東北の旅
1995.7.28〜8.3
プロローグ
 東北地方とか奥羽という言葉より私は陸奥(みちのく)という言葉が好きである。陸奥とは、福島、
 宮城、岩手、青森の4県指す言葉です。今回の旅では秋田県も入るから奥羽の旅と言うことになる。
 奥羽とは、陸奥(ムツ)と出羽。福島・宮城・岩手・青森・秋田・山形の6県の総称。現在は一般に東北
 地方と呼ぶ。新潟県も今回の旅の中では広義的には含まれる。
昨年の夏、北海道の旅の折りに東北へ行きたいね、と話題になり、一年間暖めて今回の旅になっ
 た。
 参加者は、この3月に、南九州へ一緒に行った仲間の、高野昭君、土屋伸(私の兄)・と私の3名で
 ある。お互いに気心の知り合った仲なので、気楽な旅を楽しめた。車は、マスターエース2000og
 ジーゼルターボー、全走行距離は、1,880qであった。

日程の概要・所感
■1日目 7月28日 金 晴れ…出発……→平泉
 起床4:50 週間天気予報では、梅雨明けの10日間は晴れ、好天候に恵まれそうな予報であっ
 た。が 旅立ちの当日、天気が気になり外へ出てみた。今日も良い天気になりそうである。玄関脇
 に、未だ子供の雨蛙が一匹、ちょこんと座って私を見上げていた。
   "旅立ちや 天気気になる 雨蛙"

 JR蓮駅朝の6:15 高野君と合流して、この旅は始まった。今日は、平泉まで500q余、この旅の
 中では一番ハードな行程である。
千曲川の東側のオリンピック道路から、栄村、津南町までは、道はいいし、車は少ないし、極めて快
 調であった。十日町にはいると車が多くなってきたが、市街地へ入る手前で右折、山間道路を六日
 町へと向かった。
   "魚野川の 流れで育った子 旅の情けが忘れられず やって来ました 上越六日町"
と歌われる六日町音頭を口ずさみながら走った。これは秋山郷で覚えた歌である。六日町からは、
 時間稼ぎのため関越自動車道で小出町へ出た。魚野川沿いに、国道17号線を走ればもっと趣があ
 ったろうともうが。小出町を右折国道R252号線をJR只見線沿いに会津坂下へ向かった。これから
 は一本道、Navigator高野君も気を使わないですむ道である。景色はいいし、車
 は殆ど走っていないし、私だけのような道を、快適に飛ばした。それにしても車が
 少なすぎて心配になってきた。冗談のつもりで私が「もしかして、土砂崩れで通
 行止めかも」と言ったが、冗談が現実になってしまった。『新潟県と福島県境で土
 砂崩れがあり、全面通行止め』と書かれた垂れ幕が下がっていた。どうしたもの
 か、鏡ケ池という小さな湖水のほとりに車を止め相談することにした。迂回路があ
 るのかどうか尋ねようにも辺りには人影もない。小用をたしたら、草むらに子供の
 アマカエルがちょこんと座っていた。…ふと見ると…誰かが池端を暇そうに歩いて
 いた。道路状況を尋ねようと思い「あのすいませんけど」と声をかけ様としたら、我
 が家の兄貴だった。いやはやどうも、…。女房が、週刊誌に3月生れの私は、『7
 月の旅立ちはよくない』と書かれていたと言っていたが、これほど早くそうなると
 は、と、旅先に、若干の不安を感じた。写真は道路の検討をするお二人さん
   "行き止まり どうしたものか アマガエル"

 通りがかりの地元の車を止めて聞いたら、どうも会津へは出られそうにない。高野君と相談して、結
 論は、2qバックして、栃尾市経由で国道49号線を通る事にした。地図上では20qの迂回になる。
 (実際には35q迂回した)
 ジクザクした部分もあったが、全般によい道路であった。時間があれば、上杉謙信の栃尾城も見学
 したかったが、割愛した。でもここが謙信ゆかりの栃尾市かと感慨ひとしおであった。途中いくつかの
 市や町を通り、道を尋ねたりしながらの走りであった。
ナビの高野君は的確に道を尋ね、方向を指示してくれたので、ドライバーは運転だけ。高野君が、
 「信号青 直進!」私も調子を合わせて「信号まだまだ青 通過 !」と両者が互いに信号を確認しあ
 って安全運転には細心の注意をした。これは、ここだけでなく、全行程を通して声を出して、信号の確
 認や、右折・左折、直進の確認をしあった。長い車の旅では、大事なことだと思います。時折、時期を
 見計らって後部座席の兄貴が魔法瓶から、濃いめのお茶をつぎ、梅干しを添えてサービスをしてくれ
 るので、豊かな気持ちで、運転が出来た。
国道49号線に出た。後は一本道、お互いにほっとした気分。何か一つの仕事をやり遂げたような、
 小さな満足感を味わえた。これが手作りの旅の楽しさではないかと思います。
   "夏旅や 梅漬け食って お茶飲んで"

