カリブ海・メキシコ
1995年(平成7年)11月30日〜12月12日

プロローグ
 高野昭君から誘いがあり、暇な私は、たちどころにOKした。カリブ海は聞いたことはあるが正直言って何処の海だったか分からなかった。調べたら、メキシコと西インド諸島辺りの海であることが分かった。今回の旅は、成田→ダラス(乗り換え)→メキシコシテイ{泊}→メリダ{泊}→カンクン{泊}→コスメル島{OP一日観光}→カンクン{泊}→マイアミ{乗り換え}→オークランド{泊}→ボートカナベラル{乗船}(船中泊)→バハマのナッソー{観光}{船中泊}→ポートカナベラル{下船}→オーランド{ディズニーランドワールド観光 泊}→ダラス{乗り替え}→成田 
時差、15−14時間ある地域の長い旅であった。
カリブ‐かい【―海】
(Caribbean Sea) 中央アメリカ・西インド諸島・南アメリカ大陸に囲まれる大西洋の内海。

出発
■1日目 11月30日 木 晴れ  出発
 機内は、エアコンが効きすぎ喉が痛い。風邪を引いている私には、きつい環境である。食事の後うとうと眠ったら、しっとりと汗をかいてしまった、気持ちが悪い。ビールを2本も飲んだせいか吐き気もする、病状が悪化して旅が出来なくなればと心配になってきた。以後アルコールは出来るだけ飲まないように気をつけた。夜中の2時頃、窓から陽光が射し込んでいる。現地時間では何時頃だろう。ダラス空港へ着く前に朝食{?}が出た。ダラス(テキサス州)はケネディ大統領の暗殺されたところである。ダラス空港着15時24分着(現地時間)ほぼ予定通りに着いた。空港で時間があったので一番。×  18時 ダラスの街の灯りが美しい。
 ダラス発18路45分。機内食が美味しく食べられた。風邪が持ち直したのかな。メキシコシテイ着21時23分。
                    ホテル ニッコウ ヒメコ泊 ながーい一日であった。
   "オーバーが 半袖になる 空の旅"

メキシコシティ
■2日目 12月1日 金 晴れ
 メキシコシテイ滞在。メキシコ中央高原最大の古代都市遺跡ティオテ・ワカンを観光。太陽と月のピラミッドや南北に走る死者の通りなど見て歩いた。
メキシコ【Mexico・墨西哥】
 北アメリカ大陸南部の合衆国。14世紀から15世紀にアステカ文明が繁栄。16世紀以来スペインの植民地。1821年独立。全般に高原で雨量が少ない。鉱産物に富み、工業・農業を主産業とする。面積197万平方キロメートル。人口8273万(1988)。住民は主にスペイン人とインディオとの混血(メスティーソ)と原住インディオで、多くは旧教を信奉。言語はスペイン語。首都メキシコ。スペイン語名メヒコ。
メキシコ‐シティー
メキシコの首都。同国中部高原上にあり、海抜2259メートル。人口883万1千(1980)。

 モーニングコール7時 朝食はバイキング メキシコシティ市内見学に9時バスで出発 ガイドは鎌田さん(40才代の男性、現地の教員と結婚し、長男は大学一年生を頭に三人の子持ち)添乗員は永富さん(30歳結婚して1ヶ月目のほやほや、女性、この道6年とのこと}メキシコは常夏の国・面積は日本の5倍、人口8千700万人その80パーセントは混血、現住民族は15パーセント、標高2,248b{富士山の六合目ぐらいの高さ}、車が多く、週一日は車に乗れない規則になっている。ガラガラヘビが多い。給料は日給制が多く、長くても15日。金が入れば直ぐに使ってしまう。15日の給料も手に
 入れば3日もすれば無くなってしまう。鎌田さんも女房には少しずつ渡しているとのこと。以上ガイドの
 話。言われた通り車は多い。タクシーは緑色のカブトムシ小型のフォルクスワーゲン、これも車が多い
 ためだろうか。

