加】
(ローマ人がカルタゴ隣接地方を呼んだ語。のち、南方の大陸全土を指した) 六大州の一。ヨーロッパの南方に位する大陸。かつては暗黒大陸といわれ、ヨーロッパ列強の植民地であったが、第二次大戦後急速に独立国が生れ、その数は52に達する(1990)。イスラム世界の北アフリカとサハラ以南の黒人アフリカとに分れ、南端には南アフリカ共和国がある。面積3030万平方キロメートル。人口6億1千(1988)。
今回もロシア・北欧の旅と同じメンバー、高野昭君、小林文治君と私の3名。近畿ツーリスト『熟年の旅』主催。一行は18名。添乗員は大字(おおじ)さん。
出発
1日目 11月9日 土 晴れ
"のこり菊 もう一度見て 旅に発ち"
女房に送られ、蓮駅から理恵、開(孫)と一緒に成田へ出発。理恵はバリさんを迎えに、成田空港まで同道した。長野駅で高野君と一緒になり賑やかな車中であった。
成田から香港乗り替え、南アフリカ ヨハネスブルグ経由でジンバブェ共和国へ。
ジンバヴェ
2日目 11月10日 日 晴れ
ジンバブエ【Zimbabwe】
(バンツー語で「石の家」の意)アフリカの南部、英連邦に属する共和国。もと南ローデシア。1980年独立。面積39万平方キロメートル。人口887万(1985)。首都ハラレ(旧称ソールズベリ)。大遺跡:南東部にある石造建築の大遺跡。11世紀頃から18世紀にショナ族などアフリカ人が建設。
○ザンベジ川のサンセットクルーズ
ジンバブェ共和国のビクトリアホールズ空港へ降り立つと、南緯10数度の熱帯の気温は、冬支度で残菊の世界から舞い降りた私には暑い。ジャンバーとセーターを脱いで小脇に抱え、今夜の宿舎へバスで向かった。辺りのサバンナは乾期のため草は冬枯れ状態、人家は殆ど無く人影も見あたらなかった。人口密度の低いアフリカらしい殺風景な光景であった。

火炎樹
ビクトリアフォールズの中心街にはいると、大きなホテルがあったり、緑の樹木に混じって、豆科の桜の大木より大きな火炎樹の真っ赤な花が一際目立っていた。
ホテルで半袖に着替えて、船に乗り込んだ。乗り場は、ホテルの地続きにあり、川は野尻湖ほどの広さがあり、はじめは湖だろうと思っていた。「私が大きな湖水ですね」と周囲の人に話しかけたが異議を唱える人はいなかった。暫くしてここはビクトリア滝の上部でどんぶりのようになっているザンベジ川の一部であることが分かった。
ガイドブックに、船内は酒は飲み放題と書いてあったが、ビール350ミリリットルビンがUS$1ドル弱だった。緑色の瓶に入ったビールはオランダ風の味で、私好みの飲みやすいビールであった。川の対岸はザンビア共和国、こちらはジンバブェ共和国、それぞれの岸辺には、殆ど人家はなく、穏やかで、平和な感じである。行き交う船ではお互いに手を振り合いながら、夕暮れ近いザンベジ川クルーズを楽しんだ。

ザンベジ川の落日
ザンベジ川の落日は船を止めて見た。あちこちでカメラのシャッター音のする中、川面に光を揺らしなら陽は静かに椰子の葉影に落ちていった。
"ザンベジの 川面を染めし 一陽の暮"
3日目 11月11日 月 晴れ
ヴィクトリア滝【Victoria・Falls】
アフリカ南部、ザンビアとジンバブエの国境にあるザンベジ川上流の大瀑布。1855年リヴィングストンが発見。幅1700メートル、落差は季節変動により76〜105メートル。
○ビクトリアの滝

バオバブの木
世界三大大樹の一つ『バオバブの樹』を見てから、ビクトリア滝に向かった。昨日のように半袖シャッツだが、それでも暑い日であった。ビクトリアの滝は、北米のナイヤガラの滝、南米のイグアスの滝と共に世界三大瀑布の一つに数えられている。高さは最大110b幅1700bの滝がビクトリアの滝である。ここは1885年にイギリス人の探検家D.リビングストンにより発見され、当時のイギリス女王ビクトリアの名をとりビクトリア滝と名付けられた。私達はガイドの先導で東側の滝に向かって進んだ。
周りは自然が手つかずの状態の草原と樹林帯が展開している。その草の中に踏み固められ細々と続く一本道を一列になって歩いた。バッファロウが保護区の網を破って出たとの情報が伝わり、私達は恐る恐る周りに気をつけながら歩いた。ガイドも神経質に私達を誘導した。