 49号線は、新潟市と郡山市を結ぶ主幹道路だけあって、立派な道路である。70q/hで無理なく走
 行できた。市街地を走ることもなく、迂回をしたが当初の計画よりも時間の短縮が出来た。会津坂下
 の高速道路へ入る手前で昼食、道端のパーキングエリアに駐車。女房の握ってくれた、梅漬けと芹
 の味噌漬けの入ったおにぎりを食べた。この旅の昼食では津軽半島蟹田の、¥1500円の寿司と、
 このおにぎりが一番旨かった。おにぎりは、何にもおかずをつけない、ただの握り飯がいい。
会津坂下からは、高速道路を283q平泉まで走ればいい。12時を少し回った頃高速道路磐越道へ
 入った。時間は十分にある。私は、鼻歌を歌いながら、右手に猪苗代湖をちらほらと眺め、左手に雄
 大な磐梯山に見守られて、スピードは押さえ気味にドライブを楽しんだ。天気かよすぎて、エアコンを
 フルに回しても、どことなく暑い夏の日であった。
   "夏道や 磐梯山に 青い湖"

 郡山ジャンクションでは、ナビの高野君が「青森左!」すかさず私が「はい左 青森!」と調子よく東
 北道へ入った。郡山を過ぎると二本松市であった。二本松は、今回の目的地十和田湖のほとりに佇
 む乙女の像の作者、高村光太郎の愛妻智恵子の育った実家のあったところである。智恵子抄では、
 智恵子がこよなく愛した故郷の山、そして空のことが書かれている。そんなことを思い出しながら、
 又、二本松市に展開する景観を味わいながら走った。
"花摘む野辺に、日は落ちて みんなで肩を、組みながら 歌を唄った、帰り道 幼なじみのあの友こ
 の友 ああああー 誰か故郷を 思わざる "  こんな歌を口ずさみながら。

 サービスエリアで、一休み。平泉前山ICで高速道路を降り、国道4号線を平泉へ向かった。途中衣
 川を渡ったが、『衣川』その言葉自体は美しい響きを感じる好きな言葉である。但し歴史の上では幾
 度となく兵(つわもの)の血潮に染まった川なのである。衣川の小さな橋を渡れば其処が平泉であっ
 た。

【中尊寺】 
  岩手県平泉町にある天台宗の寺。1105年(長治2)藤原
 清衡(キヨヒラ)が創立し、基衡・秀衡三代にわたって貴族文化
 の粋を移植造営。金色(コンジキ)堂・経蔵のみ残存。
  中尊寺の駐車場で聞いたら今夜の宿 宿坊歓喜荘は直ぐ
 に分かった。宿舎着5時PM、車のメーターは550qを指し
 ていた。宿のお婆さんが、丁寧に私達を出迎えてくれた。お
 婆さんの言葉はだいぶ訛っていたが、金色堂まで歩いて3
 分とのこと。杉林や竹林に囲まれた山間の閑静な宿であっ
 た。アジの塩焼きと小さなエビのフライを酒の肴に、兄貴が
 持参した焼酎に氷を浮かして、先ず今日の日に乾杯した。ユ
 キノシタの天ぷらが珍しかった。  写真中尊寺 宿坊歓喜荘

■2日目 7月29日 土 晴れ …平泉→盛岡市→小岩井農場→田沢湖
 起床6時 朝食前に中尊寺境内を散策した。鬱蒼と茂る杉木立の間から朝日
 が所々射し、白百合の子株が可憐な花を咲かせている。清掃をしている中尊寺
 の職員と、朝の挨拶を交わしながら金色堂,讃衡蔵(宝物殿)中尊寺本堂の辺
 りを散策した。本堂では、朝のお勤めを二人のお坊さんがしていた。ただ拝むよ
 り、読経を聞きながらの方が一段と有り難みがあるものです。お賽銭を上げ、旅
 の安全を祈願した。
  旧覆堂(おおいどう)の近くに、松尾芭蕉の銅像が建っていた。芭蕉はこの地
 に数日間留まり奥の細道に名句、名文を残している。又芭蕉は太平洋側ではこ
 の地を北限として日本海側に旅をしたのである。私は、芭蕉の銅像と肩を組ん
 で写真を撮って貰った。3回目の来訪であるが、観光客のいない、物静かな境
 内は初体験、深い感銘を覚えた。写真は金色堂:高野君と兄貴
『三代の栄耀(ええう)一睡のうちにして』と芭蕉は奥の細道に書いているが、藤原氏の栄華そして滅
 亡の悲哀を体感できた朝の散歩であった。
   "中尊寺 白百合の花 杉木立"

   "ありがたや お経染み入る 夏木立"