 グァダル−ペ寺院(カトリック)
 ラテンアメリカ最大の聖地。入り口に年老いた物乞いのお婆さんがいた。真っ黒の手を伸ばして悲し
 そうに私を見つめていた、帰りにぼんやりして歩いていたら、あの細い痩せた黒い手がにゅーっと伸びていた。何にもやらなかったが、後でなぜあげなかったのかと悔やまれた。この教会も立派だったが、見た教会は何処も立派だった。そして日本の寺院のような賽銭箱は置かれていなかった。賽銭は年老いたあの黒い手のお婆さんに施すと言うことでしょうか。この様な賽銭の方が暖かみのある金の使い方かな。

 竜舌らんの土産物屋で:メスキーソ(混血)の美人が流暢な日本語で竜舌らんをかざしながら、愛想良く私たちを迎えてくれた。その繊維で作った各季節の神様の貼り絵を売っていたが、私たちには人気があった。私もここで、お金の神様と太陽の神様の貼り絵を購入した。誰かが「ディスカウント!」と言ったが負けてはくれなかった。

土産店で
竜舌らんをバックに、現地の衣装を借りて写真を撮ったがよい記念になった。

ティオテ・ワカン:  メキシコシティより45q、大小数多くの神殿の基壇が林立する『神都』であり、中心の地域だけでもおおよそ18平方キロメートル、メキシコ最大の古代都市遺跡である。紀元前209−150年頃出現し200〜500年頃ピークを迎えたという。

ティオテワカン神殿
13世紀にこの地を支配したアステカ族が、壮大な廃墟を見て、ティオティワカン(神々の都)と名付けた。私は、テレビで見たことがあるのでその概要は分かっていたが、きて見てその規模の大きさに驚嘆した。修学旅行の高校生や中学生が沢山訪れていた。以前、インドネシアのボロブドールへ行ったことがあるが、天に向けて石を積み上げ、信仰する神々を岩石に彫刻するやり方は共通するものがある。これだけの工事をするには、それをする人を支える食糧が確保でき、また、神官をはじめ貴族を養い得るだけの社会的な基盤があったと考えられる。その壮大な国が廃墟と化しているのである。"国破れて山河あり...。"空しい感じもするが、高度な土木技術や儀式や信仰を通しての国的社会のまとまりの文化は、後世に何らかの形で伝承されていったと思われる。

月のピラミッ
 月のピラミッドからら太陽のピラミッドへ移動する途中で皆とはぐれてしまった。心配したが、ガイドの鎌田さんと太陽のピラミッドで一緒になり、ほっとした。

太陽のピラミッド
死者の通りを太陽のピラミッドへ向かって歩いた。何処もそうだったが、物売りが多くて「いらない」と言ってもしつこくまとわりついて来る 「高い!安い!」とか言いながら。一目見て日本人であることが分かるらしい。彼らも生活がかかっているのだからとは思うが、これだけ多くの物売りが、生活できるだけの観光客があると言うことでもある。

 三文化広場:

遺跡の上に立てられている教会と団地
 昔の遺跡(古代)と、17世紀頃の教会(中世)と、周りには団地やホテル(現代)が建っていることからこの名があるとのこと。教会や現代のホテルなどは昔の遺跡の上に立てられている。遺跡の上に遺跡があり、その上にまたそれぞれの時代の建物が建てられ、現在にいたっている。もともとメキシコシテイは、湖を埋め立てて創られていった都市であるから、現在も地盤沈下に悩まされている。その傷跡は見学した教会などでも見かけた。ここもその例に漏れず昔の遺跡のピラミッドは地中に埋もれ一部が発掘されて地表に姿を現しているだけであった。でも、その規模の大きさは、十分に予測できる物であった。

教会の内部
 
ショッピングセンター
 買い方が日本と随分異なり、購入する品物のカードを店員から貰い、カードをレジへ出して支払いを済ませ、カードを店員に渡して品物を受け取る仕組みである。実にややっこしい。革製品が安いように思えた、子牛の皮の上着が120ドル。買ってもいいが持ち帰るのが大変なので見て回っただけ、何も買わなかった。商品の陳列はおおざっぱな感じである。何処かのを卸問屋のように思える場所もあった。
 メキシコは何かと大ざっぱな感じがした。コーヒーはティスプーンが付いていないし、砂糖は大きな入れ物に入っていって、胡椒でもかけるように逆さにして振りかける仕組みである。ショッピングセンターでトイレに入ったら、紙は直径50pくらいに巻いた物であり、ごろごろといった感じで引き出して使うようになっていった。紙が切りやしないかと心配しいしい引き出したよ。全くもう!....。

