伊豆の休日
1998年(平成10年)8月3日〜8月6日
1.プロローグ
 例年一緒に旅をしていた高野君は体調を崩して不参加。
窪田、小林、中曽根、久保田の諸氏と私の5名の旅である。久保田君は直接現地へ。昨年までの反省から、今回は温泉でリゾート気分を味わいたいものと考えました。西伊豆の岩地の民宿で2泊したり、中伊豆を含めて宿舎は温泉にしてみました。今回の計画はガイドブックで調べた程度の浅薄のもの、正直言って内心どうしたものかと不安ででした。
幸い小林君がこの地は何回か訪れた場所との事。困ったら小林君頼み、だいぶ楽になりました。近代日本の胎動の場所となった下田市には、期待するものが多いが、観光には自信がありませんで した。久保田啓一君が下田に詳しくて、当日は彼の案内で石廊崎から下田の観光をし、予想以上に 充実したものになりました。
伊豆スカイラインから西伊豆へは、伊豆伊東市在住の鈴木君が、当初計画より、よいコースを教えてくれました。計画段階では不安でしたが、実施段階では不安は何処かへ吹っ飛んでしまいました。

2.日程・所感
■1日目 8月3日 月 晴れ
 小雨のちらつく中、小林君、窪田君と我が家を6時出発。更埴ICで中曽根君が乗って、こちらからの4人が合流した。久保田君は電車で宿舎へ直行の予定である。岡谷ジャンクションから直進しての中央道は久しぶりである。
雨は上がったが、すっきりとしない雲行き、富士山が見えるか気にかかる空模様であった。大月ジャンクションを右折して富士山麓山中湖方面へ向かった。富士山は相変わらず雲の中。天気が良ければと残念だった。
 国道堂138号線からジグザク道を四苦八苦して登り、芦ノ湖スカイラインへ出た。辺り一面はスモッグ殆ど何も見えない、勿論芦ノ湖もそして富士山も、ただ走るだけ。
十国峠から伊豆スカイラインは天気も良く快調。伊東市在住の鈴木君と亀石峠で12時に待ち合わせる予定になっている。霧で途中時間を食ったので、辺りを楽しみながら走る余裕はなかった。待ち合わせ場所伊豆スカイライン亀石峠料金所前『スカイポートドライブイン』へジャスト12時着。駐車場
 入ったら、入り口にホワイトのパジェロがありました。ナンバーは間違いなく鈴木君の物。鈴木君とは
 卒業以来半世紀ぶりである。背丈は私より低かったような気がしていたが、私以上に背が高く、髪の量は多く白髪で都会風。登山をされているせいでしょうか、すらっとした足長おじさん。半世紀の時代の流れを感じました。
 ここからスカイラインを降りて修善寺へ。ドライブインを出た所で道を間違え、スカイラインを冷川ICへ向かってしまった。気づいてUターンをしたが、中央分離帯のない有料道路は有り難い左右の車に気 つけてハンドルを2〜3回切り直せばいい。Uターンして戻りかけたら鈴木君のパジェロが道端に心配そうにたたずんでいました。鈴木君が気遣って後をつけて来てくれたようでした。申し訳ない。修善寺までは、伊豆らしい山間の道路、車は少なく、道路は整備されていて楽しく走ることが出来た。修善寺の周辺は道路は狭く観光の人波、キョロキョロして見つけた有料駐車場は料金がなんと千円であった。

【修禅寺】
 静岡県修善寺町にある曹洞宗の寺。空海またはその弟子杲隣の建立と伝える。初め真言宗で、鎌倉時代には臨済宗、北条早雲の時に曹洞宗。源範頼・源頼家の幽閉・殺害された所。(写真右修禅寺
  修善寺町では修禅寺をはじめ指月院、源頼家の墓などを参詣した。私は初めての参詣であったが、思っていたよりこぢんまりとした質素な感じがした。指月院:暗殺された頼家の母政子が、我が子の冥福を祈って建立した経堂で、丈六釈迦如来像が安置されている。伊豆最
 古の建造物。写真左指月院

【源頼家】
 鎌倉幕府第二代将軍(在職12021203)。頼朝の長子。母は北条政子。北条氏に強請されて将軍職を弟実朝に譲り、舅比企能員(ヒキヨシカズ)と結んで北条氏を除こうとして、伊豆修禅寺に幽閉され、やがて北条時政らに殺された。(118211204)
【源範頼】
 平安末期の武将。義朝の六男。遠江蒲御厨に生れ、蒲の冠者・蒲殿という。兄頼朝の挙兵をたすけ、義経と協力して義仲を討ち、平家を一谷・壇ノ浦に破った。のち頼朝に疑われ、伊豆修禅寺で殺された。(―11193)

