沖縄での休日
1995年6月1日〜6月4日1995年6月7日
1.プロローグ
 沖縄へは行ってみたいなと、かねがね思っていた。日石のクレジットカードが沖縄への安旅を募集
 した。一人で行くのは気が進まなかったので、近所の囲碁仲間久司さんを誘ってこの旅が実現した。
 久司さんは、「沖縄と言えば、外国ださな。海を渡って飛行機に乗るんだもの。飛行機は初めてだ
 し、楽しみだがおっかねんな」と言われた。考えてみればその昔は琉球王国、歴史的に見れば日本
 になって日は浅い。
【琉球】
沖縄(琉球諸島地域)の別称。隋書に「流求」の文字が見え、わが国では古く「阿児奈波」または「南
 島」と呼んだ。一五世紀以降日本・中国に両属の形をとり、一七世紀初頭島津氏に征服され、明治維
 新後琉球藩を置き、やがて沖縄県となる

 久司さんの言うようにも考えられるなと思いました。
梅雨前線は九州の南に停滞し、沖縄は梅雨入りした気象条件である。だから格安の旅なのだろう
 か?
 囲碁でもゆっくりやって、楽しくやって来ましょうと期待と一抹の不安の中に、この旅は始まろうとし
 ていた。

2.日程と所感
■1日目 6月1日金
 朝5時、女房に送られ、飯山線蓮駅へ。久司さんは蓮駅は初めてとのこと。ここは私の在所。長野
 駅からJR信越線浅間2号自由席に乗車。早速携帯用の碁盤を出し、一番やって7時過ぎ。久司さん
 の奥さん手作りのおにぎりをご馳走になった。手拭きに漬け物もあり、奥さんの愛情を感じながらの
 家庭の味。旨かった。囲碁を二番やったらもう赤羽。
 東京は、相変わらずの人波。忙しいそうにせかせかと動いている。浜松町駅からのモノレールは久
 司さんは初めてとのこと。「モノとは一つの意味だからモノレールは一本の線路を走る電車ですよ」と
 私。久司さんの高所恐怖症は自他共に認めている事実である。高所を走るこの電車に「おっかねん
 な、大丈夫なんかいな」と久司さん、しきりに心配しておられた。久しぶりに来た羽田空港はだいぶ変
 わっていた、動く歩道があったりして。
 羽田12時31分 沖縄行きで出発。二百名近くの人を乗せて。「こんなに乗せていて大丈夫のなの
 かね」と久司さん。言われてみればその通り、あの蜘蛛の糸に、人がぶら下がっているようにも思え
 る。
 奄美大島の辺りで機内食が配られたがその頃から、機体は梅雨前線に伴う乱気流の中に入った
 のであろう、ガタガタと揺れ出した。シートベルト着用の指示ランプが点灯した。「大丈夫なのかねえ、
 落ちるんじゃないかね」と久司さん。「落ちれば気が付いたときには死んでいるし、保険をかけてきた
 ので5千万円にはなるから、女房どもは喜ぶんじゃないの」と私。久司さんは相づちは打たなかった。
 何処か心配そうな久司さんであった。無理もない蜘蛛の糸にしがみついていているような気分でいる
 久司さんが上下左右にがたびし揺れだしたのだから、ただ事ではないのである。ついにはスチュワー
 デスに、「こんなに揺れても落ちることはないですか」と尋ねていた。その久司さんも帰りの機内では
 「又揺れだしたね」とか言いながら、私と囲碁をして来ました。鉛色の雲海が多かったが、所々青空に
 積雲の浮かぶ穏やかな場所もあった。
 那覇空港では薄日が射していた。私達の着く前までは、激しい雨降りだったとガイドの話でした。
空港からホテルまではバスの車窓観光。