■3日目 12月 2日 土 晴れ 
午前中メキシコシティ市内観光 カテドラル・ソカロ(憲法広場)広場、国立人類学博物館など
昼食:市内の東京堂というレストランで日本食
午後 空路メリダへ ハイアット リージェンシー泊

 石造りの重厚な建造物の多いメキシコシテイ中心部の観光である。天気はいいが、空は薄くスモッグがかかり暑くも寒くもなく過ごしやすい日和であった。これからはこんな日が多いという。道路のあちこちに銅像があったり、主要な交差点には歴史的な記念塔などがあった。その一つ独立記念塔の近くで昼食、日本食を食べた。久しぶりの緑茶が旨かった。


ソカロ:正しくは憲法広場 ソカロとは広場の意

ソロか広場
市の中心部で、かつては、アステカの王宮のあったところである。

広場にある国立宮殿
現在はそれをスペインが破壊し、跡地に国立宮殿が建ち大統領の執務室と大蔵省が置かれている。

カテドラルソカロ
また、メキシコ全ての教会を統括するカテドラルもあり内部を参観した。地盤沈下が激しく、鉄骨を組んで建物を支えていた。荘厳で立派な教会であった。広場を一周して写真を撮ったりした。広い広場であった。
 国立人類学博物館:オルテガ、マヤ、アステカなどの古代文明から、近代文明まで展示されており、密度の濃い内容であった。現地の大学生や高校生が、熱心にノートをとりながら学習している姿が、印象的であった。ガイドの話してはここの学生は良くノートをするそうである。

マヤ‐ぞく【―族】
(Maya) 中部アメリカのユカタン半島・ベリーズからメキシコ南部・グアテマラ高地にかけて住む、マヤ語を話すインディオ諸族。かつて巨大なピラミッドや神殿を中心に、すぐれた暦法・数学・象形文字・石彫などを特色とする高度な都市文明を築いた。ヨーロッパ人との接触後、カトリックを受容して土着の宗教との習合が進んだ。人口は約2百万。

アステカ【Azteca】
一三世紀末メキシコ渓谷に北方から侵入し、14世紀前半両洋にまたがる一大軍事・経済帝国を築いたインディオの部族。帝国は1521年コルテスの率いるスペイン軍に征服されて滅亡


■4日目 12月 3日 晴れ
メリダ滞在終日 カバー遺跡とウシュマル遺跡の見学 昼食はウシュマルで。夜はユカタン地方のトロピカル音楽の流れる中、メキシカンディナーのフルコース。

メリダ:ユカタン半島北部にある中心都市、ユカタン州の州庁が置かれている。ウシュマル、チェチェン
 イッツアなどのマヤ遺跡探訪の拠点となる街であり、野口英世が足跡を残した街としても親しみ深
 い。年平均気温が26℃の熱帯性気候である。緑の多い街でもある。

【野口英世】
細菌学者。福島県生れ。伝染病研究所を経て渡米。ペンシルヴァニア大学助手、さらにロックフェラー 医学研究所員となる。1911年梅毒スピロヘータの純粋培養に成功。13年進行性麻痺および脊がが梅毒性疾患であることを証明。アフリカ西部のアクラで黄熱病原研究の際に感染して病没。
(1876〜1928)

