北海道
ぐるっと北海道一回り
94.7.28〜8.9

プロローグ
 北海道へは車で行ってみたいとかねがね思っていた。私は定年後の勤めを辞めてフリーになった
 年である。高野 昭君も行ってみたいという。見学場所のポイントの概略は高野君、その観光ポイン
 トを線で結ぶデザインは私がした。窪田 幸君を誘ったら彼も行くという。こんな車の旅の計画は初め
 ての経験である。資料は「るるぶ北海道」を中心にして計画した。宿泊は北海道へ着いたその日の
 宿舎とキャンプ場の予約だけ、以後は現地で決めることにした。初めての経験なので、何処まで走れ
 るのか見当がつかなかったから。結果は、札幌市宿泊予定が、満杯で旭川市に変えたが、他は計
 画通りにいった。出発日を含めて13日間。北海道をぐるっと一周。キャンプは2日。目的地を最北限
 の地礼文島にした。

日程の概略と所感
出発
■1日目 7月28日 木  出発
JR飯山線、蓮駅着20:06で高野昭君と窪田幸君が下車。これで今回の旅仲間3人が無事に合流
 できた。「やー!」とか挨拶をした中に前途に対する不安と期待が込められていた。
 今日の予定は直江津港からフェリーに乗船することである。富倉峠越えで直江津港へ向かった。こ
 の道は魚釣りでよく通る道路である。乗船手続きもフェリーに車を乗せるのも初めての経験である。
 薄暗い船倉へ車を乗り入れた。思ったよりスムースに入った。従業員が巧みにリードしてくれたの
 で。車の置く場所が1・2・3階になっていた。出るときに車の止めた場所がか分からなくなり、右往左
 往してしまった。
 一番安い大部屋の一角に場所をとり、先ずは乾杯。旅の細部の打ち合わせをしながら。23:50 
 ぼーーーぼーーーー。船は北海道へ向かって静かに動き出した。
         
■2日目 7月29日 金 岩内港下船→ホテルへ
 船内で終日過ごす。船内を散策したり、甲板に出てみたり、囲碁をしたりしてすごした。方向感の乏
 しい私は船内でしばし迷って、自分の部屋へたどり着くのに苦労した。こういうやつは、海難事故に遭
 遇したときは先ず助からない存在なのであろう。
 食事の時間はやはり楽しい一時であった。食堂はテーブルを並べただけの粗末なもの、全てセルフ
 サービス、社員食堂のような感じであった。それだけに気楽、時間を気にしないで、だべれるし、食事
 外の時にはここで囲碁をやったりもした。このように船内は拘束されることは全くなく、自由に行動が
 でき、お風呂もあって、過ごしやすい環境であった。夕方5時頃北海道の岩内港へ着いた。直江津を
 出航してから約17時間経過した事になる。
 下船 3人で車のある場所へ行った。私の車なる場所がわからない。ここにも、あそこにも無い。焦
 れば焦るほど見あたらない。あっちこっち見て回った。足早に。ようやっと車に巡り会えた。
 ほっとしてみたら、高野君はいるが窪田君が見あたらない。見つけて歩いたが見あたらない。とうと
 う窪田君を乗せないまま船から下りた。暫くしたら、窪田君はひょうひょうとして降りてきた。私達を見
 失ってしまったとのこと。申し訳ない。
 直ぐいけると思っていた『ホテルいのう』は道を間違えて、3回も聞いてようやっと着いた。夕飯は海
 の幸ずくめ、私達を十分満足させるものであった。夕食後は明日の宿舎の予約である。予定した札
 幌市は何処も満杯で駄目。予定を変更して旭川市の駅前 越後屋旅館にした。周辺の地図をFAXで
 送ってくれた。夜は暑くてよく眠れなかった。エアコンのないホテルでした。北海道の旅館クラスはエ
 アコンの無いのが普通とのこと。今年は例年にない暑さだと宿の主人は言っていた。

