南九州
船で行く南九州の旅・大阪1日観光
1995年3月26日〜3月31日

プロローグ
私が高野君に誘われ、私が兄伸を誘って3人の旅が現実のものとなった。南九州は、高野君と兄貴は初めて、私は2回目の旅である。未だ学生の頃(昭和24年)、高野君と東京−大阪・名古屋方面の旅をしたことがあるが、その折り東京は兄伸の家で泊まった。兄貴と高野君はそれ以来の再会である。待ち合わせ場所長野駅で、50年ぶりにあった二人が直ぐに分かったと、その後で行った私に話してくれました。
3人の共通点は何処がのんびりしていて細かいようで抜けていることです。だから、他に気を使うことなく、この旅のうたい文句である粋な旅を楽しむことが出来た。
日程の概要・所感
■1・2日目 3月26日〜27日
長野−名古屋−新大阪−大阪南港ターミナル−船中泊→宮崎港―宮崎神宮―平和台―青島(昼食)−サボテン公園―鵜戸神宮―青島温泉泊
朝起きたら積雪3p、女房が駅まで車で送ると言うが断って、10時50分に家を出た。長野駅で、既に来ていた高野君、兄貴と合流して3人の旅が始まった。上田は9pの積雪とのこと、春特有の上雪である。長野から信濃14号特急自由席に乗車。座席もまとまってとれ快適であった。         
  木曽路も雪の中、学友胡桃沢君の話が出た。彼も、今朝は寒いとくしゃみを連発したことだろう。又小野沢宏さんのことなど話し合いながら......名古屋からは、新幹線で大阪−JR環状線で新今宮下車−何回か人に道を尋ねて地下鉄御堂筋線に乗り、ようやっと集合場所大阪南港ターミナルビルへ着いた。車で行くより、電車を乗り継いで目的地へ行くのは、こんなに大変だとは予想外でした。集合時刻より30分も遅刻してしまいました。係の方や同行の皆さん方に平謝りをしました。何かしら、これで一つの旅が終わったような気がした。

船内レストランは、自分の好みの料理を取り、それに応じた料金を払うことになっている。夕飯はやはり楽しい一時。高野君はビール、兄貴は梅割焼酎、私はレモン割り、兄貴の音頭で乾杯。それにしても兄貴の夕食は豪勢であった。刺身に豚カツにあれにこれと、これだけ食べれば、体力は私以上だと感心した。さすがに食べきれないと言うので、豚カツ他をお手伝い申し上げた。ちなみに私は、刺身に鯖のみそ煮である。
船内では両サイドのお二人さんはよく眠っていた。私は、うとうとしていた程度の様な気がするが?。3時頃兄貴は、缶酎ハイをちゅうちゅうと飲んでいた。旅慣れたお二人さんてある。
朝食事前甲板に出てみた。南国の朝風が気持ちよく頬をかすめて行く。青い海に朝日が眩しい。今日はよい天気になりそうである。
朝食は皆一律千円のバイキング料理であった。品数も豊富でなかなかいい。高野君はご飯、兄貴と私はパン。私は、朝こんなによく食べられるなと思うほど食った。お二人も、私以上に負けず劣らずよく食べていた。3人とも快調、天気も良い、よい観光日になりそうである。
宮崎港で、参加者117名が3台のバスに分乗した。私たちは3号車であった。バスガイドはさほりさ
 んと言い、なかなかの美人でプロポーションもいい娘さんであった。又礼儀正しい振る舞いに、兄貴
 感心していた。「これが宮崎交通の営業姿勢だ」とか言って。昨日は大相撲の千秋楽であった。乗客の多くは、TVを見る機会は少なかった。貴乃花と曙戦がどうだったかなと思っていたら。「昨日の千秋楽では貴乃花が勝ち優勝しました」とガイド。「取り口はどうなの」と誰か「見た方はいませんか」とガイド。新潟県から参加したおじさんが「私が見ましたのでしましょう」と上手にその取り口を解説してくれた。これでバスの中の雰囲気もすっかりほぐれたようでした。ワシントン椰子の街路樹を、道路の中央に眺めながら、宮崎神宮へバスはひた走った。こんな景観はやはり南国である。
【宮崎神宮】
 宮崎神宮宮崎市にある元官幣大社。神武天皇を主神とし、草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)・玉依姫命を配祀。神武天皇東征以前の御所宮崎宮があったと伝える遺跡。崎神宮は、市の南北を貫く橘通りの北側にあり、社は伊勢神宮に似た造りで、材は楠とのことであった。ご神木は樹齢600年の大白藤木で天然記念物に指定されている。高野君と兄貴は、邪馬台国や卑弥呼、神代のその頃のことについて、自説を述べあっていた。私も興味を持って聞くことが出来た。これが一人旅でない良さだと思います。写真は宮崎神社和台公園・埴生園
 
