飛騨・能登半島
1999年(平成11年)9月6日〜9月10日4泊5日
1.プロローグ
 紀伊、伊豆と続いた半島巡りも最後の能登巡りとなった。中曽根英介・高野昭、小林文治の諸氏と
 私の4人の旅。白川郷、輪島、和倉温泉、飛弾高山で宿泊という日程である。
走行距離1200q、4泊5日の旅。お互いにこの年になれば、これらの地は過去何回か訪れたとこ
 ろでもあるから、今回は、能登半島の先端、能登最奥の地、禄剛崎を目的地とした。

2.日程と所感
■1日目 9月6日 月 曇り  出発→白川郷泊
 計画段階では下呂温泉からほぼ直線的に今夜の宿泊地、白川郷まで行かれると思っていたが、
 カーナビでセッティングすると他のコースを選択してしまう。どうも変なので該当地区、荘川村観光課
 へ問い合わせたら、その道路は途中で行き止まりとのこと。行き止まりの国道なんてあるの。文句を
 言ってみても現実はどうしようもない。分かったのが前日のことです。予定より120q迂回することに
 なってしまった。
6時AM出発、途中高野君・小林君、中曽根君と合流し、中央道を中津川へひた走った。今日の走行
 距離は400q余。追い越し車線をバンバン飛ばした。

【下呂温泉】
 岐阜県中部、下呂町の益田川に沿う温泉。単純硫化水素泉。平安中期に発見、1934年(昭和9)
 高山線開通後、発展。

 下呂温泉着11時30分、昼食をとろうとしたが何処も準備中であった。それでもと一軒の店に入っ
 たら、「家は夕食だけです。」とのこと、でも、下呂温泉の下呂に対して中呂、上呂地区があるなどの
 話を聞くことが出来た。ここで一風呂浴びていく予定であったが、先を急ぐ身、その気にはなれず割
 愛した。入浴予定の露天風呂の脇を通り、寂しげに佇む昼時のホテル群を眺めながら次の目的地御
 母衣ダムへと向かった。途中高山市郊外の、こざっぱりとしたドライブインで昼食。

みぼろ‐ダム【御母衣―】 岐阜県北西部、庄川上
 流にあるロックフィル‐ダム。発電用。高さ131メート
 ル。有効貯水量3・3億トン。最大出力21・5万キロワツ
 ト。1961年(昭和36年)完成。
 御母衣ダムは渇水期、湖底の一部が河原になっ
 ていて、湖の縁は褐色の地肌を露呈していた。満々
 と紺碧の水をたたえた湖に、緑の山影を映した光景
 を想像していた私に
 は予想外であった。白桃を食べながらここで一休み。このダムは、
 荘川の最上流にあり、岩石と粘土で築いた世界的規模のロックフィ
 ル式ダムである。堰堤の下から見上げると良くまあコンクリートを使
 わないでこの高さまで積み上げたものだと思った。高さ131bはロッ
 ク式では世界一とのこと。義弟がこの堰堤を造っている頃信大工学
 部の学生で、実習に来たところであると帰宅してから聞いた。(昭和
 36年完成)
ロック‐フィル‐ダム【rock-fill dam】写真右 ダムの一形式で、主として岩石を積み重ねてつくるもの。
 内部には遮水壁を設けて水もれを防ぐ


しらかわ‐ごう【白川郷】
 岐阜県北西部、大野郡の庄川上流域にある山村。白川・荘川村の古名。古くは大家族が切妻合掌
 造の大家屋で共同生活を営んでいたことで名高い。