 朝飯を食って再度中尊寺を訪問した。金色堂や讃衡蔵を
 拝観するために。写真右は鞘堂の入り口で
 金色堂は、どこもかしこも金々々である。我が家の仏壇も
 金箔を押した物だが、仏さんはどうしてこう金が好きなのか
 な?中央にはふっくらとした金色の阿弥陀如来が安置され
 ているが、平安美術の特徴のある優しい仏さんであった。金
 色の須弥檀の中には、清衡、基衡・秀衡の遺体と泰衡の首
 級が納められていると言うから、お墓と仏壇を兼ねた物がこ
 の金色堂なのかな。芭蕉は奥の細道に『光堂は3代の棺を
 納め、三尊の仏を安置す。....』
   "五月雨の 降り残してや 光堂(ひかるどう)"と記している。

 讃衡蔵には、昭和25年に藤原氏四代の遺体(ミイラ)の学術調査が行われた際に、遺体の着てい
 た衣類や、棺から発見された副葬品も展示されており、科学的に興味深く、見学できた。この後車で
 毛越寺、義経堂を見て回った。
もうつじ【毛越寺】
(モウツウジとも) 岩手県平泉町にある天台宗の寺。850年(嘉祥三)円仁の開創と伝える。1105年
 (長治二)藤原清衡・同基衡が再興し、中尊寺をしのぐ大寺だった。平安時代末様式の庭園を残す。
写真左は毛
越寺
の庭園

左は義経堂
のあ
る丘から北
上川
その向こうに
ある
衣川の眺望

 毛越寺は、今夜、電子音楽のイベントがあるとかで、ライトアップの準備がしてあり、自然と静寂なこ
 この良さがそぐわれた感じであった。
 私はここで珍しくお神籤を引いてみた。吉で旅先よしと書かれていた。何か気持ちがすっきりとし
 た。帰宅後兄貴が、「黙っていたが、お神籤はみんな吉で、悪いことなんか書いてないもんだよ」と冷
 やかされた。が…でもこの時のお神籤は『吉』でよかったなあと今でも思っている。 
 義経堂は、北上川を見下ろす高台にある。義経の自害した場所と伝えられており、お堂には甲冑姿
 の義経像が祀られていった。高台からの眺めはよく眼下には北上川が南に流れ、北に衣川の古戦
 場が遠望され、東に束稲山(たばしねやま)が青く裾野を引いてたたずんでいる。芭蕉が三百年前
 に、この地を訪れ『国破れて山河あり城春にして草青みたり』と傘打ちしいて、時の移るまで落涙し侍
 りぬ。
   "夏草や 兵どもが 夢の跡"   の名句を残している。
私も真似して..帽子うち敷きて、しばしこの平原を眺めながら、800年前は、ここは東北の独立王国
 の首都として、きらびやかな寺院が林立し、豊かな繁栄の時代であたった事に思いをはせはべりぬ。
 まさに国破れて山河ありである。義経が、この高台で自殺したのは、31歳とのこと。この後
  "匂い優しい 白百合の 濡れているよな、あの瞳 思い出すのは 思い出すのは 北上河原の
 夜の月"
と北上夜曲を口ずさみながら、盛岡市へ高速道路をぶっ飛ばした。
 盛岡市
 盛岡市観光のねらいは、東北三大城跡の一つ、不来方城(こずかたじょう)と呼ばれた、南部藩城
 跡の岩手公園である。公園は盛岡市のど真ん中。県庁や市役所が周りにあり、駐車場も地下であっ
 た。迷いに迷ってようやっと地下駐車場に入った。係員が何か言っているが訛りがひどくて、私には
 何を言っているのかさっぱり分からない。車から降りて聞いたら、「満杯なのでこちらに回して、車の
 鍵はつけておく様に」ということであった。それも手真似を交えて、私の理解した内容である。見る物
 は石垣である。苔生した石垣に往年を偲ぶことが出来た。石川啄木も、授業をさぼって、よくここへ来
 たという。そんな碑文があった。誰かがここで大用をと思ったら、トイレに、備え付けの紙がなくて苦
 労をしたそうである。ポケットには何時もティッシュペーパーを。私も弘前城跡で、トイレの入り口で、
 紙を買って用を足しました。人ごとではありません。そんなトイレが東北にはありました。
田沢湖へ通じる国道46号線に出た。途中で給油したら、スタンドのおっさんが、ここまで来たら是非
 小岩井農場へ寄って行けとしきりに勧める。予定にはなかったが、勧めに従って、バックして小岩井
 農場へ行ってみた。日本一大きな農場だけあって、北海道を走っているような感じであった。それだ
 けの良さはあった。
田沢湖
【田沢湖】
秋田県仙北郡の、岩手県境に近い奥羽山脈中にある典型的なカルデラ湖。周囲21キロメートル。面積2
 5.8平方キロメートル。湖面海抜249メートル。最も深い所は423メートルに達して日本第一位。
左:田沢湖湖