■3日目 7月30日 土  →札幌市→旭川市泊
共和町・小樽市を経由して札幌市へ。途中の集落間は車は少ないし道幅も広く走りやすい道路であ
 った。札幌市内は片道4車線の主幹道路は車の洪水、そこを60q/hぐらいでばんばん走っているの
 だからすごい。脇道へ入って、札幌駅の周辺から駐車場を探したが、観光シーズン何処の有料駐車
 場も満杯であった。デパートの駐車場も満杯。.......有った。旧道庁の道路脇に。1時間¥300
 の縦列駐車である。北海道の観光の始まりである。
【北海道】
わが国の最北端、宗谷海峡を隔てて樺太に対する一大島、北海道本島とその属島の総称。渡島(オ
 シマ)・後志(シリベシ)・胆振(イブリ)・石狩・天塩(テシオ)・日高・十勝(トカチ)・釧路(クシロ)・根室・北見の旧10国
 を含む。
 近海は世界的漁場の一。面積7万8千平方キロメートル。古く蝦夷(エゾ)と称し、または北州・十州島とも
 いった地で、原住民はアイヌ人。邦人の移住したのはほぼ室町時代以降で、江戸時代には松前藩の
 領有地であった。18世紀末からロシア・イギリス人などが来航、1869年(明治2)開拓使をおき、北海
 道と改称。このとき設置された千島国(チシマノクニ)を含めると11国になる。86年(明治19)内閣直属の
 北海道庁を置き、1947年地方自治法で府県と同格の地方自治体となる。道庁所在地は札幌。

札 幌
北海道のシンボル旧道庁

旧道庁
先ずここから見て回った。正確には北海道庁旧本庁舎という。"赤煉瓦"の愛用で道民に親しまれて
 いる。この庁舎が産声を上げたのが1888年(明治21年)間口61メートル、奥行き33メートル塔頂
 部までの高さ33メートルは現在の10階建てのビルに相当する。その後火災で内部は消失した。現
 在のものは1968年(昭和43年)に創建当時の姿に復元された。重要文化財に指定されている。
  時計台

時計台
少し歩いたらそこにあった。思っていたより素朴な目立たない建物であった。これはボーイズビーアン
 ビシャスで有名なクラーク博士に関わる北海道農学校のものであった。建物は当時のアメリカ西部の
 様式。内部の器械はアメリカ産。明治14年8月12日の運転開始から当時の姿のまま時を刻み続け
 ている。内部に入って見学できる。
ここからぶらぶらと歩いて大通公園へ出た。

大通公園 
芝生の中も自由に歩ける。花壇には色とりどりの花が咲き乱れその向こうに噴水があった。冬季に
 は多くの雪像の作られる場所である。噴水の縁に腰を下ろして一休み。北海道の真夏の太陽が眩し
 い。
 北大の植物園へ入ってみた。

北海道大学植物園
市街の中にぽっかりと、自然豊かな広いこの様な場所のあることは驚異である。ゆっくりと見て回っ
 た。北方の珍しいものもあり勉強になった。北大の前身は北海道農学校である。
これで予定した見学箇所が終わった。駐車時間2時間。駅前の辺りは車窓から見学をし、札幌のメ
 イン道路R5号線から道央自動車道(有料道路)を経て旭川へ向かった。風が強く車体の高いワンボ
 ックスカーは、ハンドルをとられ運転しにくい状態であった。  旭川へ着いた。

旭 川
【旭川】
北海道上川(カミカワ)盆地の中央、石狩川上流にある市。上川支庁所在地。
製材・家具・パルプ工業が発達。道央の交通・商業の中心。
人口三五万九千。

アイヌ記念館:参観 

アイヌ記念館
 川村カ子トアイヌ古老(昭和52年没)が私財をなげうって造った記念館。北海道最古のアイヌ文化
 の貴重な資料館である。
 アイヌ【Ainu】 (人間の意) かつては北海道・樺太(サハリン)・千島列島(クリール)に居住したが、現
 在は主として北海道に居住する先住民族。人種の系統は明らかでない。かつては鮭・鱒などの川漁
 や鹿などの狩猟、野生植物の採集を主とし、一部は海獣猟も行なった。近世以降は和人との交渉、
 特に松前藩の苛酷な支配と明治政府の開拓政策・同化政策により、固有の慣習や文化の多くが失
 われ人口も激減した。口承文学ユーカラなどを伝える。アイヌ人には文字はなかった。