【那覇】
沖縄県、沖縄本島南西部の市。県庁所在地。太平洋戦争中に焦土と化し、戦後米軍の沖縄占領中
 は軍政府、のちに民政府・琉球政府がおかれた。市の東部、首里(シユリ)には王城址など史跡が多
 い。人口30万4千。
 雨上がりのいわば南国は、緑の色濃い、ココナツヤシやトックリ椰子が街路
 樹。、ココナツヤシには既に青い実が房状に付いていていた。
国道58号線を、嘉手名基地を右手に眺め、海沿いの道路をホテルムーンビーチ
 へと走った。何処も車で混雑していた。ビルや現代風の建物が建ち並んでいた。
 その建物の陰から沖縄独特亀の甲羅型のお墓や家型のお墓がちらほらと見え
 た。これは一族の墓、今では土葬から火葬になっているという。その仏前に供え
 る花がハイビスカスだとは知らなかった。
ホテルは海辺に建つ大きなホテルであった。垣根のハイビスカスには赤い花が
 咲いていた。私たちの部屋は久司さんとの2人部屋。洋式、何から何まで完備し
 ていた。ドアを開ければ広いベランダもある。そこから海と新緑の林が一望出来
 た。休日にふさわしい環境である。
夕食は豪華な琉球料理を食べながら、半玄人の琉球舞踊を見た。
沖縄の女性は目もとがいい。大きく見開かれた瞳は、何処かもの悲しさを感じさせるものであった。そ
 んな彼女に誘われて、舞台で一緒に踊った。久司さんは踊らなかったが、一所懸命に拍手をしてくれ
 た。

■2日目 6月2日 火 曇り 
 スケジュール:一日中自由行動(土産の購入―水泳―囲碁
朝食はバイキング料理。メニューは豊富、質もよい。特にパイナップルが旨かった。久司さんが未だ
 食べていないので、「折角の沖縄へ来たんだからパイナップルのデザートとそのジュースを飲んでみ
 たら」と勧めた。久司さんはもう腹がパンパンだと言う。少し休んでから久司さんはパイナップルとその
 ジュースに挑戦した。本当にもう腹がいっぱいでパンパン旨かったと久司さん。
朝食後、おみやげの購入をした。久司さんは15軒分のおみやげを買うというのでお手伝いをした。あ
 れこれと迷い、決めるまでには結構時間がかかった。楽しい一時でもあった。久司さんはこれで一つ
 肩の荷が下りたようであった。私も孫や家のおみやげを買った。
 部屋で水着に着替えて、海水浴に挑戦した。ホテルに続いて海水浴場になっている。白い砂浜が、
 さざ波状の風紋を描いていた。珊瑚の砂の為かな。珊瑚礁の砂浜はこの様なものかと印象深かっ
 た。湿った砂は薄桃色をしていた。この砂を手ですくってはさらさらと流してみたが、中に珊瑚の欠片
 のような物をふくみ、この地独特の砂のように思えた。久司さんは水際で珊瑚礁のかけらを拾ってい
 た。これはよい記念になると思いました。私も兄からエジプトの砂漠の砂を貰ったことがあるが、見も
 知らぬ熱砂の砂漠をその砂から思い描いたものでした。
薄日が射し、水泳には絶好のコンディションである。東支那海の海で泳いでみ
 た。塩分濃度が高いと資料にはあったが、体がよく浮き泳ぎやすいような気がし
 た。この歳になっても泳ぎは体が覚えているのでしょう、どうと言うことなく、泳げ
 るものってある。岸から50bほどの所にロープが張ってあったが其処まで一気
 泳いでみたみた。水深7bぐらいある海底が手に取るように見えるほど綺麗な海
 水である。海水を口から吹き出しながら泳いでみた。久司さんは横泳ぎで楽しん
 でいた。久司さんや私くらいの年齢の人は誰一人いなかった。これで、朝の食べ
 過ぎも解消したのかな。
写真はム−ンビーチ砂浜の風紋
 午後は待望の囲碁。今朝も朝の四時から7時までやったが、二人とも午後のこ
 の時間を何よりも楽しみにしていた。沖縄の一流ホテルで、午後たっぷりと囲碁
 が楽しめるとは、極楽というものである。二人ともステテコ一枚の真っ裸、「仕事に行かなくていいし、
 こうやって沖縄で囲碁をやるなんて幸せですね。」と私。灰皿を吸い殻で一杯にしながら、夢中でやっ
 た。夕食まで勝ったり負けたり、時間の過ぎるのも忘れてやった。
 夕食は¥4000の和食定食をホテル内の『桂』で食べた(夕食は自前)。4千円も出したのだから内
 容は豊富で質もよかた。でも普段食べつけないものが多くて私達の口に合わないものも中にはあっ
 た。お金を出しただけの価値ある内容であった。
 