滝の東側は、渇水期の為枯れ滝(写真)、残念だった。でも滝に浸食された断崖が切り立ち、足下100bもある谷底を青いザンベジ川が流れている様は、規模は小さいが、コロラド峡谷のようであった。この表現は私の想像的表現で、私は未だ、コロラド峡谷は見たことがないのである。辺りの岩は黒くて玄武岩のように硬い岩石であった。
西側へは、バファロウを避け、大きく迂回して行った。 滝の入り口には、この滝の発見者リビングストンの像がいかめしく建っていた。

悪魔の滝
その広場を過ぎると『悪魔の滝』が突然目に飛び込んでくる。滔々と流れ落ちている美しい滝である。 雨季にでもなれば、悪魔のような音と水煙を上げて流れ落ち、近づきにくい滝だそうだ。

メインの滝
川に沿って東に『メインの滝』があり、水量も豊富であった。 だが全体を通して、思っていたより乾期のためかもう一つ迫力に欠ける滝であった。オプションで、ザンビヤ川上空から滝を見る予定であったが、水量が少ないので中止した。その代わりに、ワニ園、黒人各部族の伝統的な生活村、青空市場などを見て回った。
○各部族の伝統的な踊り

ジンバブエの伝統的な踊り
夕刻、ジンバブエの伝統的な舞踏観賞に出かけた。入り口でクドウの角笛や元気の良いかけ声に迎えられ、会場に入った。会場といっても屋外に観客席を設けただけの簡素なもの、舞台は観客席に続く地面である。楽器は木琴・太鼓、笛、カスタネット、その他原始的な打楽器である。踊り手は次々に繰り出し、大地でエネルギッシュに、跳びはね、転がり、楽器は狂ったようにテンポの速いジャズめいたメロデイを奏でる、多分神に捧げる舞踏だと思うが素朴な動きの中に、何か物語を感じさせるものであった。面をかぶって踊ったり、ざるを持って踊るもの等は日本の祭りにも出てくるような仕草であった。
ボツワナ共和国のチョベ国立公園
4〜5日目 11月12日〜13日 火、水 両日とも晴れ
車で国境を越えて、ボツワナ共和国のチョベ国立公園へ
ボツワナ【Botswana】
アフリカ南部の、英連邦に属する共和国。1885年以来イギリスの保護領であったベチュアナ
ランドが1966年独立。面積60万平方キロメートル。人口121万(1988)。首都ハボローネ。
○チョベ国立公園で動物の観察
午後の3時過ぎ、ジープ2台に分乗して、動物を見て回った。砂塵を巻き上げて、凹凸の激しいサバンナをチョベ川沿いに走る。先ず目に付くのは象がなぎ倒した樹木である。象は2万頭もおり、(アフリカでは一番多い)増えすぎて困っているとのこと。

チョベ川辺りの象の群
ここの象は真っ黒でアフリカでは最も大きそうである。その他、インパラ、クドウ、ウォーターバック・バッハロウ、等の草食動物。猿、イノブタ?、ライオン、クジャク・ほろほろ鳥、はげ鷲などと種類や数が多く、楽しく見て回った。写真は
翌朝は朝の5時頃、ジープでライオンのウオッチングである。60q/時くらいで走るから必死になってつかまっていないと振り落とされそうである。走れども走れどもライオンは見あたらないので、今日は駄目かなと思った頃、子連れの3頭のライオンが悠々と道路を横切っているのに遭遇した。チョベ川沿いに引き返してきたところに、5〜6頭のライオンがいた。

小林君がびびったライオン
私の足下3bくらいの処にライオンが寝そべっており、そこで車を止めた。もし跳びかかって来たら、どの様に逃げたらいいか考えながら見た。十分に食べ終わった後のようで、落ち着いた顔つきで寝そべっていた。小林君は「怖い!うえ!?」とか言いながら、だいぶビビっていた。無理もない、彼の足下に野生のでっかい雌ライオンが寝そべっているのであるから。
○サンセット・リバークルーズ(12日の夕刻)
乗合船に分乗して一寸したチョベ川クルーズに出かけた。チョベ川はザンベジ川に劣らない大きな川である。川から見ると動物はやはり国立公園だけに、その種類も数も多い。
バファロウやウオーターバック、インパラなどの草食動物の群が、のんびりと草を食べていた。カバの群やワニの群も身近に見ることができた。夕方のチョベ川は時折クルーズ船が行き交う、私たちも動物たちに、あのように見られているのかなとかと思って見た。私達が一方的に動物を見ていると思っているが、それ以上に動物に私達が観察されているのかも知れない。サンセット(落日)はザンベジ川同様に美しい光景であった。
13日、ライオンを見てから、車で国境を越えてビクトリアホールズへ−空路→ジンバブェの首都ハラレへ ...ハラレ泊
ジンバベの遺跡
6日目 11月14日 木 晴れ
○大ジンバブエ遺跡の観光
遺跡は、ジンバブェの首都ハラレから300qの距離にある。朝早く車2台に分乗して出発した。途中で、何回か休憩をとりながら。道路の左右に展開するアフリカならではの広大な風景は私達を十分に満足させる物であった。火炎樹やジャカランダの樹木のあるような所では、車を止め写真を撮ったりしながらの旅であった。