堂ヶ島へ
 修善寺町からは。鈴木君推奨の西伊豆スカイラインを通った。大きなうねりの準平原的な道路であった。時間が十分あって草原で車を止め、おやつなどを食べたりして、ゆっくり過ごせばその良さが実感できそうな場所であった。  (写真は西伊豆スカイラインで)
 駿河湾の海浜道路をナビ任せで伊豆の松島と言われる堂ヶ島へ走った。ナビは堂ヶ島温泉をインプットしたようで、国道を下がって狭い道路を海岸へ向けて降りていった。「どうも変だ」と来たことのある小林君が言うので、尋ねたら、もう少し行った道路端にあるとのこと。セッティング後の確認が不十分という事か。
 堂ヶ島:ここでは遊覧船に乗って島々の間を巡ってみる予定であったが、波が高いため欠航とのこと。海岸縁を歩いての観光。だが、まあ、これで外観はつかめたように思いました。写真左は堂ヶ島
 ここからは今夜の宿舎松崎町へ行けばよい。これで今日の観光が終ったとなると、やはりほっとするものである。隣の中曽根君が近江俊郎の湯の町エレジを気持ちよく歌い出した。
  "伊豆の山々月淡く 明かりにむせぶ、湯の煙 あーあああ初恋の君を訪ねて今宵また ギターつま弾く旅の空"私もいつの間にか一緒に歌っていた。前奏曲も「チャンチャチャ....」とか言いながらムードは満点である。彼はレパートリーが
 豊富で次々に出てきた。私も知っている歌は一緒に口ずさみながら走った。
 駐車場まで宿の親父が出迎えてくれた。宿舎は、ここから小さな段々畑のある急坂を、海岸縁へ7〜8分下ったところにあった。神奈川県藤沢市から直行した久保田君は既に到着していた。
夕飯は魚魚魚...、親父の造ったタイの刺身がメイン。ビールと酒は鈴木君から貰った越の寒梅。
 飲んで語って楽しい宴であった。ここは連泊、遅くまでゆっくり飲んだ。
          静岡県賀茂郡松崎町 岩地 民宿 かね久 泊

■2日目 8月4日 火 晴れ
 終日のんびりと自由行動。私達の旅では初めての試みである。囲碁。入浴、水泳、防波堤での魚釣り、散策、昼寝等々。防波堤で魚釣りをしてみた。釣り竿は久保田君と私が持参してやった。餌を蒔くと小さなカワハギな
 どが寄ってくるがなかなか釣れない。久保田君は自作の仕掛けを作り直してカワハギなど5〜6枚つり上げた。私は0匹であった。風が強く餌が風で海に舞い落ちたり、私は帽子を飛ばされてしまった。
 未だ新調して間もない物を。さすが釣り雑誌をにぎわしている久保田君。周りにいる誰一人釣れないのに、釣り上げるのだから大したものである。こういう人にあった魚は運が悪いというものですね。
珍しく泳いでみた。沖縄以来だから2年ぶりかな、小林君、中曽根君と一緒にした。中曽根君は泳ぎは駄目だそうだが、小林君の特訓を素直に受けていた。なかなか厳しい指導だったが、興味を持ってよく耐えていた。やる方も立派だが、小林君の指導力も大したものである。碁は中曽根君はやらないが他の連中は、我こそはと自負している強者どもである。例外は私だけ。小林君は「俺がなん回勝っても窪田君は白を渡さない」とぼやいていた。.....が!?
その窪田君が「今夜の飲み物は、ぼくが持つから遠慮なくやってくれ」と言う珍しいことがあるものである。遠慮なくご馳走になった。

■3日目 8月5日 水 晴れ
今日の予定は→石廊崎−下田−湯が島温泉泊である。
 石廊崎へ 8時頃宿を出発。カーナビ任せで石廊崎へ。カーナビの案内した場所は石廊崎まで歩いて40分ほどかかる場所であった。腰痛の私には一寸無理かなと思っていたら、久保田君が、熱帯植物園の中を通って行けたはずだという。少し引き返してャングルークという熱帯植物園の参観を兼ねて石廊崎へ行った写真右
  ジャングルパークで椰子の実の汁を初めて飲んでみた。そのほか珍しい南国の植物や小型の動物もいて面白かった。
  【石廊崎】 静岡県伊豆半島南端
 の岬。先端に1871年(明治4)設置の灯台がある。写真左は石廊崎
下田へ 右手に海を眺めながら下田へ向かった。この辺りは岩礁や海に浮かぶ大きな岩石が多く楽しめる風景であった。ナビゲーターは久保田君、了仙寺へは久保田君の案内で迷うことなく行けた。
了仙寺:日蓮宗の寺で1635年(寛永12年)徳川三代将軍家光公によって創建された。日本が初めてアメリカに国を開いた日米和親条約は、この寺で調印された下田条約でさらに詳細なものとなった。
(写真右は了仙寺) また ここには1万年以上昔の先住民遺跡の洞窟もある。(写真左)本堂前に宝物館もあるが、お吉の遺品少々と性具や歓喜天のコレクションがある。久保田君に歓喜天の見方について解説して貰った。なるほど なるほどふん,そうか?!。
  【下田条約】 安政元年(1854)5月18日に下田で、幕府の全権林
 大学頭らとアメリカ使節ペリーとの間で締結・調印された日米和親条約付録協定。