■3日目 6月3日 晴れ
 スケジュール:ホテル−万座毛―プラザハウス−珊瑚センター(昼食)−首里城―那覇
空港―羽田空港 
 今日は長い1日になりそうである。両者とも体調は上々、天気もいいし、よい観光日になりそであ
 る。起床5時、先ず囲碁をやってから朝食。今日は昨日の経験を生かして何を食べるか考えて、計画
 的に上手に食べた。久司さんは、ご飯を控えて、他のものは食べるようにしていたし、私は昨日とは
 違ったメニューから食品をを選んで食べてみた。でも食べ終わったときは、昨日と同じように両者とも
 腹はパンパンになっていった。旨かった。
バスは最後部座席、空席も使えたのでゆったりと座れた。ちなみに私は5人分を独り占めにして座れ
 た。
左:アンダの

右:万座毛
 万座毛は海上から切り立った断崖の上にある原っぱ。万座毛とは万人の人が座ることの出来る広
 い原っぱの意。その昔、琉球王国の王様がここにお出でになり、ここは万座毛だと言われたのでそ
 の名が付いたとのこと。
 ここには、アンダという肉厚のいかにも南方系を思わせる樹が崖っぷちに生い茂っていた。多分防
 風の為なのだろうか。青い椰子の実のような実がなっていて私たちには珍しかった。中は芝原で、周
 りは断崖絶壁である。久司さんは断崖から海を覗き込んで「おかねんな」と言っておられた。久司さん
 と私は沖縄のモデルさんと記念写真を撮ってこの地を後にした。
   "アンダの実 未だ小さき 万座毛" 

 天気よし、青空に筋雲のたなびく下、七色に変わるという沖縄の海を右側に眺めながら万座毛か
 ら、プラザハウスへと向かった。プラザハウスは戻し税のきくショッピングハウスである。これ以上買っ
 ても持ち帰るのが大変、見て回っただけで何も買わなかった。それにしても沖縄は暑い、この日は雨
 上がりの好天気だから、日向へ出ると、半袖シャッツでいてもじりじりと暑い。久司さんが、アイスクリ
 ームでも食べようというので見たら950円であった。これは止めて、2百円のソフトアイスクリームにし
 た。貧乏性は、旨いものにはありつけないようになっているようです。でも、旨かった。
バスガイドは、20歳前半の小柄で色浅黒く、クリクリした目のチャーミングなお嬢さんであった。車内
 でも何処でも極めて熱心にガイドをしてくれた。話し、歌い、声をからして。
「さてまあ 皆様 右に見えますのは、米軍が初めて上陸した場所でございまして....さてまあ 皆
 様左手をご覧くださいませ......さてまあ 皆様 其処に見えますのは、嘉手納基地でございまし
 て..........。」    ざっと、こんな調子であった。「バスの中 さてまさてまと バスガイド」
昼飯は那覇市内へ入って珊瑚センターで『名物めんそーれ』と言ううどんを食べた。名物に旨いもの
 無しという代物だった。うどんのような処へ骨付きの豚肉やあれこれを入っていて、そこへ煮えたぎっ
 ている汁をかけて食べるものである。五目飯のような大きなおにぎりも付いていてボリュウムはたっ
 ぷり。久司さんは、豚肉には手をつけなかった。私はこりこりと沖縄料理を味わった。
この店には珊瑚の飾り物が沢山置いてあった。10pほどの木の形をした桃色珊瑚が何と35万円、
 見間違いかと思って見直したが35万円であった。一寸私には手が出ない物である。
那覇市内を通り首里城へ。
 ここは15世紀初めから明治政府に最後の王尚泰が明け
 渡すまで、450年間の王城であった。愚かな第二次世界大
 戦により、その貴重な文化遺産はすべて灰燼となってしまっ
 た。現在の建造物は復帰20周年に当たる平成4年に復元
 され、首里城公園としてオープンしたものである。今から10
 0年前まではここに王様がいて、五十年前まではその建物
 が残っていたのに壊滅し、そして今こうしてより美しく再現さ
 れたのである。汗を拭き拭き、琉球王国の平和のシンボル
写真守礼門(門には守礼の邦と書かれた額が掲げられてい
 た)から石畳の上を、いくつもの門を潜って首里城の正殿に
 出た。
左瑞泉門:城