左:平和台公園のシンボルの塔   中:埴生園入り口       右:椿の木の下で
平和台公園は広々とした大地の上にある美しい公園であった。八紘一宇と書かれたタワーがこの公園のシンボルである。土台は世界各地から集めた石造り、四隅に4神を配置し、何かしら大東亜戦争を思い出させる様な大きなモニュメントであった。塔の右手に古墳を形どった丘に、武人、踊る人、船、家など400点の埴輪が並んでいた。ここが埴生園である。人をかたどった埴輪の肩に、椿の赤い落花が一つ乗っていたのが印象深かった。そこで一句               
   "埴輪園 椿の落花 肩にのせ"
私は椿の樹下こぼれ日の中で、埴輪と一緒に記念撮影をしてこの公園を後にした。

左:青島の
遠景

右:鬼の洗
濯板
【青島】
宮崎市南部、折生迫(オリウザコ)海岸に近い島。周囲約一・五キロメートル。亜熱帯植物(天然記念物)でおおわれ、殊に檳榔(ビロウ)は密林をなす。干潮時には陸続きになる。

文字通りの亜熱帯植物の繁茂する青い島だった。以前にも来たことがあるが干潮時のため鬼の洗濯板が見事であった。入り口で、集合写真は撮り、青島神社に参拝した。、ビロウジュは未だ早春のため、枯れ葉が目立ち、私達の気を引く存在ではなかった。波状水成岩からなる鬼の洗濯板は、季節には関係なく、その奇観は訪れる者の目を楽しませてくれる。何枚か写真に収めて青島を後にした。風が強く海岸に押し寄せる波は白く泡立っていた。
   春風や 鬼の洗濯 波の泡

この後 近くの食堂で昼食を採った。内容は私たちお年寄りには、丁度いい程度のものであった。食後トイレで用を足して、カメラを忘れてきてしまった。暑くて上着を脱いで用を足し、上着だけもってバスに乗ってしまったのである。出発に際して義姉さんから、くどい程「家のお父さんは呆け始めていて、忘れ物をするから、繁樹さんよろしくお願いしますね」と言われたが、穴が有れば入りたくなりまし
 た。幸いこのカメラは、夕方ホテルの方へ届けていただきました。

サボテン園
堀切峠を越え、車窓左側、フェニックスの並木越しに、太平洋の青い波を見ながら、サボテン園に着いた。私はここは2回目。130万本のサボテンの茂る、小弥太郎峠のこの地は、やはり独特の景観ある。何処か南の島へ紛れ込んだような、感じを抱かせてくれる。腰痛の私は、山の天辺まで登って鐘を突くのは止めて、中腹の土産物店でサボテンソフトクリームを食べていた。高野君と兄貴が鐘を突いて来て、兄貴が緑と赤のソフトクリームを買ってくれた。食べた。いいのかなこんなに食って、と心配しながら。一寸しつこい感じだが、美味しかった。何かに効くようなことをいっていたが。
   
   "早春の サボテン山や 人の花"   
左:サボテン


右:鵜戸神社

【鵜戸神宮】
宮崎県日南市宮浦にある元官幣大社。祭神は草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)

 海蝕どうの中に鎮座するお社である。ここへ行くのがなかなか大変で、四国の金比羅さんの石段のような所を登って、トンネルを潜って、下って、下ってようやっと着いた。お参りをして、又歩いてバスまで帰るのであるから腰痛の私は大変であった。
亀の形をした大きな岩があり、一つ3百円のなんとか玉を投げて、穴にはいると願いが叶うとか、その岩の周辺には沢山の玉が散在していた。これも社の一つの収入源なのであろう。私は、馬鹿らしいのでしなかった。お社はともかく、そこから岩越しに見える海の波と赤い欄干の不自然さが奇妙にマッチして美しかった。そこで一句
   "春風や 赤い欄干 青い波"

天気は良かったが太平洋の波は何処も荒かった。
宮崎は実に植物の多いところである。亜熱帯の植物が気温と多雨に恵まれすくすくと繁茂していた。地域の人々も植物を大事にしている姿勢が、民家の庭先にも十分伺うことが出来た。
青島温泉晃汐亭泊   ウイスキーの水割りで乾杯。3人で一部屋 これはいい。