右:辰子像

 田沢湖は今回の主要な目的地の一つである。先ず湖畔にある。宿舎春山荘へ顔を出した後、湖畔
 を一周した。田沢湖は、透明度は摩周湖に次いで全国2位の湖である。火口原湖(カルデラ湖)であ
 るから、周りは山に囲まれていて神秘的な感じがした。目的の辰子像は伝説通り美人である。又全
 身は金色に輝いていた。永遠に美人でいたいと願って龍になり田沢湖の主になった辰子にふさわし
 い彩色である。私は緑青のふいた青銅で出来ている物と思っていた。辰子姫の佇む湖畔を水に触れ
 たりして散策した。確かに水は綺麗であった。
 宿舎では、若い子連れの家族が多く、私達が一番の年かさであった。昨夜のように焼酎で今日の
 日に乾杯をした。ミズと言う漬け物が出ていた。一寸ぬめりがあって美味しかった。           
  田沢湖畔の民宿泊


■3日目 7月30日 日 晴れ 風強し …田沢湖→十和田湖
 8時AM湯を入れた魔法瓶をぶら下げ宿を出た。蓬莱の松を見て当初の計画通り、白浜の湖畔か
 ら、足こぎボートで田沢湖へ乗り出してみた。風が強く思うようにボートは進まなかった。深いところは
 水が藍色に見える。その青色の辺りまで出てみた。
田沢湖の朝
   "田沢湖を 肌で感じる 夏の朝"

 ジクザクした山道を鹿角八万平IC(かずのはちまんたい)へ向かう。途中鎧ダムや多摩川ダムを観
 光しながら。この辺りは水が酸性なので、石灰等で中和し灌漑用水にしているそうである。この近く
 に玉川温泉があったりすることから、マグマは浅く浸食も進んでいないので、地表は新しいように思
 われる。八幡平は、アスピーテ火山(流れやすい黒い溶岩)で出来た火山台地。温泉やスポーツ施
 設があったりして、新リゾート地だそうだがその一部を通っただけ、リゾートエリアの参観は割愛した。
 鹿角市の市街を避けて、鹿角八幡台ICから十和田IC間一区間だけ高速道路を使った。
ここで昼食にした。高速道路のサービスエリアは、安くて、早くて、その地方の名物が食べられて、駐
 車が楽でいいことずくめである。旅の中では三食利用した。
十和田湖
【十和田湖】
青森・秋田両県の境にあるカルデラ湖。奥入瀬川の水源。湖面海抜400メートル。最大深度327メート
 ル。面積61平方キロメートル。周辺は美林に蔽われる。

 十和田ICから十和田湖までは、平坦地を走り外輪山を登って下れば、其処が十和田湖である。外
 輪山を登ったところが発荷峠といい、十和田湖の展望台になっていた。車を止め、十和田湖を眺め
 た。この湖水を見るために、はるばるとやって来たのである。湖水から突き上げるような風に帽子を
 何回か飛ばされた。湖面はうっすらと霧がかかっていて驚嘆させられる様な景観ではなかった。既に
 田沢湖や、大きなダム湖で、この様な景観を見てきた後だけに。
明治35年の1月の末に、弘前31連隊 雪中行軍隊38名が、猛吹雪の中、ここを越え、湖畔の銀平
 らまで下って行ったのである。この時青森第5連隊121名は八甲田山へと向かっていた.....。
風に立って、当時の状況を想像してみた。そんな想像させる程強い風であった。休屋(やすみや;十
 和田湖の繁華街)と観光船が、遠く霞んで見えた。
十和田湖畔で
   "夏風に 十和田湖眼下 霞けり"
   "十和田湖や 行軍しのぶ 夏の風"
外輪山を下り、湖畔を休屋へと走った。休屋から、乙女の像までは、波立つ湖畔の砂を踏みしめなが
 ら、ゆっくりと歩いた。この風の中、リールで魚釣りをしている人もいた。乙女の像は、成熟した、二十
 歳前後の女性のように感じられ又肉感的であった。作者の制作過程の中で、愛妻智恵子への思い
 が込められているような感じがした。湖をバックにFinderで覗くと、盛り上がった乳房が逆光に黒く映
 え美しい。見とれてシャッターを切ったせいか、像が傾いた写真になってしまった。
写真左:十和田湖湖畔にて   中:乙女の像    右:盆栽のような島、遊覧船から
 帰りは、林の中の道を通った。途中に、昭和年代初頭に造られた、十和田湖神社があった。狛犬が
 2匹、風雪に耐え精悍な顔つきで座っていた。2匹の狛犬の視線は一カ所で交わるように造られてい
 ると兄貴の話。そうかなあと思ってみた。土産店の立ち並ぶ通りを人波を避けながら観光船乗り場へ
 と向かった。目的とするルートの観光船に、待ち時間もゼロで乗れた。湖上から見る十和田湖はやは
 りカルデラの火山湖である。切り立つ岩肌が燃えるような茶褐色であったり、溶岩の固まりの様な岩
 に松が根付いて大きな盆栽のように見えた。植物の生命力の強さが感じ取れる。湖底から、温泉が
 湧出しているため、冬でも凍結しないそうである。田沢湖も凍結しないそうだが…それは辰子湖姫の
 ためだろうか?そう考えると楽しい。
 今夜の宿、『国民宿舎十和田湖』は私達が駐車した有料駐車場の直ぐ近くにあった。駐車料金三
 百円損してしまった。例により、持参した焼酎のオンザロックで乾杯。今日はみんなしたたか酔った。
 もっと若かったら休屋辺りの飲み屋でやるものを。兄貴は幼き頃の母きさのこと、私の知らない晋太
 郎さん(作男)の思いで等々話してくれた。高野君にも又私にも通じるよき時代の話であった。
蒲団は自分で敷いて、乙女の像を思いながらよく眠れた。

