紀伊半島
1997年(平成9年)8月8日〜8月12日
1.プロローグ
車での夏旅も、北海道、東北、四国山陰に続いて4回目になる今回は学友窪田幸、小林文治、高野
 昭、中曽根英介の諸氏と私の5人の旅である。中曽根君とは初めての旅だが、学友とはよくしたも
 の、卒業以来40数年の歳月を越え、何のこだわりもなく、まじわえるものである。
台風11号が沖縄本島を通過して北上している時点での旅立ちである。日本海に抜けそうな予報だ
 が、やはり気になる出発前日であった。
   "台風の 動き気になる 紀伊巡り"

 計画段階では走行距離約1500q、一人当たりの経費は5万円。仕事分担は、Navigator高野
 君、ガイドと要所での解説は小林君、会計は窪田君、運転は中曽根君と私。今回の旅から運転交代
 者中曽根君が入ったので、安定した車の旅になった。

2.日程の概要と所感
■1日目 8月8日 金  雨のち晴れ  出発
6:10 窪田、小林、高野の諸氏と雨の中、我が家を出発。姨捨サービスエリアで中曽根君と合流、
 ここまで予定より20分遅れ。岡谷ジャンクションから上伊那へ入った頃から雨も上がり爽快。上伊
 那、下伊那はかつての勤務地。南アルプスや天竜川沿いの河岸段丘は、いつ見ても渋みのある懐
 かしい風景である。
小牧ジャンクションから春日井市に入ったところで渋滞、名古屋ジャンクションまで続きこの間のロス
 時間は40分、この位は予定内。東名阪自動車道は平坦で単調、木曽川を渡れば三重県である。こ
 の木曽川と揖斐川に挟まれて長島町があるが、高野君の長男靖君が住んでいるところ、この辺りは
 水害の防築堤で有名な遺跡があると高野君の弁。関ジャンクションから伊勢自動車道へ入ると車の
 数もぐんと減り快調なドライブが楽しめた。
伊勢自動車道 安濃サービスエリアで昼食。

【伊勢神宮】
三重県伊勢市にある皇室の宗廟。皇大神宮(内宮)と豊受(トヨウケ)大神宮(外宮)との総称。皇大神宮
 の祭神は天照大神、御霊代は八咫鏡(ヤタノカガミ)。豊受大神宮の祭神は豊受大神。20年ごとに社殿
 を造りかえる式年造替の制を残し、正殿の様式は唯一神明造(ユイツシンメイヅクリ)と称。三社の一。22社
 の一。伊勢大廟。大神宮。神宮。

伊勢神宮は、私は初めてであるが、他の皆さんは何回目かの参拝のようってある。日本人であれ
 ば、一生に一度は詣でるものとされている神宮である。
外宮:緑濃い杉木立の中にあるが、私たちは広々とした参道の玉砂利を踏みながら『紀元は2600
 年』などの復古調の歌を唄ったりして、颯爽と正殿に向かった。ここは作物や衣食住の神様である豊
 受けの大神を祀ってあるそうだが、正殿内は立入禁止、写真撮影も禁止になっている。内宮も同様
 であった、もっと外部に開かれた神様であって欲しいものである。内宮への途中、道を間違えて尋ね
 たら、関西弁で丁寧に分かりやすく教えてくれた。この旅では、道を尋ねたのは4〜5回あったが、何
 れも丁寧に教えていただいた。紀伊の人々は、人懐こく親切のように思われて好感が持てた。
内宮:五十鈴川のほとりに下り、その清流で先ず手を清めた。『水清
 くして魚住まず』の諺に反して真鯉や緋鯉がゆったりと泳いでいた。
 中曽根君はここで泳いでみたいと言っていたが、そう思う程の清流
 であり、また 暑い午後の日であった。名ガイド小林君は、小学校三
 年の教科書に、この五十鈴川縁の写真が掲載され、これこれしかじ
 かと書かれていたなどと細かく解説してくれた。さすが当時級長を務
 めた秀才だけあって、私とは違うなと思いながら拝聴した。(写真右
は五十鈴川のほとりで)
   "内宮や 五十鈴川辺に 蝉しぐれ"