■3日目 3月28日 晴れ
青島温泉→錦江湾→桜島(昼食)−フェリー−鹿児島市内・城山−大島紬の里−かるかん饅頭工場−霧島温泉泊
昨日に続いて良い天気であった。バスの座席は一日ごとに変わる。今日は、左側の一番前が兄貴、その後に高野君と私であった。今日は、殆ど一日バス内観光。座席には恵まれた。午前中はぼーっとして、バスガイドの説明を聞いて過ごす。九州南部のこの地は、お茶が沢山穫れるらしくて、ガイドの話もお茶に関わるものが多かった。

【桜島】
鹿児島湾内の活火山島。北岳・中岳・南岳の三火山体から成り、面積77平方キロメートル。桜島火山はしばしば噴火、1475〜76年(文明七〜八)、1779年(安永八)および1914年(大正三)の噴火は有名。1914年の噴出物のため今は陸地とつながる。

国分市、都城市を経て桜島に近づくと、噴煙のために、霧がかかったような状態になっていた。ガイドの説明だと、南岳辺りが噴煙を上げているとのこと。桜島に入ると景観が一変した。黒い溶岩が道路の左右に累積していた。兄貴は「浅間の鬼押し出しよりすごいや」と感心していた。火山灰を避けるために、ビワの実に白い袋をかぶせてあった。まるで白い花が咲いているようだ。島は鹿児島市と鹿児島郡大島町からなっている。一つの行政区の方が、何かにつけて都合いいように思うが。写真左は桜島:フェリーから
 この後、鹿児島湾ををフェリーで渡り、鶴丸城跡を左に見て、西郷が最後の五日間を過ごした洞窟を右に見て、城山の見学をした。西南戦争当時の弾痕があちこちにあり、当時のを偲ぶことが出来た。ここは、西南戦争に敗れた西郷方の残兵400名が、最後にたどり着き、総攻撃を加える政府軍に、全員が突撃して散華した場所である。突撃までの23日間、武将は、何を語り、何を思っていたのであろうか。それを知る楠の大木には宿り木が生い茂っていた。彼らが懐かしく眺めたであろう鹿児島の街にはビルが建ち並び、昔の面影は今はない。何のための戦いだったのだろう。桜島だけは、その面影を錦江湾に写していた。何かしらわびしさを感じさせる城山であった。写真右は西郷が最後の5日間過ごした洞窟
大島紬の里とかるかん饅頭工場は施設を見ただけで実演は見られなかった。織物や饅頭を作るだけで、これだけの広大な敷地と施設を入手した経営者の手腕に敬服した。特に大島紬の里でその感じが強い。織り子が低賃金で、過酷な労働に従事させられたのではないかと、可哀想に思えた。高野君とそんな話をした。バスの中では「花は霧島 たばこは国分 燃えて上がるは オハラハー 桜島」とガイドが歌ってくれた

【霧島温泉】
霧島山の南西斜面、海抜600〜850メートルに位置する温泉群。林田・丸尾・硫黄谷・明礬・湯之野など。

霧島温泉の景観:ホテルの窓か


右半玄人さんの踊り

霧島国際ホテル泊 大きなホテルであった。 眼下の眺望がよく、あちこちで湯煙が上がり、温泉地の感じのする場所である。私たちの部屋は十畳に廊下付き、ここで3人、十分満足させるものであった。
食事中は昨晩のように、半玄人の踊り子が、入れ替わり立ち替わり踊って見せてくれた。兄貴は盛んに写真を撮っていた。終日バスの中での1日、3人でビールを2本空けただけだった。
夕食後、旅行社主催のお楽しみ抽選会があり、高野君と私は、漬け物、兄貴は手拭きタオルであった。くじ運はお互いにあまりいい方ではなさそうである。


■4日目 3月 29日 小雨                                            
ホテル霧島神宮−高千穂牧場−えびの高原(昼食)―綾城―綾酒泉の社―宮崎港19:00発 船内
【霧島神宮】
鹿児島県霧島町にある元官幣大社。祭神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)。
【霧島山】
鹿児島・宮崎両県にまたがる、霧島火山帯中の火山群。高千穂峰(東霧島)は海抜1574メートル、
韓国(カラクニ)岳(西霧島)は1700メートル。