ユーカラ【Yukar アイヌ】
(物真似する意という) アイヌに口承されてきた叙事詩の一。孤児として育った少年ポイヤウンペが両
 親の仇討や許嫁(イイナズケ)の奪還のため敵と交える激戦の数々の物語。節(フシ)をつけて語る。広義
 には女性、自然神(カムイ)を主人公とする叙事詩を含む。

駅前の越後屋旅館泊。宿へ入って鏡を見たら目は充血していた。札幌市内や北海道の運転に気を
 つかったためかな。もっとゆったりと運転をしよう。未だ先は長い。宿の女将は話し好きであった。この
 界隈の事をあれこれと話してくれた。

4日目 7月31日 月 →層雲峡へ
「旭川市はその昔屯田兵によって開拓された。旭川博物館へ行けば、その実体がよく分かるから行
 って見ろ」と宿の女将の薦めに従って見学する事にした。
 【屯田兵】 平時は農業に従事している兵。北海道の警備と開拓のために設けられた屯田制の兵。1
 875年(明治8)設置、1904年廃止。


旭川博物館
 旭川博物へ来てみると大勢の人が既に来ていた。さすが宿の女将の勧めるだけあってすごい人だ
 なと感心していた。....ら宗教団体の大会が隣接する建物であったための人出。博物館は私たち
 3人だけであった。屯田兵の厳しい生活の実態が、人形などの模型でリアルに表現されていた。

アイスパビリオン

アイスパビリオンの入り口
一休みを兼ねての見学。遊園地形式、子供連れの家族が多い。私達のような観光目的の人は珍し
 い存在である。体感温度が−20〜40度を体験できると言うのがうたい文句である。防寒服を着て
 内部に入るようになっている。確かに寒い。これも珍しい体験であった。外へ出たらより暑さが身にし
 みる体験であった。
 
 層雲峡への山間の道路は、運転しやすい道路であった。車は少ないし、辺りの景色を楽しみながら
 走った。

層雲峡
【層雲峡】
北海道の中央部、石狩川上流の峡谷。延長24キロメートルにわたって、奇岩・滝・断崖が連なる景勝
 地。大雪山国立公園の一部。


大雪ダム

層雲峡大函滝 枯れ滝だった。柱状節理は見事である。
最上部にある大雪ダム(人工ダム)からホテルに向けてバックしながら観光した。


銀河の滝

流星の滝


大雪ダムから、銀河の滝、流星の滝を見ながらホテルへ入った。

黒岳: ホテルの駐車場へ車を止めて、黒岳(1984M)へ。層雲峡温泉からロープウエイ、リフトを乗
 り継いで7合目まで登った。

黒岳の7合目
 ここから徒歩50分で山頂へ登れる。天気は晴れだが山頂は霧の中。お花畑まで行くかと高野君。
 私は腰痛。窪田はその気がない、結局は止めた。 層雲峡は大雪山国立公園の一角である。
 【大雪山国立公園】
大雪山を中心とする山岳国立公園。日本最大の原始林を保存。
 層雲峡観光ホテル泊  味付けがよく大変に美味しい夕食であった。旅慣れてきたせいか余り疲れ
 なかった。

稚内へ
5日目 8月1日 月 →一路稚内へ 
日本海縁まで下り稚内へ。この間2回道に迷った。迷うと言うことは現在位置が分からなくなることで
 ある。未だカーナビなどのない時代だから、人に聞くとか、道路標識などで現在位置を確認できれば
 いいのだが、ここは北海道、人家は無し、迷い込むような道路には道路標識などはない。10qぐらい
 バックして分岐点まで戻り、出直しである。だから分岐点から新しい道路へ入った当初は何号線か確
 認して走るようにした。こうしていてもうっかりすると10数q走って、これはおかしいぞと言うことにな
 るのである。
日本海縁の道路は、弾丸道路。車は時たますれ違う程度、幅の広い間直ぐな道が地平線の彼方へ
 と続いている。高野君はヨーロッパのようだと言っていた。80q/hで気持ちよく走れる。