 内宮から『伊勢志摩スカイライン』を通って鳥羽へ出た。この道路は四国の『足摺スカイライン』とよく
 似た道路である。植物層も信州とは違って常緑闊葉樹が多く また
  展望台からは伊勢湾の島々を美しく眺望することが出来た。鳥羽
 への目的はミキモト真珠島の観光であったが、5時PMで閉館。苦
 労してやっと見つけた有料パーキングに駐車して行ったら、既に閉
 館。ガックリ、駐車料金は10分ばかりで5百円もとられてしまった。こ
 れは企画した私のミス、誠に申し訳ない。
(写真左:伊勢志摩スカイライン展望台)
【二見ノ浦】
三重県度会(ワタライ)郡二見町海岸の名勝。東端に夫婦岩(メオトイワ)が
 ある。日の出は特に有名で、迎拝者が多い。ふたみがうら。
 二見が浦の夫婦岩は思ったより小さな感じがした。干潮時には夫
 婦岩まで歩いていけるとのこと、これでは風情が半減である。幸い
 海面に浮かぶ岩であった。海岸周辺の岩石は緑泥片岩のように思
 われた。夫婦岩もこの様な岩石から出来ていると思われる。この辺
 りは中央構造線による変成帯になっているから。変成作用を受けた
 片岩類があるのだろう。夫婦岩と向き合いの海岸には、交通安全の
 神である二見興玉神社があり、『無事に帰る』など縁起を担いで、カ
 エルがお守りになっているとのこと。また締め縄を張った夫婦岩が、
 この神社の『自然の鳥居』という見方もあるようで、なるほどなと思っ
 て見た。
三重県二見町  旅館見浜屋泊  ビールで今日の日に乾杯 明日もいい日でありますよに。

■2日目 8月9日 土 曇り
【大王崎】
三重県中央部、志摩半島南東端の岬。外洋に突出し、約50メートルの海食崖上に大王崎灯台があ
 る。
 パールロードを通って奥志摩大王崎灯台へ。灯台は、波切(地名)
 の土産店の並ぶ細い坂道を上り詰めた突端に建つ。昭和2年に建
 てられた白亜の大王崎灯台だ。灯台としては珍しく中に入ることが
 出来る。展望台へと続く螺旋状階段を上がると熊野灘の風景が開け
 る。幸い天気は晴れ、さわやかな風が頬を撫で、眼下に数々の岩礁
 が点在している。視点を転じれば、波切りの漁港とその後ろに大王
 町の街並み。左手遠く神島だろうか渥美半島だろうか霞んで見え雄
 大な景観である。....帰りに波切りの土産店で真珠や昆布の土
 産を買った。(写真右は大王崎灯台)