黒人王国時代の石造建築遺跡
遺跡は11世紀から18世紀に栄えた、黒人王国時代の石造建築遺跡である。宮殿と砦を兼ねた物のように思われた。歩いて20分くらいの丘の上にあるのが一番古く新しい物はその下の平地に築かれていた。何れも、花崗岩を焼いて叩いて、煉瓦状にした物を積み上げて作った素朴な物である。文字を持たない彼等のここでの生活はどの様なものであったかは、つまびらかではない。どの様な生活をしていたかは、大変興味がある。こんな仮説はどうだろうか。....王国ができ生活が安定すれば人口が増える、人口が増えれば食糧が不足し、...経済的ないきづまりから、...一つの王国が滅びる。また新しい王国ができ、.....また滅んでいったのであろうか。或いは他の部族によって滅ぼされたのであろうか。.........。
何れにせよ黒人がこの様な偉大な遺跡を築き上げたことは、発見当初は信じられなかった。やがて黒人による遺跡であることが分かり、それは世界的にも驚異であった。
丘の上の遺跡は、大きな自然石と薄い煉瓦状の花崗岩を積み上げた石で迷路のような通路が出来ていた。生活エリアと儀式エリアがありそれが通路で繋がっていた。私を含めた数人は、ここではぐれてしまい、一行の皆さんに迷惑をかけてしまった。黒人の中学生の一団も見学に訪れていた

下のの遺跡は、幅3b、高さ10bくらいに石を積み上げた物が、球場くらいの大きさを、円形に囲った物である。中には富の象徴である石を円錐形(先端は崩れ落ちていた)に積み上げた塔があっ。この富の象徴である塔がジンバブェのコインに刻印されているとのこと。また 生活や儀式に使う各エリアがあったり、少女が女になったのかどうか判定する場所等もあった。
ガイドは黒人の男性、彼が英語で説明し、添乗員の大字さんが通訳するので時間がかかった。辺りは枯れ草と緑の木立があり、なだらかな丘が自然のままに広がっている。ここで大勢の人々が、どの様にして生活したのであろうか。.............................ハラレ泊
7日目 11月15日 金 移動日
ハラレ→ヨハネスブルグ→プレトリア.....泊
南アフリカのプレトリア
8日目 11月16日 土 雨
プレトリア【Pretoria】
南アフリカ共和国の行政首都。トランスヴァール州の州都。海抜1400メートルの内陸高原都市。
人口44万3千(1985)。
○プレトリアの市内観光
プレトリアは南アフリカ共和国の行政上の首都である。各国の大使館もあるので実質上の首都と考えて良い。標高1400bの高原にあり、気候は年間通して温暖である。ガイドの話によれば、10年に一度ぐらい雪も降るとのこと。

ジャカランダの街路樹
ジャカランダの街路樹も多く、花の咲く10月から11月上旬は街が紫の花で埋まる。その為、プレトリアは、ジャカランダシティとも呼ばれている。ジャカランダは、植物学的にはノウゼンカツラ科の樹で、原産地は南アメリカ。実生、挿し木でも増える丈夫な樹である。オランダ、スペイン、ポルトガル、ハワイなどの街路樹にもみかけられるそうである。ジャカランダの花の最盛期には、少し遅かったが、幸い紫の花咲くジャカランダの街路樹を見ることが出来た。桜の花を紫にしたような感じで美しかった。
教会広場、行政官庁の入っているユニオンビル、開拓者記念碑などを見て回った

教会広場とクルーガーの像
教会広場は、この地を開拓した人々が初めて建てた教会の跡である。今は教会がなく、広場になっていて広場の名にのみ歴史の面影をとどめている。広場の中央には元大統領でこの市を創設したポール・クルーガーの銅像が建っている。私達はここでクルーガーの銅像と記念撮影をした。広場の周囲には大統領官邸や旧南アフリカ連邦議会議事堂など由緒ある建物が建ち並ぶ。 開拓者記念碑は、プレトリア郊外の、丘の上にある高さ41bの建物である。正面の階段を上ると、建物を取り巻く形の塀を見渡すこと事が出来る。