写真野口英世の銅像
 かつてはこの地に、黄熱病が蔓延したことがあり、野口英世が何回か訪れオラン病院で黄熱病の研究をしたり、スペイン語で講演をしたりしたそうである。そして黄熱病に感染してこの地で亡くなったのです。オラン病院に英世を尊敬する人たちの建てた銅像があり見学した。
ネムノキのような豆科の植物が珍しかった。ウランペアという名だそうです。 遺跡の途中、素朴な『持ち寄り市場』に立ち寄った。教会の傍らの道路に品物を並べて売っている。魚に果物、衣類に雑貨と多彩である。そこでチューインガムの原料を採る木の実を食べた。キューイの様な大きさと外観だが、中は橙色で随分甘い果物であった。この木の木肌に傷をつけて、出る樹液が、ガムの原料になるのだそうです。
ガイドの話では、この地方の人(マヤ民族)は首が短いという。言われてみるとバスの運転手をはじめ皆首が短い。頭に紐を引かけて手荷物を運ぶ習慣が、長い間にそのように進化したのかなと私なりに思った。肥っていて首が短いのだからスマートな体形とは言い難い。ジャングルの中に開けた道をバスはガタコトと走った。

カバー遺跡:

カバー遺跡
 マヤ文明400〜900年プーク様式(この地方独特の様式)石積みのピラミッドを主体とした宮殿。雨が少なく川もないので、雨水を地下に蓄えて生活した。そのような遺跡があった。また雨の神を祀る宗教センターでもあったようである。朝顔のような合弁花の青い花が咲いていて美しかった。高野君とカバー入り口のゲート遺跡をバックに写真を撮った。

ウシュマル遺跡

ウシュマル遺跡の魔法のピラミッド
 マヤ古典期を代表する宗教都市遺跡5〜6世紀頃に始まり9〜11世紀に最も栄えた。ここの遺跡の壁面モザイクは本当に素晴らしい。魔法使いのピラミッドも凄い。規模も大きいし、見ごたえがある。

 ウシュマルの小径にブーゲンビリアの血を吸ったような赤い花が咲いていた。太くたくましい蔓が樹木に巻き付き、あたかもその木の花のように妖しく咲き誇っていた。
夕食は、ダイニングルームでフルコース。肉が多くて、食べきれなかった。夕食後半玄人のかわいい感じのメキシカン舞踊を見た。
メリダ
■5日目 12月 4日 月 晴れ
 メリダ市内観光(メキシコ、ユカタン半島)バスで→チェチェン・イッツアの遺跡観光→カンクン市(ユカタン半島)ホテル シェラントン泊........今日も暑い日だった。

 州政庁
 その一部は解放され自由に参観できるようになっている。そこには大きな壁画があり参観者の目を引く物であった。壁画は、スペインとの戦いやメキシコの歴史上のエピソードを描いた物が多く、大きさや場面など迫力のある物であった。周辺は公園になっていって、植え込みの手入れも行き届いており、市民がゆったりとくつろいでいた。
 メリダから、チェチェンイッツアまでは原生林の中を真っ直ぐに開けた道路を走る旅であった。原生林
 と言っても、この辺りは石灰岩地帯で土壌は浅く また雨が少ない半砂漠に近いところである。樹木もせいぜい2〜3b程の高さである。所々にサイザルという高さ1bぐらいで葉の根本の太さが15pくらいの竜舌らんの一種が自生していた。

サイザル‐あさ【―麻】
(sisal hemp  サイザルはメキシコ地名の英語読み)
リュウゼツラン科の多年草で、メキシコ原産。葉は叢生し、長さ1.5メートル、多肉で先端に鋭いとげがある。花茎は高さ5メートル、開花すれば全株が枯れる。繊維植物として栽培 および 同属近縁種の葉の繊維を精製した麻。船舶などのロープ用。シザル麻。
 トイレタイムも兼ねて、サイザル麻工場を見学した。そこでは、このサイザルを大きなルーラーで押しつぶし緑色の汁を絞り、水で洗って真っ白な1.5bくらいの繊維を造っていた。(家内工業程度)昔はこの繊維で、船舶用のロープを造ったものだそうです。今はバック・人形・マットとかの日用品を造っている。
 この工場でマットをお土産に購入した。お土産の選択条件は、喜ばれ、安くて、かさばらなくて(海外旅行では特に)と思います。人が買ったので釣られて買ってしまったが、ところでこのマットはいったい何に使ったらいいのだろう。バスの中で高野君と話し合った。花瓶敷き、鍋敷き、壁飾り......。丈夫だから汚れたら石鹸をつけてブラシで擦ればいい。それでは足拭きマット?、それには狭すぎる等たわいのない話をした。要は使う人のアイデアで価値ある使い方も出来そうであるというのが結論だった。
チェチェン・イッツア
900年〜1200年にかけてピークに達した。マヤ後古典最大の都市遺跡。平坦な樹海の中に2〜3qの広域に渡って数百の建造物が残されている。この遺跡は、マヤ文明とトルテか侵入後のトルテカ・マヤ文明の複合複合遺跡が特徴である。マヤは、天体観測による時間執着文化であり、トルテカは狩猟民族であり戦闘的な戦士を崇拝するような現実文化であると私を思います。
球技場:勝った主将が進んで生け贄になり、首をはねられ心臓を神に供した。