サロベツ原生花園
サロベツ原生花園で湿原の草花を見た。お花の時期にくればさぞやきれいだろうと思われた。

ノシャップ岬
 ノシャップ岬で昼食。昼食はウニどんぶりを食った。高野君と窪田君はうまかったそうだが、私の口
 には合わなかった。道がよかったので稚内へは予定より随分早く着いた。宿舎の確認をした後、シー
 サイドの魚市場でタラバガニと毛ガニを購入して各自家へ送った。


稚内市内:稚内公園から
 この後稚内公園へ登ってみた。ここは稚内が一望できる高台にある。

氷雪の門:ブロンズ像はサハリンへ真向かう
 公園のシンボルは氷雪の門 これは樺太(サハリン)への望郷の念とそこでなくなった多くの人の
 霊を慰めるために造られたものである。樺太への玄関、当地にも第二次世界大戦の傷跡が残ってい
 た。
                                          国民宿舎氷雪荘 泊

利尻島
6日目 8月2日 火 →利尻島→礼文島へ
稚内港から東日本フェリーで利尻島へ向かった。天気は晴れ、波は静かであった。

利尻富士:この山を一回りしての観光
 利尻富士が波の向こうにくっきりとその英姿を見せている。最北の地を目指す旅人の征服欲を刺激
 してやまない存在感である。利尻島は道内最大の離島で、中央の利尻山がすそ野を広げたほぼ円
 形の島である。今日は観光バス、向こう任せの観光。
 
沓形岬:バックの利尻山は霧で見えなかった
 利尻島では沓形岬公園―博物館―御崎公園―オタドマリ沼−姫沼を回って見て歩いた。この島で
 生まれ育ったバスガイドの娘さんの飾り気のない話が楽しかった。昼食は時間がないので、ウニそば
 なるものをフウフウと食べたこれは旨かった。

姫沼

姫沼
 湖水の向こうには利尻富士の偉容が見えるはずだが、あいにくスモッグの中ぼんやりと見える程度
 であった。左側の針葉樹はトドマツです。エゾマツは枝先は下を向いていている、トドマツは上を向い
 ているとガイドは言っていました。静寂な感じのする姫沼でした。利子島では、動物では蛇に代表さ
 れる爬虫類は分布していない、両生類はエゾアカガエルがよく見られるだけ。ほ乳類は大型のものは
 いない。イタチ、ミンク、リス、コウモリ、ネズミがいる。リシリムクゲネズミは新種で分類学的には注目
 されているとのこと。

 礼文島 
 フェリーの定期便で旅の目的地礼文島へ。礼文島も宗谷定期観光バスで回った。ここは昭和23年
 5月9日皆既日食の観測基地になったところで名前は知っていた。そのようなことから親しみ感のす
 る島であった。日食観測記念の記念碑があった。バスの中から眺めた程度。

スコトン岬
スコトン岬と元地海岸を見学した。スコトン岬は最北限の地と言い、宗谷岬が最北端の地という。そ
 れは4分宗谷岬より南にあるためとのこと。写真右はスコトン岬とトド島
  元地海岸ではヒスイが拾えるとガイドが言うので、キョロキョロ見たがそれらしいものは見あたらな
 かった。石ころを2つ拾ってきた。  港近くの加藤旅館泊
       
左の写真は元地海岸:写真は全般に霧のためややぼやけてしまいました。

網走へ
■7日目 8月3日 水  網走へ
朝1番の定期便で稚内へ。洋上から遠ざかる礼文島に別れを惜しみながら。ノシャップ岬や稚内市も
 洋上から見ると、その趣は変わり、新しい感じで眺めることが出来た。10:30稚内市出発、先ずは宗
 谷岬へ。

宗谷岬: 