 白川郷合掌集落の『民宿一茶』は今夜の宿。道端で聞いたら直ぐ
 そこであった。藁屋根の小さな合掌造りの家であった。鄙びたじっ様
 とばっ様が、囲炉裏端でもてなしてくれるのかと思っていたら、これ
 も予想に反して、口紅をぱっちりつけた色白の美人の奥さん。内部
 の設備は超近代的、いやはや驚きました、狐に化かされたような心
 境でした。  写真右民宿一茶奥さんと
  先ず白川八幡神社の脇にある『どぶろく祭りの館』から見て回っ
 た。ここではもったいぶった受付のおばちゃ
 んから、どぶろくのいわれや、私達は運がい
 いからどぶろくが飲めるのだ、などと言われながら、一杯ご馳走になった。甘
 もっくりとして旨かった。合掌集落は、私達を始め観光客は結構多く、落人の
 住んだ鄙びた里の趣とは程遠いものであった。
  写真左は集落の一こま
 出会いの吊り橋を渡ると野外博物館合掌
 造り民家園がある。ここは白川郷離村民家を文化遺産として移築し
 たものである。なかなか立派な合掌造りの家があり見応えがあっ
 た。
   写真右は野外博物館合掌造り民家園
  岐阜県大野郡白川村萩町 民宿一茶泊

 ■2日目 9月7日 火 曇り →輪島市へ
 合掌街道から北陸自動車道、能登有料道路を乗り継ぎ千里浜ド
ライブウェイへ出た。途中国道8号線を右折して能登有料道路へ出
 るところで道に迷い、進入禁止の道路へ入ったりして、これも歳のせ
 いか。千里浜の日本海は波が高く、シーズンオフのため人影はまば
 ら、浜茶屋もなく閑散としていた。写真左千里浜 予定ではここで焼
 き蛤でも食って一休みするはずだったが..........。      
      "秋光の 千里浜辺や 人まばら"
 巖門学友久保田啓一君が、能登金剛は良かったというので、
 国道から地方道へは入り巨岩や奇岩の多い男性的な海岸美の続く
 海岸を通り能登金剛巌門へと向かった。巌門は鷹巣岩から車で3〜
 4分下ったところにあった。初めは鷹巣岩と書かれた掲示板を見るまでは、これが巌門かと思った。
 誰かが「これが巌門かな?」と言っていた。
 巌門は急坂を下ると海蝕で出来た洞窟になっていた。海蝕洞を抜
 けると、海蝕台に出る。海蝕台には海水がひたひたと寄せ、その向
 こうには巨岩が2,3小島のように浮かんでいた。眼界180度、右手
 に巌門が大きな口を開けている。その向こうに青い海原が続き、絶
 景である。自然の織りなす造形美に感慨ひとしお。巌門は、海蝕と
 隆起によって出来た海蝕洞と考えられるが、どうだろうか?。写真右
は巖門
 巌門を登った小道の脇に松本清張の歌碑があった。        
        雲たれて ひとり
         たけれる 荒波を
          かなしと思へり
        能登の初旅
               清張
 この辺りは、松本清張の小説0の焦点によってよりクローズアップされた地域。
 ここで昼食、こざっぱりとしたレストランの二階で巌門の海を見下ろしながら。
  輪島市へ。途中機具岩や、総持寺祖院を見学しながら。道路脇
 にある狭い駐車場に車を止めて、機具岩の見学をした。機具岩は、
 能登二見、あるいは夫婦岩とも言われ、大きな奇岩にしめ縄をはっ
 たもの。二見ケ浦の夫婦岩に比べると遙かに大きく、荒々しく、松も
 生えていて男性的な感じがした。
   写真左:機具岩
 総持寺は、2回目の参観である。
 総ケヤキ造りの山門は記憶にあったが、他の法堂や仏殿は忘却の
 彼方へ、新鮮な気持ちで見学が出来た。仏殿では5〜6人の修行僧
 が、仏法の立ち居振る舞いについて修行をしていた。四人そろって
 お参りをしたが、それぞれ何をお祈りしたのだろう?。(写真右:総持
寺の山門)
   "さわやかに ただ祈りけり さわやかに"