天文台:

天文台
金星や太陽観測をし一年の長さを正確に割り出している。これは、旧チチエ・イッツアにある天文台。マヤ人の暦は、現代の世界でも最も正確だそうです。
 
エル・カスティージョ:

カスティージョ
高さ23bの美しいピラミッドであった。ここは頂上まで登ることができる。階段がそのまま暦を表す数になっている。階段の数は365段。春分の日と秋分の日だけに、蛇の影が頂上から降りてくるように設計されている。神殿全体がマヤの暦を表している。また このピラミッドの内部には、もうひとつピラミッドがあり、内部が二重構造になっていて、内部の神殿にはジャガーの玉座といけ贄の心臓を乗せる台座チャックモール像がある。
 聖なる泉:神の住む所と信じ、干ばつの時は生け贄を捧げて降雨を祈った。
戦闘による捕虜なども生け贄にしたようである。チェチェンとは泉のほとりのマヤ語。
この聖なる湖を眺めながら、神を信仰することはなにか恐ろしいように思いました。でも国家として民族を統一する手法として、宗教は大事な役割を持っていたことは歴史的な事実である。高野君とキリスト教の布教を通して植民地化していった事実や、日本の鎖国政策の価値について話し合った。この遺跡は絶対的な神と、科学的な暦によって成り立っていた国家の跡のように思います。
 チェチェンイッツアの観光が終わってバスに乗ろうとしたら、運転手が行くへ不明。添乗員とガイドがあちこち探し回るようなこともあった。のんびりとした国である。
 空は青い、陽光は強く影は濃い、褐色の肌の物売りが「友達 高い!安い!」と品物を目の前に捧げる.....。今日も暑い日であった。→カンクン
カンクンのホテルでは、仙台の坂本さんと宮野さん、岩本さん夫妻、上田さん夫妻、一戸さんと浜田さん方と談笑しながら楽しい夕食であった。ルームナンバー312、海の見える素敵な部屋だった。夕暮れのカリブ海は白い波頭を浜に打ち上げていた。

カンクンとコスメル島
■6日目 12月 5日 火 晴れ
 カンクン滞在:オプションでマヤ人の聖地コスメル島への一日ツアーに参加した。夕飯はカンクンの日
 本食のレストランで、今日も暑い一日であった。
  カンクンは最大幅400b長さ22qの細長いL字型をした珊瑚礁の島。島の両端は橋でユカタン半島と結ばれている。年間平均気温28℃、晴天日240日以上常夏の楽園。

ホテルから続いている砂浜
真っ青な澄みきった海と白い砂の輝くビーチは心ゆくまで休日を楽しむ場所である。もっと時間が欲しい。

 コスメル島はカンクンの港から、小さな観光船で 45分ほどの処にある小さな島である。コスメルとは、マヤ語でツバメの生まれるところを意味し、かつてはマヤ人の聖地とされていた。珊瑚礁の海は、「ワンダフル!」の一語に尽きる。そのビーチで私達一行は思い思いに過ごした。水泳をする人が多かった。私は高野君と白い砂浜を散策した。 