下田港をぐるっと半周して玉泉寺へ、
玉泉寺:曹洞宗瑞龍山玉泉寺は、天正以前は真言宗の草庵であったのを、天正の初め(1580年代)御開山一嶺俊栄大和尚の来錫によって曹洞宗に改宗され、400年の歴史を有する古刹である。 嘉永元年(1848年)に現在の本堂が落成した。 嘉永7年3月、日米和親条約の締結により、下田が開港され同年5月付録下田条約が結ばれると、玉泉寺は米人の休息所、埋葬所に指定された。 その2年後、安政3年(1856年)タウンゼント・ハリス総領事は、通訳官ヒュースケンを伴い、米艦サンジャシント号で下田に着任した。ハリスは玉泉寺を日本最初の米国総領事館として開設。庭前に星条旗が掲揚され、以来2年10ヶ月、この玉泉寺は幕末開国の歴史の中心舞台となった。(写真は玉泉院)
 また、それ以前、日露和親条約の交渉の場となり、ロシア・ディアナ号高官の滞在や、ドイツ商人ルドルフの約半年に及ぶ滞在等々、開国の歴史を彩る貴重な寺歴がある。
 尚、境内には、黒船(ペリー艦隊)の乗員5名の墓地とディアナ号乗員3名、アスコルド号乗員1名の墓地がある。   
寺は曹洞宗、初めてのアメリカの領事館が置かれた所、それに関わってお吉、お福など5人の女性が召使いとして雇われていた。お吉は解雇された後身を持ち崩して、差別による悲しい物語がある。
その他ここでは、吉田松陰が密航するために隠れていたお堂や洞穴があり参観した。ペリーの軍艦が来た下田の港も、あちらから、こちらからと眺めることが出来た。開国の歴史の舞台になったその拠点をつぶさに参観できた。

天城越え この後久保田君を下田の駅まで送り、私達は中伊豆の湯が島温泉へ向かった。途中にスパイラル状のループ橋が珍しかった。それだけ急坂の橋ということですね。天城峠の下を穿つトンネルを抜ければそこが踊り子の通った道、天城湯ヶ島町である。ここは歩いて見て回るところのようです。
淨連の滝:天城峠付近から流れてきた本谷川が太い水の柱となってエメラルドグリーンの滝壺へ落下する。高さ25b幅7b滝の周辺は文字通り深山幽谷の薄暗い谷間。観瀑台に立つと水しぶきが霧となって飛んできて、空気もひんやりとして冷たい。写真左は浄連の滝
 滝の見学後、一休み、コーヒーを飲んだりワサビ入りのソフトクリームを食べたりした。ここはワサビの産地である。   
    "踊り子 の通った道かよ 夏の伊豆"
    湯が島 住よし 泊  
  ゆっくりと湯に浸かり飲んで食った。料理はたっぷり、味、質ともに良く私達を十分満足させた。中曽根君は、女将さんにカボチャがあまりに旨いので、その料理の仕方を熱心に聞いていた。■

  4日目 8月6日 木 曇り  帰宅
 9時頃宿を出て、小林君を修善寺駅まで送った。彼はここから電車を乗り継いで帰京。残るは中曽根君、窪田君、私の3名。道を一寸間違えて冷川ICから伊豆スカイラインへ入った。来た道をそのまま帰った。富士山は雲の中、やはり見えなかった。帰宅は6:30PM 思ったより時間がかかった。

3.エピローグ
 行きも帰りも芦ノ湖周辺はガスっていて、富士山は雲の中、その雄姿が見られなくて残念でした。
 岩地で釣ったカワハギ、ジャングルパークで飲んで食べた椰子の実、苦労して行った石廊崎。下田では下田条約締結の場となった了仙寺、アメリカ領事館の置かれた玉泉寺、湯が島の淨連の滝。飲んで、歌って、たらふく食って、日本近代化の胎動となった歴史の舞台に感動し、リアス式海岸の自然
 の造形に見とれ、淨連の滝では神秘感に浸り...........等々参加された皆さんのお陰で有意義で楽しい旅が出来ました。有り難うございました。


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