■4日目 7月31日 月 曇り ....→八甲田山麓→青森市→竜飛崎→金木町
 今日は何処へ泊まるやら?当てのない旅である。道程は
 かなりあるので、魔法瓶をぶら下げて8時前に宿を出発し
 た。奥入瀬から八甲田山へと向かった。奥入瀬渓谷は、十
 和田湖へ流れ込む川と思っていたが、十和田湖から流れ出
 る川であった。学がないというもの。緩い下り道を、渓谷の
 清流沿いに、木の葉のトンネルをくぐりながらゆっくりと走っ
 た。途中、ラジエーターの警告ランプが点灯したので奥入瀬
 川の水を追加した。今も車の中でこの水が活躍している、よ
 い記念になった。写真は奥入瀬川
八甲田山麓
【八甲田山】
青森県の中部にある火山群。最高峰大岳は海抜1584メートル。各所に温泉があり、十和田八幡平国
 立公園の一部をなす。
 八甲田へは奥入瀬川を離れ、蛇行する山道をあえぎながら登り、八甲田山の東側にでた。八甲田
 山は八つの秀峰 からなっているが、その一つ雛山の山麓平原で一休みした。今日も風は強かっ
 た。幸い山の頂までよく見え写真に収めることが出来た。この後ガスがかかり山の頂上は見えなくな
 った。平原の芝原には、ウツボ草やキク科の黄色の花が点在していた。キク科の花は、茎が針金の
 ように堅かった。山麓道路は極めてよく、走行は快適。
後藤伍長像
雪中行軍遭難の地
写真左:八甲

山麓

右:雪中行軍

難の地
 青森第5連隊210名の遭難場所、田代平らへと向かった。新田次郎著『八
 甲田山死の彷徨』を読んだ人であれば、誰しも一度は訪れてみたいと思う場
 所である。明治35年1月23日早朝、青森を出発した雪中行軍隊は折からの
 寒波のため、この地で191名が凍死したのである。11名の命が助かったの
 は、斥候に出た後藤伍長が、仮死状態で雪の中に半分埋もれて立っていた
 のが救助隊に発見されたからである。1月二十七日のことであった。その後
 藤伍長の立像が山麓の丘の上にあった。実際には像の位置から、青森側へ
 2q降った所だと記されていた。雪中行軍隊遭難の地と看板が出ていたが実
 際にはあちこちに、バラバラになった状態で遭難したのである。記念館には、
 当時の山口少佐以下将兵の写真や、救助隊の写真があり興味深く見学でき
 た。青森へは、第5連隊の通った道を降っていった。大峠、小峠を知りたかっ
 たが分からないまま通過してしまった。写真は後藤伍長の像