コスメル島の海浜で
浜辺近くの砂底の海は空色、少し離れた海底が岩礁と思われる辺りは濃い紺碧色である。ガイド  は、透明度は世界一と話していたがそうかもしれない。私は、珊瑚礁の岩場で海水をすくってうがいをしたが、直江津辺りの日本海の海水よりも塩分濃度が高いように思われた。喉がひりひりして気持ちが良かった。日向は照り返しもあって暑いが、木陰に入ると涼しい。幼き頃見た『冒険だん吉』のマンガに出てくるような、草葺きの小屋が小高いところにあった。二人で上がって、いい気になって涼んだり眺めたりしていたら、そこは見張り所らしく、監視員から降りるように注意されてしまった。この上からの眺めは、見たい物を、人の視線を気にしないでじっくり観賞することが出来ることです。なかなか良かったです。...よ!。
 ここは禁漁区、大小の魚が群をなして泳いでいるのが、海辺からも見えたが、泳いでいると指に軽く噛みついたりもするそうです。それだけ人なれしている魚なのでしょうね。砂浜は12月の陽光に肌を焼いている人で一杯であった。衣服を着てぶらついているのは私と高野君だけ。ビーチはやはり楽しく泳ぐ場所だと思います。この綺麗な海で泳げなかったのは、本当に残念でした。ここではその他、黒珊瑚の加工工場や小さな遺跡を見学した。  ホテルへ帰って6時PM 
 夕食は、カンクン市内の日本食のレストランで、焼き魚定食を食べた。誰かが「お酒、熱燗でお願!!」とか言っていたが......。今日で実質旅の半分が終わった。これでメキシコの観光がおわり、明日はアメリカへの移動日である。今夜の夕飯は『熱燗一本!!』 何かほっとした一時でもあった。

■7日目 12月 6日 水 晴れ  メキシコからアメリカへの移動日
起床5時30分 ホテル出発7時30分− カンクン空港発9時40分−→ マイアミ空港着12時12分(乗り替え)−オーランド空港着14時57分− バスでホテルへ −以後自由行動

カンクン空港でガイド鎌田さんとお別れして機内へ。途中マイアミで乗り替え、入国手続きをしてオーランドへ。オーランドでは旅行鞄の受け取り他手続きで、思ったより時間がかかってしまった。ホテルのフリータイムは外出をしないで、ホテル内を散策したり囲碁をしたりして、のんびりと過ごした。時差はカンクンと1時間、1時間短い一日であった。
カリブ海クルーズ
■8日目 12月 7日 木 晴れ
 ホテル発10時30分−バスでポートカナベラルへ→7万トンの大型クルーズ船、ファンタージ号に乗船−バハマのナッソウへ向かってカリブ海クルーズ。

ファンタージ号
 乗船に手間取り、また船内生活での連絡等で昼食は船内で1時30分。終わって船内全員の避難訓練があった。キャビンはR119 海がじきそこに見える部屋であった。北海道や九州の船旅とは雲泥の相違、私達二人を十分に満足させるものであった。船内を一巡した。繁華街にはこじんまりした店が並んでいたり劇場もあればカジノもある。甲板にはプールもある。レストランも数カ所ある様だが大きすぎて、その全貌は把握しがたい。
 甲板へ出てくつろいだ。暮れゆく陽の中で、ポートカナベラルの景観を飽きることなく眺めた。遠くケネデイ宇宙センターの、『人工衛星打ち上げ塔』のような物も見えた。やがて16時30分ファンタージ号は『BHO―ぼうーーーーー』と迫力のある汽笛一声 大西洋をバハマへ向かって出発した。波の静かな美しい夕暮れの出発だった。
 18時〜20時 ディナー私達のテーブルは、高野君、私、東条夫妻、大西さん夫妻、○○夫妻、武井さん夫妻(諏訪市、下諏訪元国鉄職員)の10名であった。この諏訪の武井さんという方が、飾り気のない人で、理屈ぽくて信州人を代表するような人物でした。テーブルの話題を一人でリードし、一人で話、一人で笑い意気軒昂であった。お陰様でお互いに気兼ねなくざっくばらんに話し合い、2時間もの食事時間を過ごせた。話題の中心は英会話であったが、私も飛行機の中で「ウオータ!」と言ったらスチュアデスが「ワーター?」と聞き返されたことがあった。今度は「ワーター!」と言ったら「ウオーター?」と聞き返された。以後、出来るだけ正しく、はっきりとゆっくりと、大きな声で発音するように心がけた。食後船内見学とショッピングを楽しんだ。就寝11時30分PM

