![]() 1.プロローグ
"夏旅や 体調(からだ)気にする 歳になり"
去年の今頃は、やはり6泊7日で東北を、高野君兄伸と私の3人で旅をしていた頃である。その伸が
肺癌で既にこの世になく、残された高野君と私の二人旅になってしまった。昨年の旅途中の安宿で、 焼酎の水割りを飲みながら、来年は四国の太平洋側を回ろうかと、3人で話し合ったのが、そもそも この旅の発端である。 南洋に台風が発生し、うだるような暑さであるその台風に向かっての出発である。東北と言えば、何
処か涼しげに感ずるが、瀬戸内海四国方面というと聞いただけで暑くなる。前回は1800q、今回は 2700qの旅になる。従って計画段階では、ここでこうして、この見学箇所ははしょってと、イメージ運 転をしながら体力を考えて立案した。 2.日程の概要・所感
■1日目 7月29日 月 晴れ出発→岡山県倉敷市
4:00AM よくしたもので起こされもしないのに目が覚めた。いよいよ出発である。南洋に発生した
台風はのろのろと東支那海方面に向かっている。明日は台風の本場室戸岬泊の予定である。 "台風の 動き気になる 旅始め"
女房の握ってくれたおにぎりと、ポットに入れたコーヒーを持って朝の5:00出発。途中で高野君が
乗って、長野ICから高速道へ入った。琵琶湖の東側にある多賀サービスエリアへ11:00着。少し早 かったがここで昼食、朝が早かっので。持参したおにぎりは二人で食った デリシャス 旨かった。 高速道では、"スピードは押さえ気味に、ジャンクションは侵入を誤らないこと"は100も承知している
事項である。ところが吹田のジャンクションで中国道へ入るのを間違えて名神高速道をそのまま進ん でしまった。その為に尼崎市から宝塚インターチェンジまで街中の普通道を走る羽目になってしまっ た。ロス時間1時間。 尼崎市は姉かつ江が戦争中勤めた工場のあったところである。初めて走る場所だが、そんなことか
らどことなく懐かしく、隣の高野君に「道を間違えたお陰で、姉が住んだことのある尼崎を走ることが 出来た。」など負け惜しみを言いながら走った。道を間違えて知らない街を走るのも、これまた大事な 旅の内である。今夜の宿舎は、岡山県倉敷市、大原美術館の直ぐ近くである。宿舎の近くまで来て3 0分もうろついてしまった。結局宿舎着5:00。家を出てから12時間を要したことになる。 ![]() え、また、大原美術館・考古館・民芸館がある。臨海地帯の水島地 区にはコンビナートが発展。人口四一万四千夕食前に倉敷川沿い の柳並木を散策した。ここは倉敷美観地区になっていって、昔の面 影を出来るだけ忠実に現代に伝えている地域である。道沿いにある 家屋は、昔ながらの倉造りの家が多く、倉敷紡績を核として発展した 商業都市の名残を今にとどめている。夕暮れの倉敷川には緋鯉が 泳ぎ、水面には、小魚のはねる丸い水紋が幾つも弧を描いていた。 街の真ん中に、こんなに静かな地域があることは驚きであった。写 真は倉敷側沿いの柳並木 "暮れなずむ 倉敷川や 孫思い"
宿舎への帰り道で、出がけに泣いてしばしの別れを惜しんだ孫史織のことが思い出されて、家に電
話をした。旅先かららの電話はこの一本だけである。 オンザロックの水割り焼酎で、今日の日に乾杯!明日もいい日でありますように。 民宿柏屋泊
■2日目 7月30日 火 晴れ
宿舎−早島IC−瀬戸の大橋−鳴戸大橋−室戸岬..泊
【瀬戸大橋】
![]() どを経て香川県坂出市まで9.4キロメートルの海峡部を結ぶ橋。下津井 瀬戸大橋、南・北備讃瀬戸大橋など道路・鉄道併用の六橋から構 成。1988年完成。 瀬戸内海を左右に眺めながら走る瀬戸の大橋は、なんと言っても 日本一の橋である。朝早いせいか車の通りが少なく、周りを眺めな がらゆっくりと走れた。途中与島で橋を降りて、瀬戸の大橋を下から 眺めてみた(写真)。白い橋に朝日が反射し、光と陰のコントラストが 実に美しい。橋に見とれて走っていたら坂井出ジャンクション→高松 ICの予定なのに、坂井出インターで降りてしまった。ここは降りる専 門で高速道へは入られない。普通道を高松市内のど真ん中を走って屋島へと向かった。ロス時間時 間30分これも旅の内。 【屋島】香川県高松市にある島山。かつての島が陸繋されて半島となった。山頂の平坦な溶岩台地