 青森市へ入ったところで又迷ってしまった。迷うと言うことは、現在位置が分からなくなることであ
 る。しばし彷徨して高野君がおばちゃんに聞いたら私は分からないので亭主が何処其処にいるの
 で、電話をしておくから、其処で聞けとのこと。又わざわざそのご主人の事務所を尋ねて、聞いた。車
 を止めて待っていたが、高野君がなかなか帰ってこない。こちらはその辺の兄ちゃんに聞いて道は
 分かったのに帰ってこないのである。「悪いね」とか言って帰ってきた。高野君の話によればご主人
 は、事務所の外で待っていて馬鹿丁寧に道順を教え、その上何処へ行くのだの、其処ではこうしろ
 だのと聞かない事までご指導を頂いたとのこと。世の中には親切すぎる人もいるものである。高野君
 の帰りたいが帰れない胸中は推して知るべし。!?ご苦労様でした。青森市内の裏道から本通りへ
 出ると、さすが北海道への表玄関、大きな市であり活気が感じられた。津軽半島への道は、ご主人
 から丁寧に聞いた高野君は自信を持って、先の先まで指示してくれた。私は何処か楽しく運転でき
 た。
 昼食は予定通り蟹田町で寿司を食った。ここまで来れば以後の予定が立つ、ここで今夜と明日の
 宿泊予約をした。太宰治の生家である斜陽館に泊まろうかと言ったら、同行の諸氏は、堅苦しくて嫌
 だと言うから同じ金木町の温泉旅館にした。寿司屋の親父によればここから竜飛岬までは1時間もあ
 れば行けるとのこと。今夜の宿へは6:00PMころには着けそうである。先が分かれば気も晴れる。
 カセットテープを入れ直し、今風の流行歌を聞き流しながら竜飛崎へ向けてぶっ飛ばした。道路は広
 くて真っ直ぐ、車は少ない、陸奥湾を右手に長めながら..。先端の津軽海峡側に出たところに高野
 崎というところがあった。ガイドブックによれば北海道や下北半島も見え、津軽半島一眺めのよいとこ
 ろだと書かれていた。降りてみた。が、十和田湖の発荷峠同様に風が強く、海上はうっすらと煙って
 いて眺望はきかなかった。家からここまでの走行距離は、1000qであった。
竜飛崎
【竜飛崎】
 青森県北西部、津軽半島北端の岬。津軽海峡に臨み、北海道の白神(シラカミ)岬に対する。両岬を結
 ぶ青函トンネルが開通。
竜飛崎では道を間違えて、その下にある漁村まで見てしまった。漁村は風雨にさらされた白っぽい民
 家が寄り添うように軒を並べ、ひっそりとして人影もなかった。港の赤灯台を記念に撮り竜飛崎への
 急坂を登った。馬鹿な私は初めはその灯台を竜飛崎の灯台かと思ってしまった。…のでした。
竜飛崎灯台

竜飛崎はかなり風が強かっ
た。風力発
 電の風車が5機、白い大き
な羽が回っ
 ていた。これだけの発電機
で、700軒
 分の電力を賄っているそう
である。だ
 からここは年中風が強いよ
うである。
 晴れていれば北海道も見え
るはずだ
 が海上はスモッグがかかり
暗い感じの
 津軽海峡であった。北の厳
しい海その
 もの。風に吹かれながら今
度は本物
 の竜飛崎灯台の前で記念
写真撮影を
 した。写真左....すごい風
であった
 。
 この下に本州と北海道を結ぶ青函トンネルがある。其処まで降りてみることにした。青函トンネル斜
 坑線に乗って海面下140bまで降りてみた。地下には当時の掘削機や写真が展示されていた。又
 テープによる説明が、当時の掘削音や発破の音声を交えてなされ臨場感のあるものであった。よい
 体験が出来た。写真右:青函トンネル
金木町へ
 さて今度の旅では、この地が北の果て。折り返しの旅が南に向かって始まった。竜飛崎から小泊ま
 での16qは、峠越え。狭くてセンターラインのないところもある難所である。この難所にさしかかった
 らガスがかかり始め峠を登るに従ってやがて視界5b。六つの目を皿のようにしてライトを点灯しての
 走りである。私はこの様な霧の道は秋山通いで慣れているつもりだが、先の分からない山道なので
 怖かった。私以上に同乗のお二人さんは怖かったと思います。後部座席の兄貴も身を乗り出して「ワ
 イパーを回したらどうなの」とか運転を気遣ってくれた。そんな視線を背後に感じながらの運転でし
 た。不気味なほど車の中は静かであった。細心の注意をしながらよろよろと峠を登って降った。下る
 に従ってガスは薄くなってきた。海沿いの道路まで来たらすっかり霧が晴れほっとした。いやはや大
 変でした。十三湖のほとりで一息入れて、その西側の田圃中の道路を金木町へ向けてぶっ飛ばし
 た。分かりにくい田圃中の道路をナビの高野君が的確な指示をしてくれたので迷うことなく金木町へ
 入れた。宿は斜陽館の直ぐ近くにあった。
 温泉旅館と言うから湯田中辺りの旅館を想定していたが温泉は銭湯であり、どこもかしこも一昔前
 の古風豊かな旅館であった。兄貴は階段の分厚いケヤキの板に感心していた。私とは見る目が違
 う。客は私達の他に、福島大学の先生親子の二組だけだった。子といってお20才代の読書好きの
 感じのするお嬢さんであった。この田代先生と一緒に飲みながら語り合った。

【太宰治】
小説家。本名、津島修治。青森県生れ。屈折した罪悪意識を道化と笑いでつつんだ秀作が多い。戦
 後は虚無的・頽廃的な社会感覚を作品化。自殺。作「斜陽」「桜桃」「人間失格」など。(190911948)