■9日目 12月 8 日 金 晴れ
 昨夜はキャビンのエアコンが効きすぎていて、どう調節しても、毛布一枚では寒くて寝られたものではなかった。トレーナーにジャンパーも着込んで寝た。この季節は寒さに体が慣れているのでしょうか、昨夜から今朝にかけて風邪の状況は思ったより良い。気持ちもすっきりとした。
 起床7時20分キャビンの窓から見ると、波を蹴立てて船は走っていた。今日は、ナッソー入港10時以後フリータイムの予定である。フリータイムは、オプションで『ナッソー ハイライトツワー』に申し込ん
 だ。

バハマのナッソー:甲板から
 朝食後上部デッキへ出てみたら、丁度バハマの首都ナッソーへ入港するところであった。静かな感じの島のように見えた。

バハマのナッソー
バハマ【Bahama】
西インド諸島北部の群島。29の大島と約7百の小島から成る連邦国家。英領から1973年独立、英連邦に属する。言語は英語。面積1万4千平方キロメートル。人口24万(1988)。首都ナッソー。

ナッソーの観光
 10時 宮野さん姉妹など私達を含め日本人6名とアメリカ人と思われる外国人6名が三菱のワンボックスカーに押し込められての観光であった。砦、公園、メーンストリート、カジノ、運転手兼ガイド所有のバナナ畑まで見て回った。

写真は砦の入り口で:右手を挙げているのがガイド兼ドライバー
 途中で車がパンク タイヤ交換が道具不備のため、随分時間を食ってしまった。もう本当にトロトロしているんだから.....嫌になっちゃうよ!英語のガイドなので私には殆ど分からなかったが、幸い一緒に行った方の通訳で概要は理解できた。
  ここで受けた印象は、日本車が多い、黒人の街、人柄は物静かで好感が持てた。住宅はシンガポールを感じさせるような場所もあった。道路は何処も狭い。銀行のあるメーンストリートを、黒人のオフイスガールと思われる若い女性が、ショートスカートにハイヒールで颯爽と歩いていたが、美しいと思った。パリでも感じたことだが、外国人の歩き方は綺麗ですね、ショーウインドウに写る自分の歩く姿を見てガックリしたものです。特に私は歩き方が下手、肩をゆすって小股でちょこちょこと、尻を突きだして歩きますから、もう見たところの悪い標本みたいなものです。

クルージング

船長主催のカクテルパーティ
 5時PMより船長主催のカクテルパーティフォーマルとの指定なので、ネクタイとスーツで出かけた。女性の皆さんは、それぞれパーテイ用の衣装でぱっちりと決めての参加であった。須田さんは和服、東条さんはパーティー用のドレスで....。カクテルとオードブルのサービスがあり、そして舞台ではダンスとオーケストラの演奏と華やいだ催しであった。Sさんの奥さんからダンスに誘われたが、私は踊れないので体よくお断り申し上げた。

 ディナーはイタリア風のフルコース、6時から、武井さん東条さん方と一緒に。今日は高野君のバースディ。驚いたことに、夕飯が終わる頃、黒のスーツで正装した黒人の歌手と思われる人たち五人がケーキを持って現れ、高野君の前に置き、バリトンの大きな声で"ハッピバースディ高野..."と歌い出した。初めは何をふざけているのだろうと思ったが、ケーキを見ると「Happy Birthday TAKANO」と書かれていた。これは本物と分かり、私も大きな声で一緒に歌った。ケーキはテーブルの皆で分け合
 って食べ、改めて高野君のバースディをお祝い申し上げた。心憎い催しである。