で屋根形をなし、 南北二嶺に分れる。長門の壇ノ浦とともに源平古戦場として名高く、南嶺に屋島寺 がある。 【那須与一】鎌倉初期の武将。下野那須の人。与市・余一とも。名は宗高。1185年(文治一)屋島の 戦に扇の的を射落して名をあげ、丹波・信濃など五ヵ国に所領を賜り那須の総領となったが、のち剃 髪して伏見の即成院に入った。生没年未詳。 ![]() ろくも敗退したところである。那須与市が軍扇を鏑矢で見事に射落と した浜は、屋島寺へ通じる急坂有料道路の右手眼下に遠望できる。 その与市が立っていた場所は、埋め立てられて人家が建っていた。 道路脇の展望台に車を止めて、しばしその辺りを眺めた。奥羽の義 経堂の高台で、松尾芭蕉が残した名文と句が思い出された。 国破れて山河があり....... "夏草や 兵ものどもが 夢の跡" 写真は屋島の古戦場 屋島は溶岩台地であり、その頂上付近に屋島寺がある。屋島寺は四国霊場84番札所である。な
かなか立派なお寺であった。 ここで昼食 レストランで、天ぷらうどんを食べた。 【鳴門海峡】
![]() 路島南西端の門崎(トザキ)との間約千四百メートルの水道を特 に大鳴門という。潮の干満の際に海峡を通過する潮流が音 をとどろかせながら大渦巻を起し、壮観を呈する。1985年 に大鳴門橋が完成 屋島からは海岸沿いに国道11号線で鳴門に向かった。鳴 門公園の展望台に上がり、鳴門海峡とそこに架かっいる鳴 戸大橋を眺めた。大橋の下を潮流が川のように波立って流 れいた。観潮船での渦潮見学は以前に来たときに見たこと がある。 写真はなると公園展望台から鳴門大橋とその下にある鳴門海峡をバックにして "阿波と淡路の、狭間の海は ここぞ名に負う、鳴門の潮路 巻いて流れて、流れて巻い
て......."と文部省唱歌に歌われている場所である。そんな歌を口ずさみながら、ぼーっとして 瀬戸内海、鳴門大橋、島々、そして潮流を眺めた。ぼーとなるほど暑い日であった。 ![]() である。国道55号線を海岸沿いに、室戸岬へ向かって一路南下し た。徳島県から高知県に入るとその一帯は、『室戸阿南海岸国定公 園』である。 車窓左に広大な太平洋を眺めながら、室戸岬へ飛ばした。台風の 影響だろうか海岸は白波が砕け、その辺りは潮煙に霞んでいる。外 気がエアコンで冷やされ、腕がべたついて気持ちが悪い。それにし ても雄大な海原である。遠く大きなフェリーが見えた。「九州辺りへ 行く船だろうか」と高野君。 室戸岬の最先端にある今夜の宿舎室戸荘に5:00頃着いた。灯台でも見ようかと思ったら、岬の 先端の海端にあるのではなく、裏山を車で上った高台にあった。灯台の北側の林の中に最御崎寺 (ほつみさきじ)がありお参りをした。24番札所で本堂や多宝塔、鐘楼などが古寺の風格を漂わせて いた。写真は灯台 持参した、焼酎のオンザロックで、今日の日に乾杯!! 高知県 室戸荘泊
■3日目 7月31日 水 晴れ
室戸岬→高知市(桂浜、高知城)→足摺岬
今日は土佐湾沿いに、国道55と国道56を乗り継ぎ、四国の最南端 足摺岬への旅である。
7:30出発。今日も朝から暑い一日であった。先ず高知の観光名所 桂浜に向かって走った。コー スはカーナビ任せ、カセットから流れる同じメロディーを何回も聞き流しながら、暑い暑いと思いなが らの車の旅である。桂浜は古くから、月の名所と知られたところである。よさこい節にも "見ましょう見せましょ 浦戸を開けて 月の名所は桂浜 よさこいよさこい "