 女は悩み疲れ少し崩れた男に惹かれる様である。太宰治
 の斜陽でも少し崩れた男に惹かれていく女心が感じ取れ
 る。娘は太宰治に惹かれ田代先生は娘に誘われての旅の
 ようである。娘さんにそれとなく聞いたら軽くうなずいてい
 た。優しい父親であり、うらやましい親子である。 高野君も
 信大の教授だから田代先生とは話が弾んだ。
     写真は太宰治の生家斜陽館
 田代先生は、福祉科を担当しているが社会的には今ひと
 つ人気のない学科であること。汽車の旅だが、ローカル線に
 乗ったら鉄の風鈴が沢山つけてあって趣があった。斜陽館
 に泊まろうと思ったが満杯で断られた。国家公務員は給料
 が安くて大変なこと。長野県のどこそこの大学には福祉科があり行ったことがある等々。お互いに安
 いサラリーマンと年金受給者。意気投合して、腹ッ話しに花を咲かせ。大いに飲んだ。安宿は気楽で
 いいものです。この先生は鼾の大家、兄貴がトイレに起きたら廊下まで「ごうごう」と聞こえたとか。謙
 虚な優しそうな先生で鼾とは縁のなさそうな方だったが。
 食事は床の間に大きな電気釜がでーんと置いてあり、味噌汁はガスコンロの上に鍋のまま置いて
 ある。食べたくなったら自分で暖めて好きなように食べろ!?である。これも親切というもの。…なの
 だろう。美人の奥さんだが肝っ玉母ちゃんでもある。夜になってからついに雨明日もよくなさそうであ
 る。

■5日目 8月1日 雨  .....→弘前→八郎潟→男鹿半島
朝起きたらやはり雨だった。小雨の降る中、歩いて5分ばかしの所にある、太宰治の斜陽館の前ま
 で行ってみた。構えの立派な家だった。
 津軽藩十万石の城跡弘前公園へ向けて走った。途中雨が降ったり薄日が射したり、まあまの天候
 であった。公園まではナビの高野君のリードで思い通りに行けた。公園前まで来たが、駐車場は何
 処にあるのか分からない。市役所で聞いたりしてやっと分かった。この頃になったら、雨が強く降り出
 した。車から降りようとしたが、篠突く雨、車から降りるどころではない。仕方がないので、車内でしば
 し雨宿りをした。駐車場の並びにある『ねぶた村』では今日から始まるねぶた祭りの準備に、ねじり鉢
 巻きをした娘さんが忙しそうに働いていた。又津軽三味線の演奏を流し、お祭り気分を盛り上げてい
 た。でもこの雨、その気分にはどうしてもなれなかった。
 雨が小やみになった頃を見計らって、弘前城跡の見学をした。隅櫓まで来たころには、雨も上がり
 傘を畳んで散策できた。かつてのを栄華を偲ばせる10万石の城跡であった。公園内は美しく整備さ
 れ、北側のお堀の蓮の花が印象的であった。

 弘前市から奥羽本線沿いに走り、大館市を過ぎた辺りで昼食にした。日吉ラーメン5百円とカツ定
 食8百円をそれぞれ好みに合わせて食べた。
 この後道路はいいのに、青葉マークの車の後について、のろのろと走った。昼食の後なので眠くて
 困った。ガム噛んだり、ラジオを聴いたりして暫くおつきあいをした。相変わらず雨は降ったり止んだり
 であった。

【男鹿半島】秋田県西部、日本海に突出する半島。砂洲によ
 り本土と連なり、内側に八郎潟を形成していたが、その大部
 分は干拓された。
  八郎潟では雨は上がっていた。そのど真ん中10qを真一
 文字に道路が走り、広大な干拓地の稲と防風林の松が空ま
 で続いている。これも人の為せる業偉大な力である。男鹿
 半島は曇り空の下。雨が降っていないだけましか。寒風山
 から海沿いに入道崎を経て戸賀湾内の今夜の民宿へ向か
 った。写真は八郎潟
 寒風山は、男鹿半島のほぼ中央にあり、天気がよけれ辺り一円が展望できる場所である。あいにく
 の天候で展望台はガスの中だった。観光客も殆ど無く、土産店も暇そうであった。その一軒の店へ
 呼び込まれ、お茶を一杯頂いた。高野君は土産を上手に買わされた。
   "夏の男鹿 寒風山は 霧の中 "

 入道崎から先は、男鹿半島の西側の先端である。荒海を
 右手に眺めながら崖縁の山道だった。道路端に、マツヨイク
 サやシモツケソウが咲いていた。三陸海岸には及ぶべくもな
 いが、厳しい鉛色の海は荒れていた。海蝕崖をバックに写
 真を撮ったりしながら宿に着いた。宿舎に着いたら又雨が降
 ってきた。
写真は男鹿半島西海岸
  "男鹿の海 暗く波立ち 月見草"

  ここも若い子連れが多く私達は一番の年かさであった。宿
 の83歳のお婆さんにもてなされて、ゆっくりと飲んだ。兄貴
 はなかなかの社交上手で、大奥さんなどと婆さんを持ち上げるので、気分をよくして自分のことや子
 供のことを、彼女自身も楽しみながら語ってくれた。訛りはあるが、開けた婆さんだから、まあまあ聞
 き取ることは出来た。その土地の方とこの様な交わりの出来るのが民宿の良さである。この民宿は
 宮島荘という。この辺りでは一番早く始めたと婆さんは胸を張って話した。戸賀湾でもこの頃は、魚も
 余り穫れなくなったとのこと。魚の塩焼きは旨かった。
 