【那智の滝】和歌山県東牟婁(ムロ)郡那智勝浦町、那智山南腹にある滝。那智
 48滝中の最大の滝で、那智川の上流海抜約3百メートルの絶壁にかかり、落差
 約130メートル、幅9〜13メートル。 
  那智の滝への途中で昼食にした。食べる場所やメニューは中曽根君が係で
 ある。彼の選んだレストランで昼食、『カツ御膳』なる物を食べたが、ボリューム
 たっぷり、旨かったが食べきれなかった。やはり歳かなとガックリ。 
  那智の滝は小雨降る中の観光であった。鳥居を潜り、杉の老木に囲まれた
 石段を下ると滝壺へ出られるようになっている。水量も多く見事な滝である。高
 さ133b幅12b滔々として落下するこの滝は熊の那智大社のご神体である。
 夕方の小雨降る薄暗い時間帯であり、また神域だけに神々しい感じのする滝
 であった。(左那智の滝)
 この那智大社の近くにある青岸渡寺から見る那智の滝が、一番美しいと言わ
 れている。この寺は西国三十三カ所第1番札所にもなっているので参観する予定であったが時間の
 都合で割愛した。
【串本】
和歌山県南端の町。潮岬を紀伊半島に結びつけている砂洲の上に市街がある。漁港があり漁業が
 盛ん。串本へのリンク
 この後『ここは串本、向こうは大島.......』の歌で知られる、串
 本の潮岬へ向かった。途中名勝、天然記念物である橋杭岩で車を
 止めた。この岩は資料によれば、第三期層の頁岩を破って噴出した
 石英粗面岩が浸食を受けてこの様になったものである。橋脚のよう
 な岩が、大島の方へ700bくらいの長さで伸びている。干潮時のた
 めだろうか200bくらい先まで歩いていける状態であった。この辺り
 は隆起した地形であり、直ぐ近くの潮岬は砂州による陸繋島であ
 る。時間も遅くなったので潮岬は明日にして、今夜の宿舎を探そうと
 思って周囲を見回したら、何と宿舎『一の島』は直ぐ目の前にあっ
 た。
和歌山県橋本町 民宿一の島 泊 ビールで今日の日に乾杯、明日もいい日でありますように。

■3日目 8月10日 日 晴れたり曇ったり、にわか雨が降ったり
潮岬は直ぐそこなので、カーナビのセッティングは潮岬を参観した後にしようと気軽に出発した。油断
 大敵、砂州にしては、アップダウンの激しいカーブのきつい道路だな。これは一寸変だぞ!と思ったと
 きには時遅し、潮岬を通過して白浜温泉の近くまで来てしまっていたのでした。「ここから引き返せ
 ば、2時間のロスタイム」だとナビ高野君の弁。潮の岬は割愛して白浜温泉へ向かった。勿論カーナ
 ビはセッティングして。

【白浜】
和歌山県西牟婁(ニシムロ)郡の町。白浜・湯崎などの温泉がある。古代の白良浜(シララノハマ)の地で歌
 枕。牟婁の湯として「斉明紀」以降知られたのは湯崎で、白浜は新しい。含食塩アルカリ泉。

白浜温泉では、三段壁、千畳敷の順に見て回った。何れも沈降崖に
 ある泥岩のような平たい岩石の広場である。隆起そして沈降したの
 であろうか。写真は三段壁
 次に白浜温泉のシンボルである円月島へ向かった。海浜の狭い
 道路は人と車の波。渋滞がひどくて、これでは円月島までの時間の
 予測が立たない。円月島は割愛することにした。でも渋滞の中で、
 白浜温泉のホテル街、海水浴場の人波のすごさ、石英と珪石からな
 る白い砂浜などからムード的には白浜温泉なるものを感じとれたよ
 うに思います。
白浜→和歌山市へ。
【和歌山】和歌山県北西部の市。県庁所在地。紀ノ川河口左岸、紀伊水道に
 面し、河口付近は金属・化学工場地帯。もと徳川氏五五万石の城下町。竹垣
 城址には城門・城塁・城濠を遺す。紀三井寺・和歌の浦の名所がある。古名、
 雄之水門(オノミナト)吹上浜。人口39万6千。
  高速道路が当初の計画より一区間伸びていたし渋滞もなかったので時間稼
 ぎが出来た。南海市ICから紀三井寺へ、写真右は紀三井寺の入り口です
 紀三井寺:西国三十三番札所の第2番札所である。正しくは『紀三井山護国
 院金剛宝寺』と言い真言宗系救世観音宗、770年創建の名刹。厄落としの石
 段は100段もあっただろうか、フウフウとして登り参拝した。
  本尊は十一面観音、境内は和歌ノ浦を一望する景勝地であり、また桜の名
 所でもある。石段も苦労したが、有料パーキングのおっさんが、いちこつな人
 で、これも随分苦労させられた。駐車場は空きずきして
 いるのに曲がっているだの、もっとこっちへ寄せろだの文句100たらもこかれ
 て5−6回も入れ直しをさせられてしまった。その上指定された店で3000円以
 上の買い物をしなければ、駐車料金は700円よこせと言う。これぞ佛の威を借
 りる狼である。700円も払うのは馬鹿らしいので、五人で3000円の昼食を食
 って和歌山城へ向かった。和歌山城は、秀吉が紀州平定後築城し、若山城と
 命名した。これが和歌山の起源になったとのことです。浅野氏が整備、徳川頼
 宣が入城以来明治に至るまで徳川親藩五十五万五千石の居城となった。天
 守閣は落雷で焼失(1846)再建(1850)、空襲で焼失(1945)、1958年鉄
 筋コンクリートの現在の城が復元された。大河ドラマでおなじみの徳川五代将
 軍吉宗の育った城であるから、どことなく親しみが感じられた。
写真左は和歌山城