![]() るようになっていた。公園には太平洋を向いて、坂本龍馬の大きな 銅像が建っていた。桂浜は、見渡す限り続く太平洋と美しい砂浜に 松の緑を添え名所の名に恥じない情景を見せてくれた。それにして も暑い、夜東の海から昇る大きな満月を、砂浜の上で目を閉じてイメ ージしてみた。しかし現実は、カットする夏の日射しの中で涼を呼ぶ ものではなかった。砂浜で、お遍路さん逢った(空海が修行して歩い たという四国八十八カ所の霊場を周り歩く人)その方に高野君と二 人シャッターを押して貰った。信心気の少ない私達は、恐る恐るお願 いしたが気持ちよく応じていただいた。 写真は桂浜での高野君 ここで昼食。
![]() た..."と歌われる播磨屋橋を通ったが、播磨屋橋は街の ど真ん中の交差点、その昔を偲ぶ赤い欄干があった。..だ けだった。 高知城は賢妻山之内一豊の妻で知られる。その一豊が、 関ヶ原の合戦で東軍に属し、土佐24万石のこの地に移封さ れ、再築した城である。再建された物でなく3層6階のの天 守閣が残る本物の城である。城内は公園として整備され、 一豊の妻が馬を引いている銅像があったり、又楠や樫の常 緑広葉樹が多く南国らしさを感じさせる。 【山内一豊】
安土桃山時代の武将。土佐藩祖。初め織田信長、後に豊臣秀吉に仕えた。秀吉没後、徳川家康に
仕え、上杉征伐・関ヶ原の戦に功をたて、土佐二○万石に封。その妻(近江の浅井氏の臣若宮喜助 友興の娘)は、信長の閲馬のとき鏡箱から黄金一○両を出して一豊に名馬を買わせ、夫の立身の基 を作ったという。(154611605) 高知市から、今夜の宿舎のある土佐清水市の足摺岬までは、160qの行程である。高知市街を抜
けると、車は少なく快調に走れた。途中、日本最後の清流と言われる四万十川沿いに走ったが、車を 止めてじっくりと見るべきであった。 ![]() コースであった。そこを登って下った。登り切ったところにある展望台 に車を止めて、足摺岬を眺めた。高波と気温が高いためだろうか、 薄もやがかかった状態で、今ひとつパットしなかった。 足摺岬では、椿のトンネル(写真)を通って先ず、灯台へ出てみた。 灯台は岬の先端にあり大正3年の建設。時代を反映してかモダンな デザインである。空に向かって飛び立つような白い姿と、青い空や 海とのコントラストはなかなかよい。思わず何枚かシャッターたを切っ た。その下は断崖であり、黒潮が渦を巻いて泡立っていた。私は高 所恐怖症ではないが、見ていると目が回りそうで怖かった。 ![]() っていた。万次郎は、土佐清水市出身の漁師→遭難→アメリカの捕鯨船に救 助され→渡米.....→幕末の外交舞台で活躍・日米交流の先駆けをした人 である。これは地元の人の誇りでもある。万次郎の像から道路を挟んだ反対 側に、金剛福寺がありお参りをしてきた。ここも何番かの札所、弘法大師(空 海)の大きな銅像があったり、多宝塔、本堂等美しい古寺であった。 【中浜万次郎】幕末・明治の語学者。土佐国の漁夫の次男。1841年(天保一 二)出漁中に漂流、米船に救われ米国で教育を受け、51年(嘉永四)帰国。土 佐藩、ついで幕府に仕え、翻訳・航海・測量・英語の教授に当る。のち開成学 校教授。ジョン万次郎。(182711898) 今日は室戸岬から足摺岬まで、土佐300qの旅であった。海、山、川、亜熱 帯の緑濃き植物、砂浜、城、灯台・寺と変化に富んだ行程であった。土佐は、四国の半分を占めるだ けあって、走れども走れどもと土佐の内であった。 "土佐の海 どこも暑さに 霞みけり" またまた、宿舎を見つけるのに、うろうろしてしまい30分のロス。
福田屋泊 高知県 土佐清水市 足摺岬
■4日目 8月1日 木 晴れ
足摺岬−スカイライン−竜串−宇和島市(宇和島城)→松山市泊
![]() 後温泉や松山城をと考えたが、結果的には無理をしないでその両者 は割愛した。竜串では、海蝕によって出来た不思議な形をした岩が 続々と続く様を見る予定であったが、満ち潮でそれらは何れも海面 下。昼頃にならないと顔を出さないとのこと、昼まで待つわけにもい かないので、海ギャラリーこと竜串貝類展示館で300種8000点の 貝の標本を休息を兼ねてゆっくりと見た。写真は竜串の海岸 【宇和島】 愛媛県南西部の市。もと伊達氏10万石の城下町。豊後 水道に臨む伊予(イヨ)南部の中心都市。 段々畑と闘牛が有名。人口6万8千。