■6日目 8月2日 水 曇り 夕方からは雨 .....→新潟市→長岡市の花火
 魔法瓶をぶら下げて8時前には宿舎を出た、薄曇りの下。西海岸から南海岸を回って秋田市へ出
 た。昨日のように海岸縁の曲がりくねった道を、登ったり下ったりしながら。でも海は明るく気持ちの
 よいドライブであった。     
   "男鹿の道 切り立つ崖と 夏の海"

 国道7号線をひたすら南下した。途中高速道路の様に整備された所もあり、さすが一桁の国道だな
 と思いました。今日も走行予定は300q余、200qを走った村上市の手前で昼食にした。1500円
 の焼き魚定食を三人で食べたが旨かった。海辺の景色のよいドライブインであった。
ナビの高野君が、道路表示板を見ながら、「新潟市まで○○q」と言ってくれるその数字がだんだん
 少なくなるのを楽しみにしながら走った。天気は晴れ間も覗いたりして、私たちに期待を持たせる天
 候であった。今夜は長岡の花火を見る日、良い天気になって欲しい。......五時前に今夜の宿 
 厚生年金会館に着いた。
 長岡へは、新潟駅発5時17分の新幹線で行った。客車は2階建てになっていった。2階建ての列
 車はお互いに初めての体験、物見高い高野君は二階席へ乗車した。20分ばかりの乗車時間で長岡
 市に着いた速いものである。駅から花火会場までの地図を用意したり、道順を調べてきたがその必
 要は全くなかった。会場まで人の波が続いている。その人波に入って行けば会場に着けるのであ
 る。途中で、夕食を買って会場で食べた。食べ終えた頃からついに雨が降り出した。
花火:雨の中 ドカン!!
 進行はプロの司会者が巧みにし、あの長寿で有名な金さ
 んと銀さんも来ていて雰囲気を盛り上げている。銀んさんだ
 かが「長岡の皆さんこんばんは!」とか言うと、どうと拍手が
 起こったりして楽しい雰囲気であった。それはいいのだが、
 いざ花火が始まる頃になるとだんだん雨足が強くなり、一時
 は土砂降りの雨になった。座ってなんか見ていられたもので
 はない。傘をさしていても兄貴などはびしょぬれになってしま
 うほどであった。その雨の中「どかん!どかん!!」と花火
 は打ち上げられていた。雨が小降りになり出した頃、無風状
 態になってしまった。その中でスターマインやナイヤガラの
 滝などの大型の花火をやるので、空一面に硝煙が立ちこめ
 てしまった。打ち上げ花火は硝煙にけむて半分ほどしか見えないものもあった。三尺玉の打ち上げ花
 火を見て帰った。こうしてみると雨降りで、花火もよく見れなく、詰まらなそうに思えるが、私達は打ち
 上げをしている中州の真ん前なので迫力満点であった。 「ぷす!「どかーーん!」 一つ一つの花火
 に歓声を上げながら楽しんだ。やはり長岡市の花火はすごい。
   "長岡や 花火目にしむ 夏の雨"
 帰って、私の部屋で(各人個室)旅の打ち上げを何と缶ビールでささやかにした。駅前辺りの飲み屋
 で華やかにやる予定であったが、お互いにびしょ濡れ、しかもひどい雨降りとてもその気にはなれな
 かった。

■7日目 8月3日 木 雨 ........→弥彦神社→自宅
 雨の中8;00am出発。新潟市内は通勤時のためか片道
 三車線の道路が車でいっぱいであった。天気が良ければ、
 万代橋界隈や白山神社を見たかったが雨のため割愛した。
  雨は海辺へ出るに従って強くなってきた。シーサイドライン
 へ入った頃はまさにバケツをひっくり返したような雨になって
 きた。ただ走るだけである。
  弥彦神社も雨、この雨の中観光バスで大勢の人が訪れて
 いた。人の賑わいの中にいれば気持ちも和む、満ち足りた
 旅の加護を、神に感謝しながらお参りをした。写真は弥彦神

 雨は弥彦神社までであった。高野君は新井駅から自宅へ、兄と私は富倉峠経由で自宅へ。約1,8
 00キロメートルの東北の旅は終わった。

エピローグ
こうして旅行記をまとめてみると、旅行保険がお守りになったことが、何よりでした。
今度は何処へ行こうかな?旅の中では、四国から山陰なんて話も出ていたが。同行の皆さんのお陰
 で、有意義で楽しい旅が出来ました。有り難うございました。
東北の旅は『奥の細道』。芭蕉に真似て下手な俳句を載せてみました。ご笑覧の程を 
   "旅終えて ムクゲの花や 墓参り" 
                                                              
                                                               
  
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