宗谷岬:突端をバックにしてモニュメントは北極星の一稜をかたどったものです。
日本の一番てっぺん、北緯45度31分14秒 宗谷岬の突端には高さ5.44メートルのモニュメントが
 ありその近くに間宮林蔵の立像がある。林蔵は世界地図に日本人としてただ一人その名を残した探
 検家、また幕府の隠密。樺太が島(間宮海峡)である事を発見した。
 これより北へは行かれない北端。ここから折り返しである。オホーツク海を左に見ながら海岸縁の
 国道238号線をひたすら網走へ向けて走った。途中サロマ湖や能取湖を眺めながら走った。

網走の博物館網走監獄へは17:00前に着いた。17:00〜18:00参観

網走刑務所正門:煉瓦150万枚 高さ4.5M

【サロマ湖】
北海道北東部、オホーツク海に臨む潟湖(セキコ)。最大深度20メートル。面積150.4平方キロメートル。カキ
 養殖の北限。

あばしり【網走】北海道東部の市。網走支庁所在地。オホーツク海漁業の主要根拠地。刑務所は有
 名。モヨロ貝塚・原生花園など、観光地としても知られる。人口4万4千。


 刑務所の参観は、5時の入館締め切りぎりぎり間に合った。入ってしまえばせきたてられる事もな
 く、じっくりと参観できた。
  この後丘の上にあるホテルビューパークリゾート泊。この辺りは網走国定公園名勝天都山の一角で
 ある。網走湖が一望できる眺めのよいホテルであった。夕日に輝く湖面は素晴らしい。ジーと見てい
 るとそのなかに解け込んでいくような感じであった。
夜 冷房が効きすぎて、この日以降窪田君は体調を崩し、支笏湖までは車の中で寝て過ごすことが
 多かった。¥1,3000は今回の旅の中では一番高い宿泊料金である。

知床半島へ
■8日目 8月4日 木 →知床半島へ
 折角の網走直ぐ走り去るのは惜しい。オホーツク水族館を参観して知床半島へ向かった。
オホーツク海を車窓左に眺め車は快調に走る。"知床の岬に ハマナスの咲く頃 思い出しておくれ 
 俺達のことを 飲んで騒いで 丘に登れば 遙かクナシリに 白夜は明ける"そんな歌を口ずさみなが
 ら走った。

   
オシンコシンの滝
 知床半島の西側入り口にあるオシンコの滝で一休み。
知床半島の西側の断崖を、船で観光したいと願っていたが、時間がない。車で行けるところまで行っ
 てみることにした。途中から砂利道20qを走った。

カムイッカの滝
 カムイッカの滝は湯が混じっていて生暖かな水であった。

知床大橋
 行き止まりは知床大橋。ここから先は観光の車は通行止め。折角の西側の行き止まり、気持ちの
 良さそうなおじさんにシャッターを押して貰った。ここでは、その人と私達だけだった。

 ここから折り返して知床五湖で昼食。知床の原生林の真ただ中を通って羅臼へ。ウトロ〜羅臼間を
 結ぶ国道334号はその名の通り知床横断道路で、原生林の中を貫く快適なドライブコースである。
 そのほぼ中央にある知床峠は標高738mのもっとも高い位置にある。正面に標高1661mの羅臼岳
 が迫る。峠の辺りは一面のハイマツであった。

知床峠での羅臼岳
 峠を下って羅臼町へ出た。半島の東側を、行けるところまで、先端へ向かって海辺を走った。西側と
 は違って、漁師と思われる小集落が点在していた。行き止まりは相泊温泉。釣り宿の前に「日本最北
 東突端」と書かれた看板があった。 今夜の宿は羅臼町、旅館志賀。名前は覚えやすいが、小さな
 旅館で見つけるのに苦労した。爺ちゃん婆ちゃんが経営する一昔前の旅館であった。「風呂湧いて
 いるから何時入ってもいいよ」と宿の亭主。それではと入ったら風呂の底40pの深さに熱湯のような
 湯が入っている。とてもじゃないがそのままでは入れたものではなかった。こりゃまあえらいところへ
 泊まることになっしまったとぼやいてみたが、後の祭り。宿泊客は私達だけ。飯だというから行ってみ
 たら、毛ガニや刺身など、土地の料理を食べきれないほど出してくれた。近所のお手伝いの叔母さん
 が、かにの食べ方からお給仕を、付きっきりでしてくれた。土地の話から身の上話までする話好きの
 人だった。私達を十分この面では堪能させてくれた。宿泊料金は安いと高野君の弁。
 