宇和島市は闘牛が有名だが、これは年四回だけ。目的は伊達十万石の居城になった宇和島
城である。宇和島城は亜熱帯の木陰を歩いて十分ばかりの丘の上にある。石段を一つ一つ踏 みしめながら登るその左右には、築城以来斧を入れたことのない自然、南国の闊葉樹が繁茂 し、原始林になっている。目立つ樹木や草までに名札が付いていて大変よい勉強になった。ク スノキ、コガノキ、クロガネモチ・ムクノキ、イヌマキ、ウメバガシ、等の樹木。樹下には、ノシラ ン、ヤブミョウガ、ハナミョウガ、オニブソテツ、シャガ等の群生が観られる。城は藤堂高虎が築 城し、関ヶ原の戦いの後、高虎は今治32万石を受領、転封し、伊達政宗の長子秀宗が変わっ て入城。それ以来伊達氏の居城となった旧城である。 城の近くの中華料理店で昼食、八宝菜定食は旨かった。 この後一路国道56で松山市内の宿舎へ向かう。宿舎では、私たちと同じように車で旅をしている6
0才代の神奈川県から来たという夫妻と何かにと旅にまつわる話をしながらの夕食であった。奥さん がなかなかのやり手で、旅の計画からNavigatorまで引き受けてやっているとのこと。「時折喧嘩を したりしての旅ですわ」と笑って話していたが、仲の良さそうな夫妻であた。焼酎のオンザロックが旨 かった。宿の窓から、ライトアップされた松山城が遠望できた。 民宿松山荘泊
■5日目 8月2日 金 晴れ
松山市−瀬戸の大橋−米子−松江(松江城)−宍道湖−出雲大社−大社
町泊 走行距離400q ![]() 鷲羽山からの眺めもいいと聞いたが割愛して、今日は四国 の縦断と本州の横断の走行に専念した。落合ジャンクション から米子道へはいり、蒜山サービスエリアで昼食ここでのそ ばセットは旨かった。 米子インターチェンジからは普通道を走り、島根県の県庁 所在地である松江市へ入った。時間があったので、松江城 を一周して、城を参観した。一名千鳥城と呼ばれる五層六階 の美しい城である。 (写真は松江城) 【宍道湖】 島根県島根半島南側の汽水湖。最大深度6メートル。面積7 9平方キロメートル。風光明媚。わが国最大のヤマトシジミの産地。淡水魚の産が多い。 松江市は、東に中海、西に宍道湖をひかえる山陰一の都市で、かつては松平藩18万6千石の城下
町である。松江市からは宍道湖沿いに大社へ向かった。眺めはいいし、道も車や信号も少なく快調 であった。窓を開け宍道湖の涼風に吹かれながら。 ![]() 大社。主神は大国主命。天之御中主神(アマノミナカヌシノカミ)・高皇産霊 神(タカミムスビノカミ)・神皇産霊神(カミムスビノカミ)・宇麻志阿志軻備比古遅 命(ウマシアシカビヒコジノミコト)・天之常立神(アマノトコタチノカミ)を配祀。社殿は 大社造(タイシヤヅクリ)と称し、日本最古の神社建築の様式。出雲国一 の宮。いずものおおやしろ。杵築大社。 ![]() 一度は訪れてみたいと思っていた ところである。先ず目に付くのは、神 楽殿にある日本一大きなしめ縄で ある。初めはこれが本宮かと思ってお参りした、本宮はそこから奥へ 入ったところにあった。大社造りの立派な建物で、塀が回してあり、 中へ入れないようになっていった。正面でお参りしたり、神様に一番 近い西側でもお参りした。計3回もお参りしたので効き目は何かある ものと思うが?。写真左:出雲大社神楽殿 写真右:大社本宮 宿舎は、大鳥居の直ぐ近くの福屋さんである。当日のお客は私たち二人だけ、サービス満点でコッ
プに焼酎をついでくれたのはここだけである。民宿らしい親切で気持ちの通じ合う宿であった。エアコ ンを一晩中つけて置いても未だ暑い。今日は一日中暑かった。 "佛から 神と神話へ 夏の旅 "
■6日目 8月3日 土 晴れ大社町→鳥取の砂丘→天橋立......泊 320q
今日も朝から暑い、宿のおばさんに見送られて7:30出発 【鳥取砂丘】
鳥取県東部、千代(センダイ)川河口に発達した海岸の大砂丘。千代川の流下土砂および海食による細