【高野山】
和歌山県北東部にある、千メートル前後の山に囲まれた真言宗の霊地。816年(弘仁七)空海が自らの
 入定地として下賜を受け、のち真言宗の総本山金剛峰寺(コンゴウブジ)を創建。金剛峰寺の俗称。

 高野山へは紀の川沿いに、昔の参道と思われる山間の狭い田舎道を走った。資料を見ると、二見
 が浦付近から紀の川谷に添って中央構造線が真っ直ぐに走っている。その内帯は領家変成帯、外
 帯は三波変成帯になっているが、この三波変成岩帯を高野山へ向かって走り、高野山からは、構造
 線を横断して領家変成帯から明日香村の内帯へ走ったことになる。高野山から橋本市へ出る国道3
 71号線は、断層崖に添って流れるに丹生川の崖下にあけた道路のように思われる。今考えれば、
 険しかったのも当然である。
高野山の平均高度は900b、隆起準平原が盆地状になった所であ
 り、空海が高野と命名したのが始まりだという。小雨降る中金剛峰寺
 に参拝した。(写真右は金剛峰寺の入り口)高野山真言宗の総本山
 で末寺は4千寺もあり、この主殿は1861年に再再建された物であ
 る。金剛峰寺を中心に現在100余の寺院からなる高野山だが、多
 いときには(1644年頃)二千の寺院があったそうである。
  大日如来を主教とする真言密教は、空海が中国から導入したもの
 である。神秘的な加持祈祷を特色とするこの様な宗教には、どうも
 私は馴染めない。宗教は顕教が分かりやすくていい。
【大日如来】
〔仏〕(摩訶毘盧遮那) 宇宙と一体と考えられる汎神論的な密教の教主。
大日経・金剛頂経の中心尊格。その光明が遍(アマネ)く照らすところから遍照または大日という。大
日経系の胎蔵界と金剛頂経系の金剛界の二種の像がある。遍照如来。遍照尊。遮那教主。