 阿寒湖へ
■9日目 8月5日 金 →阿寒湖へ
宿の近くにある望郷台という丘へ登ってみた。根室海峡の向こうに国後島の島影が見えた。思った
 より大きな島に見えた。
【国後島】
千島列島の最西端にある島。江戸前期から知られ、1785年(天明五)最上(モガミ)徳内の千島探検の
 基地となり、1811年(文化八)にはロシア艦長ゴロウニンが来航して逮捕された。

 国道を3本乗り継いで摩周湖へ出た。

摩周湖
 霧の摩周湖で有名なこの湖。幸運にも美しい湖水をたたえたその姿に遭遇することが出来た。21
 qの周囲を200bの断崖に囲まれたカルデラ湖。西側には摩周岳が見守るようにそびえ立っている
 (写真左正面の山)この澄んだ湖には流入する川も流れ出る川もなく、また水位は何時も一定、不思
 議な湖である。                             

 硫黄山の向こうに、屈斜路湖が見える。この山の山裾を回って屈斜路湖へ出た。硫黄山はあっちこ
 っちから蒸気を噴きだしていて、辺り一面硫黄の臭いが立ちこめていた。この蒸気でゆでた卵も売っ
 ていた。山は生きている。

屈斜路湖
くっしゃろ‐こ【屈斜路湖】
(くっちゃろ湖とも) 北海道東部、釧路地方北部にあるカルデラ湖。湖面海抜121メートル。最大深度11
 8メートル。面積79.4平方キロメートル。東方に川湯温泉がある。阿寒国立公園の一部。
 湖畔の砂浜を掘ると湯が出るという。この湯に一升瓶を入れて酒を飲みたいと言っていた窪田君は
 車の中でダウン。ここから阿寒湖への道は国道といっても山道、狭くて、凹凸があり、曲がりくねって
 いた。北海道の走った道路では最悪であった。
 

阿寒湖           
【阿寒湖】
北海道東部、釧路地方北部、雌阿寒岳(1499メートル)と雄阿寒岳(1370メートル)の中間にある湖。湖
 面海抜420メートル。最大深度45メートル。面積13平方キロメートル。ヒメマス・毬藻(マリモ)の原産湖。


アイヌコタン アイヌチセの前で
 寒湖温泉街の中に30数軒のアイヌ民芸品の店が向かいあって立ち並んでいるところがアイヌコタ
 ン。木彫の人形やアクセサリー、アイヌの楽器の店がずらりと並び、雰囲気はアイヌ一色だ。この奥に
 あるアイヌチセでは古典アイヌの舞踊などが見られるというが私達には時間がなかった。私と高野君
 は、このアイヌコタンの直ぐ近くにあるキャンプ場泊。窪田君は体調が悪いためホテル泊。先ず窪田
 君をホテルまで送り、二人分の食事を温泉街で仕入れてキャンプ場へ戻った。このキャンプ場はトイ
 レは水洗式になっていたりして、近代的なキャンプ場であった。夕飯後、アイヌコタンへ出かけた。美
 しいイルミネーションに彩られ、山の湖の感じは全くなかった。アイヌ彫りの熊などの木彫りが主だ
 が、天然記念物のマリモも売られていた。これではマリモも絶滅してしまうのではないかな。  写真

■10日目 8月6日 土 
  朝7:30、阿寒湖観光汽船の遊覧船に乗った。阿寒湖を湖上から満喫するために。先ず湖の北に
 浮かぶチュウルイ島へ渡り、マリモ展示センターでマリモや自然の様々な資料を興味深く観察した。
 又湖東端の深い入り江で大小の小島が浮かぶ景勝地・滝口などを見て回った。これはよかった。