砂が沿岸潮流と北西卓越風とによって形成。山陰海岸国立公園をなし、植林や農業開発も試みられ ている。 ![]() ら砂丘へ出られるようになっている。 資料によれば東西16q、南 北2q日本一のスケールを誇る砂丘とのこと。駐車場から松林の小 道を登り切ると、目の前に突然広大な砂丘が現れる。足もとはすり 鉢の縁、その底から海辺にかけて、小山のような砂丘が続いてい る。豆粒のように見える人々がこの暑さの中を、砂丘に続く日本海を 観るためにうごめいている。クァッとした真夏の昼時の砂丘、私たち にはとてもそれだけのエネルギーがないので、¥700の馬車に乗っ て観て回った。砂は薄桃色でエジプトの砂漠の砂と似ているように 思えた。 ここで昼食、海鮮ラーメンはまあまあの味だった。
"クァッとした 夏の砂丘や 馬車に乗り"
![]() 約三キロメートルの白砂の松林で、成相山・傘松からの縦一文字と、大 内峠(オウチトウゲ)からの横一文字の景色は特に有名。 若狭湾に伸 びる砂州、天の橋立を縦断する道路は、道路マップでは、『日本の 道100選の一つ 府道、天の橋立線3.2q』とか書かれており、カ ーナビで見ても自動車で走れそうに思われる。でも日本三景の一つ である名所を車で走れるとは常識としては、あり得ないと思ってい た。走れる仮定で、橋立の向こう側からこちら側へ縦断しようとした が、この目論見は見事にはずれ、車では走れない天の橋立であっ た。天の橋立の周りを海岸沿いに180度往復したことになる。独断は駄目、疑わしきは確かめるべき であった。写真は天橋立:朝 この周辺は、海水浴をする人々や観光客で随分賑わっており、街にも活気が感じられた。宿舎も満
杯で三十人くらいの客で、騒々しい状態であった。この頃の宿としては珍しく、夕飯は部屋へ運んでく れたので、周囲に気兼ねなく、くつろいで食べられた。 "橋立の 周りうろうろ 夏の旅"
京都府宮津市天の橋立民宿山盛り荘泊
■7日目 8月4日 日 晴れ 最終日 天橋立→長浜城→帰宅
bを通って、松林の中の道路を散策した。回旋橋のたもとでは、アサリを採っている漁師や魚釣りを 楽しんでいる人また 海水浴の家族連れの人々で朝早くから賑わっていた。 帰りに、橋立の入り口にある知恩寺(文殊堂)に詣でた。『3人よれば文殊の知恵』の言葉通り知恵
の神様で、受験生には評判がよいという。 朝食後、文珠山にあるビューランドへリフトで上がり、上から天橋立を眺めた。股のぞきをする場所が
あったのでしてみた。上から見る橋立は平仮名の『く』の字型に伸びており、何か躍動感が感じられ た。 ![]() 城である長浜城(写真)を見学した。長浜城は、琵琶湖のほとりに再 建された鉄筋コンクリートの城である。城内はエアコンもあり涼しかっ た。ちょうど秀吉の何周年かの記念展覧会が開かれていて、見るも のは多かった。 この後、琵琶湖を右に眺めながら、米原市へ出た。 帰る旅、慌てたことはない。『琵琶湖周航の歌』"我は湖の子 さすら いの 旅にしあれば しみじみと 昇る狭霧や さざ波の 志賀の都 よ いざさらば........"とか、旧制一高の難関に挑んで失敗した失意の受験生の胸の内を歌っ たと言われる『北帰行』"窓は夜露に濡れて 都既に遠のく 北へ帰る旅人一人 涙流れて止まず" 等少し感傷的な歌を口ずさみながら走った。これで旅は終わりであると思うとやはりほっとする反面、 感傷的にもなるようである。米原インターチェンジから高速道をひた走り帰宅8:30PMであった。 孫史織は待ちくたびれて既に眠ってしまっていた。
3.エピローグ
焼酎をぶら下げて、おおらかな高野君との旅。道を間違えても、これも旅の内と楽しめる旅であっ
た。欲を言えば道後温泉にも入浴してみたかったし、鷲羽山にも登ってみたかったが、予定したコー スを無事に、ゆとりを持って走破できたことが何よりであった。これもNavigatorを忠実に勤めてくれ た高野君のお陰。旅の中でお世話になった方々に感謝しながら。 "書き終えて ほっと一息 お盆前"
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