 この後、悪路と渋滞に悩まされながら宿舎に着いたのは7時PM過ぎであった。
   奈良県明日香村 民宿米倉久義宅泊     私も今日は疲れました。

■4日目 8月11日 月 晴れ
焼け付くような猛暑の中を、明日香村から寺社古墳の観光を始める。道案内はカーナビ任せ。
岡寺−石舞台−飛鳥寺−梶原神宮−室生寺−新薬師寺−ホテルと。
明日香村は飛鳥の中心地。日本の上代文化のおびただしい遺跡が
 あり、歴史的に、美術・文学に日本の魂の故郷になっている。大和
 朝廷の政治の中心地でもあった。ここを一日で観光することはとうて
 い無理である。小林君は後日、半月位の予定で実地調査をしたい
 意向のようだが、日本の古代史を知るためには、そのくらいの日数
 が必要だとおもいます。昔の都も今は、田園の中にある片田舎、ひ
 なびた景観に心の安まる場所である。蘇我入鹿の首塚と言われる
 石塔も、その周りは青々とした水田であった。写真右は岡寺です。
 岡寺:龍蓋寺ともいい天智天皇の
 時代に造られた物である。朝未だ早く、係の方が清掃をされている
 中でのすがすがしい参拝であった。巨大な如意輪観音の塑像があ
 り、本堂に上がって身近に参拝することが出来た。樹木や石垣にも
 風格が感じられた。岡寺
 石舞台古墳:蘇我の馬子の墓と言われている。封土が失われて
 巨大な石室が露出している。近くで彼の館『島の宮跡』が発見され
 たことも、馬子の墓と言われている一つの所以であろうか。以前(2
 5〜6年前)に来たときは周囲は草原で無料で自由に参観できたが、今回来てみると、整備されてい
 て、参観料をとる仕組みになっていた。石舞台
 飛鳥寺:宿舎の前の狭い道路をまた通って飛鳥寺へ。安居院(あんごんい
 ん)とも言う。百済から献じられた仏舎利を奉安するために、帰化人を集めて
 556年に竣工した日本最初の公式寺院法興寺の跡である。中には止利仏
 師作青銅の巨大な『飛鳥大仏』と呼ばれる『丈六釈迦如来像』が安置されて
 いる。寺の由来や大仏さんの事等は、係のお坊さんが事細かに、汗を拭き拭
 き熱心に話してくれた。写真は自由に撮っていいし、大仏さんの直ぐ近くで参
 拝できるし開かれた寺院で感じがよかった。この後直ぐ近くにある蘇我入鹿
 の石塔を見に行ってきた。飛鳥寺
 橿原神宮:日本の建国歴史神話の主要地域、梶原市の畝傍山麓に1886
 年神武天皇を祀って創建された物である。こ
 の様な神様には何を願ってお参りをすれば
 いいのだろう。日本のよりよい発展?平和と
 秩序?....単なる自己の幸せではなさそうである。この様な神社
 は神仏混交であった神社(那智大社や戸隠神社)などと比べ一般的
 に明るくて乾燥しいる様な感じがする。ここもさわやかな感じのする
 神社であった。
写真左は梶原神宮
 室生寺へ 梶原市街は若干の渋滞はあったが、室生村からは、清流沿いの静かな走りやすい山道
 であった。シャクナゲや、ツツジの咲く頃は探訪者が多いそうだが今
 はシーズンオフ、人影はまばらで駐車場も食堂もがら空きであった。
 拝観の前に昼食にした。おばあちゃんが一人でやっているこぢんま
 りとした食堂でそばを食べた。私はそれほど旨いとは思わなかった
 が、小林君は「私達は信州ですが、ここのそばは何処で食べたそば
 よりも旨い、本当に旨い」といいながら旨そうに食べるので、おばあ
 ちゃんもすっかり気をよくして、身の上話や自分の人生観について事
 細かに話してくれた。なおその上趣味で造るっている紙布人形を私
 達一人ひとりにくれた。
(写真右:室生寺の入り口にある太鼓橋の上で)
室生寺:真言宗室生派本山680年開基824〜834年空海が中興し、女人の参拝を許したので、女
 人禁止の高野山に対して女人高野として親しまれた。849年建立の金堂と同時代の日本最小の五
 重塔・鎌倉中期の本堂は何れも国宝である。境内にはシャクナゲが沢山あり花の咲く頃は見事だろ
 うと思われた。帰りに、入り口の室生川にかかる太鼓橋で記念写真を撮った。私は今回が2回目の
 参観である。室生寺

新薬師寺へ一部の道路は近頃には珍しいような悪路を通って新薬
 師寺へ。写真は新薬師寺
 新薬師寺:もと東大寺の別院、華厳宗、747年光明皇后が聖武
 天皇の眼病の平癒を祈って行基に開かせたと伝えられている大寺
 だったが、今は本堂(当時の食堂)のみが当時の建造物である。内
 陣は、本尊薬師如来座像とその左右の十一面観音を中心に、その
 周囲に十二神将立像の着色塑像を配した独特の形式になってい
 る。中でも憤怒の形相をし頭髪を炎のように逆立てた『ばさら大勝』が有名である。拝観料6百円、豆
 腐付きの抹茶一杯が1500円、勿論お茶は飲まなかった。私は2回目の参観である。