円形の塀
その塀には、64の牛車が浮き彫りにされている。この塀は開拓者が当時の原住民に襲われたときのバリケードを意味している。建物の内部の壁には、27の大理石が埋め込まれている。この大理石の板には開拓者の移住に伴う苦難との戦いの歴史や活躍した英雄たちの姿が刻まれている。1937年から13年間の歳月をかけて造られた。ここで言う開拓者とは、オランダから移住した農民のことで、オランダ人と宗教的迫害からオランダに逃れていたフランス人から構成されている。彼等は自らをボーア人といい。はじめは南部に居住していたが、イギリスが南部を支配するようになり、追われるようにして牛車に家財道具を積み、原住民と戦いながら北部へ開拓していった。やがて1910年、南アフリカ連邦を設立し、初代首相には政治的結束を強めたボ−ア人からルイ・ポーターが就任した。
ボーア人たちは新国誕生と共に、自らを『アフリカーナー』と称し、政治はアフリカーナーが牛耳るようになっていった。
彼等はオランダ語から派生した彼等独自の言語アフリカーンス語を英語と並んで公用語に定め、やがて原住民に対しては人種差別法を立法化していった。1913年の頃である。...........1994年南アフリカ共和国の選挙が、全人種でおこなわれて、ネルソン・マンデラが大統領に就任した。そして 人種差別法を撤回して、アフリカーンズのモットーでもある新しい『前進』を始めた。
この様な新しい動きの中で、前記の開拓記念碑は、原住民にとっては屈辱の歴史である理由か、取り壊そうという動きが出ているようである。取り壊さないで欲しい、するとしてもモニュメントを漆喰で塗りつぶす程度にして欲しい。歴史は事実であり、取り壊しても歴史的事実はなくなるものではないからです。

ガイドのピーター氏とボッシュのワイナリーで
ケープタウンでのガイドは、ピーターさんという男性であった。彼の両親は、父はイギリス人、母はアフリカーナーであるという。また弟は、アフリカーンス語の大学へ進学しているとのこと。道路標識も英語とアフリカーンス語が併記されていた。この様なことからも南アフリカの、複雑な国情を感じ取ることが出来る。..............ケープタウン泊
ケープタウン
9日〜10日目 11月17日〜18日 両日とも晴れ
ケープ‐タウン【Cape Town】
南アフリカ共和国ケープ州南西端の都市。自然の良港。喜望峰の北約50キロメートル。州都で、共和国議会の所在地。人口77万6千(1985)。
南アフリカ共和国は、南緯22度〜35度に位置し、日本のおよそ3倍の広さの国である。ケープタウンは、その一番南端に近いところにあり、南にアフリカでは、最初に移民が行われ街づくりがなされ、この国発祥の都市である。また 国会議事堂もあり立法の都市でもある。歴史的には、その所有権を巡ってヨーロッパの列強が戦いを繰り広げたところである。ケープは喜望峰(Cape of Good Hope)のケープに由来している。
ケープタウンでは喜望峰、ケープポイント、テーブルマウンティン、ケープワインの産地ステレンボッシュ、カーステンボッシュ植物園、シーポイント、シグナルヒルからのケープタウンの夜景、ウォーターフロントでのショッピング、ドイカー島のアザラシ島、ボルダーズビーチのペンギン、カンパニーガーデンの植物、南アフリカ博物館、キャッスル・オブ・グッド・ホープ(城塞)等を見て回った。

喜望峰
○喜望峰とケープポイント
きぼう‐ほう【喜望峰】
(Cabo da Ba Esperana ポルトガル) アフリカ南西端の岬。ケープ‐タウンの南約50キロメートル。1488年ポルトガルの航海家バルトロメウ=ディアスが発見、「嵐の岬」と命名。のちポルトガル
王ジョアン二世は、インド航路の希望はもはや達せられたとして「喜望峰」と改名。1997年ヴァスコ=ダ=ガマはここを回航してインド航路を開いた。