の珊瑚の石
灰岩
で造った石
垣の
上が正殿

右は首里城
正殿
 万里の長城を思わせる城壁と城門がバランスがとれていて美しい。何枚か写真を撮りながら、又、
 来た方を何回か振り返って見ながら歩いた。久司さんは、以前はベテランの石工職人である。今も右
 手の肘関節がへの字に曲がって伸びないそうである。その久司さんは城壁の珊瑚の石灰岩で造っ
 た石垣を、手で撫でたりしながら、その造りの良さや、石材の質の良さに感心していた。城壁の一番
 高いところは16b、幅は4bとのこと。石畳や城壁の白と樹木の濃い緑が南国の日に映えて美し
 い。
 ¥680の団体入場券を手にして、奉神門を潜ると広々とした庭に出る。正面には、壮麗な首里城正
 殿が建ち、赤と金と白色を基調にした色彩に目を奪われた。正面の朱塗りの龍柱は、中国文化その
 ものを感じさせる素晴らしい造りである。南殿から内部に入り一巡した。内部は、カリンで造られた国
 王専用の椅子が素晴らしかったが他はそれほどの物はなかった。
 この首里城見学で沖縄の旅は終わった。私にとって沖縄とは何だったのだろう。ホテルでした囲
 碁、ムーンビーチでの水泳、、泡盛、この首里城、そして琉球のその昔を感じ取ろうとした旅だったよ
 うに思うのです。
 那覇空港からは、17:50発東京行きで、沖縄を後にした。途中大気の状態が悪いので、シートベ
 ルトははずさないようにとアナウンスがあった。梅雨前線の上を通過するらしい。久司さんも帰りとも
 なれば、だいぶ飛行機にも慣れ、「囲碁でもやるかい」と一番やった。スチュワーデスも話しかけやす
 いようで、「どっちが勝ったの」私たちも親しみを持って彼女と接することが出来た。久司さんは、「スチ
 ュワーデスは綺麗ですね」と感心したような口調であった。飛行機はがたびし揺れたり、積乱雲を迂
 回にしたりしながらも定刻に羽田へ着いた。羽田は雨だった。
 東京駅八重洲南口から、高速夜行バスで帰宅した。23:30発 待ち時間が2時間以上あったが、
 駅の床にどっかりと腰を下ろして、囲碁を何番かやり時間をつぶした。大阪からの夜行バスは、横に3
 シートであったが、今回は4シートなので窮屈な感じがした。でも旅の疲れから、それなりに眠ること
 が出来た。中野駅には、女房が車で迎えに来ていた。 

3.エピローグ
 今回は、沖縄での休日二人旅、碁盤を持っての気楽な旅でした。
"旅は道連れ世は情け"と言うが久司さんのお陰で無事にそして楽しい旅が過ごせました。
感謝申し上げると共に機会があったら又どこかへ一緒に行きたいものです。
それにしても、梅雨時、天気には恵まれた旅でした。神に感謝しながら。
   
     "旅を終えて アスパラまるけ 梅雨の雨"                               
                                                               
     
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