十勝川温泉から広尾町へ
 ここから十勝川温泉へ出てみた。この温泉に高野君の親戚があるので尋ねてみることにした。年
 賀状にある住所だけの資料で探した。あった。残念ながら留守だった。電話をしておけばよかった。
十勝平野のど真ん中を海辺にある今日の宿泊地広尾町へ向かって走った。真っ直ぐにのびる北海
 道らしい道路を。
 
途中忠類ナウマン象記念館を参観した。
 
忠類博物館の入り口


ナウマン象の骨格
 ナウマン象は長野県の野尻湖でも発掘されている。ナウマン象は氷河時代の寒冷な気候に適応し
 ながら20万年から2〜3万年前まで日本列島から東南アジアに生息されていたとされている。ナウマ
 ン象の名称は我が国の地質学の発展に大きな業績を残したエドモンド・ナウマン(ドイツ人)にちなん
 で、大正時代に、命名されたものであることを、ここで初めて知った。そうなんか! いい勉強になっ
 た。近くで見るナウマン象の骨格はすごく大きなものであった。 
 広尾町東陽館泊¥8000 食事、部屋申し分なし。こんなに料理があっていいのかなと思う程であ
 った。窪田君全快。よかった何よりも。みんなでビールで乾杯。

■11日目 8月7日 日   →襟裳岬→支笏湖へ
襟裳岬へ向けて走った。日高山脈が海へ落ちる辺りは黄金道路という。断崖の上を曲がりくねった
 道が続いている。トンネルを抜ければ視界が開け真っ青な太平洋が眩しい。曲がりくねった道路の向
 こうにいくつものトンネルが待ち受けている。

黄金道路の記念碑
この神経の疲れる道路が黄金道路だった。トンネルを抜ければ黄金に輝く断崖道路があるからだろ
 うか。誰がつけたかユニークな名前である。
 
襟裳岬:先端には岩礁が続いている
日高山脈が海に向かって細長くのびている辺りが襟裳岬である。何もない春と歌われた襟裳岬の先
 端へ出た。太平洋に挑むような岬であった。断崖の下では荒波が絶え間なく砕けしぶきをあげてい
 た 窪田君がハマナスの花を見つけた。2輪だけが強い海風にあおられて咲いていた。        
   【襟裳岬】
北海道日高地方南端、太平洋に突出する岬。寒流・暖流の合流地点で海霧が発生しやすい。
襟裳岬周辺は風が強く、風の息で車が揺れる。ハンドルが取られて運転がしにくかった。苫小牧市を
 経て支笏湖へ出た。今日はここでキャンプである。

【支笏湖】

支笏湖湖
 北海道西部のカルデラ湖。湖面海抜248メートル。最大深度360メートル。これは秋田県の田沢湖に次
 ぐ深度である。その深さのため厳寒期でも凍らない不凍湖である。面積78・4平方キロメートル。北岸に
 恵庭岳、南岸に樽前山(タルマエサン)の両火山がある。

支笏湖畔でキャンプ
国設美笛キャンプ場 泊

美笛支笏湖湖キャンプ場の入り口 
キャンプ場へ入る道路が分からなくて通過。ロス時間30分。手つかずの自然の中にあるキャンプ
 場、自然の息吹が身近に感じられるエリアであった。家族連れが多い。
 夜 高野君と窪田君は、薄暗い街灯の下で囲碁をやっていた。私は広尾町から襟裳岬と100数十
 qの運転。神経が疲れて、囲碁をやる気にはなれなかった。窪田君と高野君はテント、私は車の中
 で寝てみた、結構よく眠れた。

■12日目 8月8日 月 →昭和新山→ニセコ→岩内港へ
 支笏湖から40q走って昭和新山へ出た。

昭和新山
間近で見る昭和新山は予想以上に迫力があり又大きな山であった。山全体が燃えているような景
 観に感動した。海抜402M。1943年(昭和18)12月より45年9月にかけて形成。              
 洞爺湖の湖畔を回ってニセコへ向かった。大きな湖で走れど走れど右手に洞爺湖が続いていた。
 途中湖畔で一休み。