ケープポイントの灯台をバックにして
晩春の暑い日であった。標高210bのケープポイントピークへ向かってコンクリートの階段を登って行った。右手眼下に喜望峰を眺めながら。喜望峰は思ったより小さな岬で予想外であった。
ここが長い間、アフリカの最南端と考えられていたところである。実際は、アフリカの最南端はここから東南東へ150q行ったところにあるアグレス岬である。
階段の両側は草花が咲き乱れていた。青い海や花々を眺めながら飽くことなくポイントピークへ到着した。頂上は展望台になっていて1860年に建てられた灯台が残っていた。(現在は使われていない)地図上では、この一帯は大西洋になっているが、ガイドのピーターは、西側は冷たい大西洋で、東側は暖かなインド洋だと話していた。この辺りは岩礁が多くまた風の強い場所なので、たくさんの船が難破したそうである。海底には金やダイヤモンドを乗せた船が、沈んでいるかも知れない等と思いながら海を眺めた。
○テーブルマウンテン、ライオンズヘッド

バラ園から見たテーブルマウンテン
風が強く山頂へのケーブルカーは運休、遂にテーブルマウンテン登山は出来なかった。ケープタウンは、この山裾から海側に向かって伸びた街である。この山が風を遮り良港が出来街が発展したのである。山は砂岩と、花崗岩から出来ていて、板状節理が走り層状になっていた。この辺りのどこからも見える山である。ライオンズヘッドは、テーブルマウンテンに続いてある山で、文字通りライオンの頭のようにぽっくりと盛り上がった特徴のある山である。シーポイントから見たライオンズヘッドが一番美しかった。

テーブルマウンテンから見たケープタウンの町並み
○シグナルヒルで
街のどこからもよく見える山だから、何かあったときの狼煙台の役目をしたところ。だからここへ上がれば街は一望のもとに見渡せる。この山でケープタウンの夜景を見た。函館の夜景、香港の百万ドルの夜景が有名だが、それらを見たことのある高野君が、そのどれよりも広大で素晴らしいという。私は未だ前者のどれも見たことがないので分からないが、広大な無数の色とりどりの光は、何にたとえたらいいのだろうか?すごいの一言に尽きる。
折角南半球に来たのだから、南十字星を見たいものだと思って、探したが見えなかった。帰ってから星図で調べたら、この季節は昼間出ていることが分かった。5〜6月の頃であれば、見えるはずである。
○カーステンボッシュ植物園
ステレンボッシュワイナリーからの帰りに寄った。敷地面積が560ヘクタールもある世界有数の植物園である。テーブルマウンテンの東南斜面に広がるこの植物園には南アフリカに育つ9000種類の植物が植えられ、その総数は、20万本にもなると言われている。この植物園の特徴は、すべての草花や樹木に名札が付けられていることである。高野君も、今まで見た植物園でこれほど花の多いところは見たことがないといっていた。とにかく花が多い。名前は殆どを忘れたが、南アフリカ共和国の国花キングプロチアやストレチア、ボールブラッシュツリー、ピンクッションなど南アらしい色鮮やかな目立つ花であった。この花の中で何枚か写真を撮ったり、一行の集合写真も撮った。

植物園での集合写真、バックの山はテーブルマウンテンの右側にあるライオンズヘッド
帰国
11日目 11月19日 火
ケープタウンから飛び立ったところで飛行機が故障し、また空港に引き返すようなトラブルがあった。この様なことは初めての経験である。桑原桑原 ...ヨハネスブルグ経由で香港へ向かった。機内泊。
12日目 11月20日 水
香港空港へ着いたら、予定した成田行きの飛行機は既に飛び立っていた。他に成田へ行く便がないので、空港のホテルで一泊することになった。初めての香港泊で物珍しかった。ホテル内をうろうろと見て回ったり、孫へのお土産を買ったり、たばこを買ったりした。ここでの土産は孫に喜ばれた。
13日目 11月21日 木
香港発10時...............飯山線蓮駅へ着いたら、女房、理恵、史織、開と大勢が出迎え
てくれた。 旅は終わった。
エピローグ
うっかり者の私は、ヨハネスブルグの空港で、両替をしてお金を数えているすきに、肩掛け鞄を置き引きされてしまった。本当に油断も隙もあったものではない。幸い盗られたものは大したものではなかった。でもこの様なときには、友達は有り難いものです。フィルムをあげようとか、バックはこれを使えとか、鞄は盗られても何一つ不自由なく旅を楽しめた。(この肩掛け鞄は2ヶ月後に返ってきました。珍しいこともあるものです。)小林君、高野君に厚く御礼申し上げます。
トラブルといえば、香港空港のホテルで、何の気なしに見たビデオで、翌朝、6千円も請求された人もいました。
若干のトラブルはあったが、暇をみて囲碁をしたり、学生時代の話をしたり、血糖値の上がるのを心配しながら、南アのご馳走を腹がパンパンになるまで食べてしまったりした旅であった。
見て、匂いを嗅いで、話して、食って、飲んで、歩き回って...........楽しめた南アの旅が終わった。
"旅終えて 冬大根を 囲いけり"
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