 ■10日目 12月 9日 土 晴れ、午後小雨
 今朝は珍しく高野君より早く起床 7時30分 船は既にナッソウを出発していた。午前中は囲碁など
 をして過ごす。


午後 言われてみると、カリブ海に虹が架かっていた。二重に見える大きなものだった。代わる代わるキャビンの窓からカメラに収めた。
  丸の内クラブ主催 謝恩パーティがユニバーサルラウンジであった。内容は、カクテルに、オードブル。近畿日本ツーリストアメリカ支所長の挨拶や・船長や機関士長、厨房関係長など客船三役の表敬訪問があった。
  アトラクション(これが主だったかもしれないが)にくじ引きがあった。私も高野君も当たらなかった。中には、『アメリカ東海岸5日間の旅』を当てた方もあった、旅疲れしていた私は、羨ましいとは思わなかった。夕食は、アメリカン料理のフルコース、高野君と私は、七面鳥のメイン料理を注文したが、味は今ひとつ、旨いとは思わなかった。
 明日は早いので、9時半頃寝たが寝付かれず12時頃までキャビンの窓から海を眺めたりしていた。青い月光の中、船はポートカナベラルへ向けて、白波を蹴立てて走っていた。

■11日目 12月 10日 日 晴れ
 起床5時30分 短時間だがよく眠れた。朝食を7時30分頃済ませ、8時頃から下船のための手続きを始めた。船から降りられたのは10時頃であった。私は腰痛、2時間もの間だらたらしながら立っていたがこれが一番の苦手、何回か座ったり立ったりしながら耐えた。.....もう全くぐずぐずしてるんだから....たまったもんじゃないよ!  まったく!!

デイズニーランドワールド 


ディズニーランドのお城

ミッキーパレードの一こま
 オプションで、オーランドのデスにワールド昼食付きに参加。三つ見て昼食。さすがにディズニーのご本家 素晴らしい!。昼食後ミッキーパレード、夢のフライト,お化け館、ジェットコースターなどを楽
 しんだ。
 沈みかけた夕日の中、ディズニーの大きな人造湖を船で渡ってバスの駐車場へ。造湖の鈍い輝きと、そこへ逆光で影を落とす高級ホテル、夕日に輝くディズニーワールドの玩具のような建造物の数々、素晴らしい景観であった。

 これで今回の旅の、観光は終わりである。今日はよく歩いた。腰はやはり痛かった。宮野さんに揉んで貰ったり、痛み止めを貰って飲んだりしたら、それでも良かった。有り難いことです。夜13日ぶりに入浴、調子も良かったし、後は帰るだけだからと思って。

帰国
■12日〜13日目 12月 11日 月〜12日 火 帰宅
 起床5時30分ロビーに集合、6時40分オーランドの空港へ、バスは薄暗い中を走る。寒気団が流入したとかで寒い、ニューヨークは1bも積雪があったとのこと。オーランド空港8時発 ダラス着9時5
 1分 ダラス発11時15分 
 一路太平洋上を順調に飛行して、成田へは、12日の3時15分着 予定よりも35分も早く着いた。機内で高野君と囲碁を4−5番やっている内に着いた。予定よりも到着時間が早かったが旅行鞄を受け取るのに時間がかかり、4時発の京成電車で上野へ向かった。
蓮駅着10時10分PM。昨日から今日12日まで26時間、殆ど眠らないで過ごした。蓮の駅には女房
 が車で迎えに来ていた。やはり12月、日陰には雪があった。お茶が旨かった。

"旅終えて 師走の雪に 迎えられ"

エピローグ
 始めから終わりまで風邪に悩まされた旅だった。でも高野君との旅であったから、気兼ねなく過ごせたのは何よりの幸いであった。リタイアすることなく、見るべき物は見て、食べるべき物は食い、囲碁を楽しんだりするゆとりもあるよい旅が出来た。今年は高野君とは、南九州の旅に始まり東北の弥次喜多道中1800q、今回3回目の彼との旅であった。今年の打ち上げの旅が豪華に、見る、学ぶ、楽しむ『旅の三要素』満喫できたことに感謝したい。
アメリカとメキシコとバハマの3カ国を回る旅でした。白、黒、褐色、そして私たちのような黄色人種を見たり話したりすることが出来ました。色や言葉は違っても同じ人間皆いい人達だったと思いました。

 コスメル島では水泳をしていました。家へ帰ったら日陰に雪がありました。地球は広いですね。帰ってのお茶と漬け物が旨かった。やはり日本と家が一番いいことが実感できた旅でもありました。