 霧島神社は、今からに280年前に建て替えられたもの。朱塗りの立派なお社であった。天孫降臨した、ににぎの尊をお祭りした社である。だから初めは降臨した高千穂の峰に建てられた物だそうである。
 兄貴から1円玉を貰ってお賽銭にした。ガイドの話だと、お賽銭はご縁があるようにと五円がよいそうである。帰って女房に話したら彼女は、100円でなければ恥ずかしいと言っていた。私も今まではそう思っていたが、兄貴の気は心のお賽銭は教えられた。1円のお賽銭は生まれて初めての体験でした。
高千穂牧場は、雨が降り。風が強く、気温も低かった。高野君に教わって、高千穂の峰を写真に収めた。折角の牧場であるから、ここの牛から作ったソフトクリームを、震えながら食べてみた。洋酒とミルクをミックスした、試飲コーナーがあった。私は3杯もご馳走になった。3杯目は、そっと、頂きました。
バスは、あえぎあえぎ谷間をはうようにして、えびの高原へ、ここの、えびの高原ホテルで、ワラビやゼンマイ、こんにゃくの刺身、野菜と豚肉の鍋などのささやかな昼食をご馳走になった。ホテルの歓迎の掲示板に『歓迎 あったか 南九州の旅様』という看板があった。ユニークな看板である。どんな連中なのだろうと思い楽しくなった。写真左ホテルの入り口 標高1200b、韓国岳と白鳥山等に囲まれた、えびの高原は、南九州といえども、早春の今は何もなく、枯れ草と赤松と、岩石の高原であった。そこで一句
   "えび野では 松に枯れ草 春の雨"
私には期待はずれの地であった。他の季節にはきっと素晴らしいところだと想像出来る場所でした。
バスは、草と岩のカルスト地形のような山の腰を周りながら、えびの高原を後にした。途中生駒高原などでトイレタイムとりながら、綾城に着いた。                                  
綾城は、14世紀頃の城を再現した城。小さな山城で当時の城主や刀工の人形が再現されていた。 
 酒泉の社は綾城の直き近くにあった。「ここの目的は大いに試飲すること」とガイドは言っていた。ここの焼酎雲海は有名だから飲めとも言っていた。始めに入った試飲コーナーには焼酎はなくワインだけだった。「飲め!」「目的は飲む」と言われても店の人が見ている前で、そんなに飲めるものではない。ここでワインを兄貴と各4本ずつ購入して家へ送った。焼酎の試飲コーナーは他の所にあった。辛いが旨い焼酎であった。ここにはそのほか、そば処、ガラス工芸、陶芸などの工房を備えていた。温泉もあり入浴料金が1000円と書かれていた。「高い!」と誰か。私もそう思った。ここでも雨は降っていた。

宮崎港で乗船したら、何かしらほっとした。二等の船室も初めは窮屈かなと思ったが、寝る段になったら、結構スペースがあり、一等船室の重ねベッドよりも、ゆったり寝られたように思えた。帰りの船旅は、船内生活にも慣れ、ジーゼルエンジンの音を子守歌に、ローリングやピッチング(これはなかった)をゆりかごのように感じながらよく眠れた。

■5・6日目 3月30日 終日雨−3月31日     大阪観光−そして帰宅
船は予定通り 朝7時30 大阪南港に着いた。南九州の旅は終わった。私たちは日交大阪定期観
 光バスで大阪の1日観光をした。

【大阪・大坂】
京都と共に二府の一。摂津国の一部、河内・和泉二ヵ国の全部を管轄。
大阪湾の北東岸、淀川の河口付近に位する市。府庁所在地。近畿地方の中心都市。指定都市の一。阪神工業地帯の中核。古称、難波(ナニワ)。室町時代には小坂(オサカ)・大坂といい、明治初期以降「大阪」に統一。仁徳天皇の高津宮が置かれて以来、幾多の変遷を経、明応(14921501)年間蓮如が生玉(イクタマ)の荘に石山御坊を置いてから町が発達、天正年間、豊臣秀吉の築城以来、商業都市となった。運河が多く、「水の都」の称もある。人口262万3千。