900ccの高校生のバ写真右は洞爺湖畔イクと 
 其処で同じように一休みしているバイクの高校生と会った。彼らは私達と同じように3人グル−プ、1
 日の予算は6千円とのこと。その内の一人の乗っていた900CCのバイクと洞爺湖をバックに写真を
 撮った。なかなか格好のよいバイクであった。この他にもバイクで旅をしている何人かの青年とすれ
 っちがった。

 函館を亀の口とすれば、亀の北海道で、首の細くなったあたりにニセコ町がある。山の中の町であ
 る。ここに有島武郎が開放した農場跡地があり、その一角にある有島武郎記念館を参観した。

有島武郎記念館:武郎の銅像の前で
 弟の生馬の記念館は長野県の信州新町にある。信州新町とこのニセコ町は姉妹町の関係を結ん
 でいる。俳優の森雅之は彼の長男である。【有島武郎】 小説家。東京生れ。有島生馬・里見の兄。
 「白樺」の同人。人道主義的傾向が強く、思想的苦悩の結果財産を放棄。作「宣言」「或る女」「カイン
 の末裔」「生れ出づる悩み」など。自殺。(187811923)

 記念館は1978年(昭和53年)に建てられたモダンな建物だった。周囲は手入れの行き届いた公
 園になっている。よい勉強になった。出たところで地元のおばあさんがトマトを売っていた。3人でかじ
 ったが完熟トマトで旨かった。
雑誌ぶぶるに、ニセコ町の近くにある"古里の丘直売センター"が紹介されていたので寄ってみた。
 予想に反してこぢんまりとした店なので見落としてしまい、長万部の近くまで行ってしまった。ここで昼
 食。デザートにアイスクリームを食べた、これは旨かった。無理をして立ち寄るほどの価値はなかっ
 た。
ニセコアンヌプリ
北海道西部、後志(シリベシ)支庁にあるニセコアンヌプリ火山群の主峰。海抜1308メートル。山麓に温泉
 が多く、山岳スキー場として有名。ニセコ。
 ニセコの山道は霧がかかっていて、深山幽谷を行く感じであった。温泉街やスキー場への道路もあ
 り道に迷ってしまった。岩内へ通じる道道456へ出るのに随分時間がかかった。気がついたら道道4
 56を走っていた。狐に化かされたのかな?岩内へ入った。出航は夜中。時間は十分にある。港から
 15qほど海岸沿いを走り、来電温泉で入浴をした。これでキャンプの垢も落としてすっきりした気分で
 乗船できそうである。温泉の向こうに聳え立つ刀掛岩が、霧にかすんでいた。→岩内フェリターミナル
 へ

■13日目 8月9日 火  北海道→自宅へ
岩内港発0:10 東日本フェリー →直江津港着18:10


エピローグ
北海道13日間の旅は終わった。日本海・オホーツク海・太平洋の3大洋の海浜をひた走る旅であっ
 た。これも北海道でなければ出来ないことである。
途中体調を崩すなどのトラブルは若干あったが、3人が無事に帰宅できたことが何よりでした。
オホーツク海岸を網走へ走った道路の昆布の臭いが懐かしい。海から見た利尻山のコニーデの景観
 は一生忘れえない風景である。知床峠のハイマツ。襟裳岬でひっそりと咲いていたハマナ
 ス.........何処でも碁盤を開いてした囲碁....文句一つ言わないでご機嫌よく走ってくれた
 愛車マスターエース.......機会があったら再度北海道の旅へ挑戦してみたいものである。同行
 の諸氏に感謝しながら。


追記
この紀行文を書いた当時はワープロでしたから、写真の挿入は出来ませんでした。当時の印画紙写
 真をスキャナーで挿入して書き直した物です。写真はだいぶ色あせしていました。
(スキャナーはEPSON GT-6600U フイルムからのスキャンは出来ない機種です)

                                     2001.12.22記



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