飛鳥から室生寺、奈良へと変化に富んだ一日であった。
奈良市内公立学校共済春日野荘泊
これで明日は帰宅。
夕食時には窪田君お得意のお肴が出るなど、旅の終わりにふさわしい楽しい宴であった。


■5日目 8月12日 火 晴れ  帰宅
8時AM 帰宅の途に着く。天理市から亀山までは国道25号線、この
 道路は旧有料道路だけあって片道2車線、中央分離帯のある素晴
 らしい道路であった。途中三重県の上野市で上野城跡、俳聖殿、
伊賀忍者屋敷の見学をした。
上野城は藤堂高虎が家康の命により築城、竣工を間近に台風によ
 り崩壊。その後豊臣方の滅亡によって再建の必要が無くなり、天守
 閣のない城として300年経過。現在の白亜三層の天守閣は川崎克
 が私財を投じて建てた物で忠実な復元ではない。天守閣の石垣は
 30bもあり日本の城の中では一番高い。石垣の上から見下ろすと
 震え上がる様な感じであった。上野城
【藤堂高虎】
安土桃山・江戸前期の武将。近江の人。浅井長政・羽柴秀長らに仕え、一時、高野山に入り白雲と
 号。秀吉に召され宇和島城主となり、文禄・慶長の役に従う。秀吉没後は徳川氏に属し、関ヶ原・大
 坂の戦功により伊勢・伊賀三二万石に封。築城にすぐれる。(15561630)

 俳聖殿:建物全体が芭蕉の旅姿を表現した物である。頭部の屋根
 は笠、一階の屋根は肩から腰というふうにした遺品堂である。芭蕉
 はこの地の出身。写真左は俳聖殿
 忍者屋敷:上野市は伊賀忍者の故郷。忍者の在りし日の生活が
 体感できるようになっていた。
  
  ここからはひたすら家路への一本道、ナビの高野君も疲れと一本
 道の気のゆるみからか隣でうとうとでも責任感の強い彼は、私が
 「信号青!」とか言うと「はい!青!直進!」とか、とろんとした目で
 指示らしいことを言うから大したものである。上野市で国道25号線へ出るのにうろうろし、亀山ICで
 は降りないで関ジャンクションから伊勢自動車道へ入ってしまったり、名古屋西ジャンクションでは間
 違えて名古屋市内へ降りてしまって、東山動物園近くを渋滞に巻き込まれながら、予定外の名古屋
 見物をしたりで、枝道の多い帰路でした。
お盆の前日、高速道路での渋滞を心配したが、車の数が少なく快調に走れた。我が家へは7時PM
 頃ほぼ予定通りに到着。旅は終わった。

   "旅終えて 焼き餅食って 迎え盆"

3.エピローグ
 紀伊半島をぐると回った旅である。4月に計画し、宿舎の予約もすませ8月実施。途中の間が長す
 ぎて計画段階での事項を旅行当日には忘れているものもあった。ミキモト真珠島などはその例であ
 るが、よくしたもので大筋は一日の中で難なくこなすことが出来た。計画が一寸盛りだくさんだったか
 な、一日ぐらいはゆっくりした日をとって、温泉に浸かりながら囲碁をたのしむような日も欲しかった。
 どうも職業柄、職員研修旅行の様な旅になりがちである。それはそれで価値はあるが、次回は一日
 の走行距離を短縮し、サイドスイーングだけでなく、海の風に吹かれながら温泉リゾート気分を満喫
 するような旅をしてみたい。同行諸氏のご協力で、無事終了したことを感謝しながら。

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