大阪南港−市内バス→弁天町駅−徒歩−弁天町日交バスターミナル−観光バス9:30発−(阪神高速)→関西国際航空港−(阪神高速)→ハイヤアット、リージェンシーホテル(昼食)→アジア太平
 トレードセンター空中庭園→中之島公園→港町バスターミナル−夕食−大阪発午後10時30分 高速夜行バス→長野着3月31日午前五時→中野着六時
 観光バスのお客は、私たちと東京の出版会社の社員1名、併せて4名の一日観光であった。車は3月16日におろした超デラックスの新車。車内には25インチ画面のナビゲーションシステムが搭載されており、今どこを走っているのか一目瞭然であった。私はこのシステムに興味があったので、車内では結構楽しめた。バスガイドはまだ新米、案内書をそのまま まじめに、そして つっかえ つっかえ、読んでくれ
 た。...が、ナビゲーションがその不足分を十分に補ってくれた。4名の客を相手に説明するガイドさんも大変だろうが、客も遠慮しいしい居眠りをするような気遣いがあり、気骨がおれた。慣れるに従ってガイドの直ぐ目の前で、私は居眠りもした。南九州は、神様と自然の観光であったが、大阪の観光は、超近代的な施設が観光の主体であった。床がピカピカの黒大理石のような建材で出来ているところもあった。こんな処を、昔のように鋲の打ってある革靴や、泥の付いた長靴では歩けないな。これがいいのかな?               
関西空港の旅客ターミナルビルは、まず広い、そしてデラックスであり、清潔な感じがした。昼食は、純日本式、カレイの煮付けがメイン料理。思ったより粗末なものだった。デザートはオレンジジュースとオレンジアイスクリーム、全く気の利かない。アイスクリームはバニラにしたらどうなのかな。私はオレンジジュースを残しました。
空中庭園やアジア太平洋トレードセンターもその中身は勿論違うが、感触は、関西空港と同じものであった。とにかく近代建築やその施設は、すごいの一言に尽きる。
 そぼ降る雨の、中之島公園は、今までとは趣が一変し、私には馴染めるものであった。私でさえそう感じるのだから、ましてやビルの中であわただしく生活している人たちには、この様な場所は、より必要であると思いました。淀川の流れにケヤキの並木がその影を落とし、フェニックスが水面に揺れる。バスガイドを含めて私たち5人は、こんな情景を楽しみながらゆっくりと散策した。中之島公園で、乗客はこ4人だけであった。 終点港町バスターミナルからは、人に道を聞き聞
 き、御堂筋を通り、高速バスターミナルに辿り着いた。文字通りの辿り着きであったが、ここは日本、大きく道をそれることなく、その方向へ行けるものです。荷物を預け、夕食に出かけた。バスが出るまでにはたっぷり4時間はある、あわてたことはない。浪速高島屋の交差点から横町へ入り、いかにも安そうな『源氏』という店で旅の打ち上げをした。酒を十数本飲み4時間近く粘った。旅のことを話し合ったり、自分の来し方の体験や併せて人生を語り、そして歌った。店はへぼいが、楽しい宴であった。
バスは定刻に難波を発車した。この様な夜行急行バスは初めて乗ってみた。トイレは地下室のような所にあり、コーヒーは無料で飲めるようになっていた。コーヒー好きの私には有り難いサービスである。シートは飛行機の座席のようにラジオや音楽が聴けるようになっていた。高野君と兄貴は、すぐ眠り始めたようだが。私はイヤホーンを耳に流れ去る夜景を楽しんでいた。イヤホーンからは、ディックミネだろうか『有楽町で会いましょう』『東京ナイトクラブ』『ああ第2国道』など感傷的なメロデーが流れていた。先ほど飲んだ酒が程良くまわり、私も"....あの子の瞳が忘れられない...さようならさようなら....俺は寂しいんだ...男の定めか一人旅行く.....。"
安っぽい感傷に浸りながら口ずさんでいた。.....誰かに肩をたたかれ、ほっと我に返ると高野君が「長野に着いたので.....。」とにこにこしていた。酔いは完全に醒めていた。

エピローグ
 今回は、レールを走る旅だったが、ひた走るのではなく、ゆとりのある行程は私たちには好評だった。船の旅などは、その最たるものである。高野君と囲碁を楽しめたのもゆとりである。私たちは、何れも好奇心旺盛で弥次喜多的なところがあるから、ゆとりの時間を有効に楽しめたように思いました。高野君と兄貴のお陰で無事にそして楽しい旅をさせていただきました。感謝申し上げると共に、また機会があったら3人で旅をしたいものです。
外は南風が強く、春の雨が激しく降っています。これで先日蒔いた春菜も芽を出すかな。そこで最後につまらない一句
   "やれ出来た 旅行記録や 春の雨" 


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