わじま【輪島】
石川県北部の市。能登半島の北岸にあり、海運・漁業の要地。また、漆器の製造が盛ん。人口3万

【輪島塗】
輪島市に産する漆器。堅牢で、沈金装飾を特色とする。江戸中期に盛んとなり現在に及

 輪島市は、漆器と朝市、舳倉島への港であり、漁業の町である。
 先ず輪島漆器会館に入った。素晴らしい漆器が陳列されていた。目の保養にはなったが、私には
 一桁大きく手が出なかった。小林君は箸を購入したが、良い買い物をしたと思
 いました。漆器会館から町中を少し走ったところにキリコ会館があった。能登
 地方の祭りに欠かせないキリコ20基近く展示されていた。灯籠に点灯され、
 能登最大の高さ20メートもあるキリコもあった。※キリコは切籠と書き神様へ
 の法灯。 この後、袖ヶ浜、竜ヶ崎灯台、鴨が浦のある輪島岬を周り今夜の宿
 舎虎さんへ。
  虎さんは、今回の旅では宿泊料金が一番安く¥6500であった。夕飯は魚
 ずくし、刺身はメバルに何とかと言う生きのいい魚であった。女将は、話好き
 世話好き また 詩を書くえらい坊さんの知り合いが自慢。明日は奥能登の禄
 剛会館で活魚料理を食べたいと話したら、予約をするために何回か電話をし
 てくれた。部屋のテレビはソニ−の大型、しかもフラット画面であった。生活も
 意欲的な感じがした。
輪島市朝市の近くの民宿 虎さん泊

■3日目 9月8日 水 晴れ 夕立あり  禄剛崎→和倉温泉
 朝市を見てから、今回の旅の目的地禄剛崎へ向けて出発した。途
 中で時国家の見学をしたりしながら。
  朝市は、輪島川の橋を渡るとそこにあった。8時頃から市が始ま
 り、筵を敷いたような店先に季節の魚・貝・海草・野菜・果物など食
 品や民芸品なども並べて売っている。店は全部で200軒ほどあると
 のこと。「買うていきんしゃい!」「買うてくだしま!」と声がかかる。
 高野君が魚の干し物を買ったので私も真似して買ってみた。帰って
 食べたら結構旨かった。写真左は朝市
 下時国家、上時国家の順に見て回った。受付で「アメリカ並に、老人の参観料は、配慮できない
 の?」と高野君「上役に伝えます」と受付嬢 真面目な応答がが返っ
 てきた。冗談交じりに言ったつもりが、でも、これは福祉社会の一つ
 の大事なことだ思います。
  下時国家は豪農、上時国家は、江戸時代には天領の大庄屋を勤
 めた家である。下時国家では農家の様式に書院造りが取り入れて
 あった。上時国家は、唐破風の玄関を持つ重厚な構え。広い土間に
 つるされた四つの籠もその生活振りを示すものである。さすが平清
 盛の妻を姉に持つ平時忠の末裔だけのことがある。(写真右上時国
家)
【平時忠】
平安末期の武将。時信の子。異母妹滋子は後白河天皇の女御となり、姉時子は平清盛に嫁したの
 で権勢を得、累進して権大納言。「平氏にあらざれば人にあらず」とうそぶいたことは有名。壇ノ浦の
 戦後、能登に流されて没。(11281189)
 
禄剛崎
運転は中曽根君任せ、辺りをキョロキョロと見回しながら、能登半島最奥の地、禄剛先へ向かった。
   "ヒグラシが 鳴く奥能登の 行き止まり"    山口聖子

 私は腰痛、皆さんが長い石段を登って禄剛崎灯台の見学に行っている間、登り口にある昔ながら
 の食堂でコーヒーを飲みながら待っていた。この店は80才代のじっ様夫妻の経営する余りパットしな
 い食堂である。客は私だけ

「この辺りは、雪はどのくらい降るの?」と私
「昔はこんなにも降ったが、今は余り降らなくなってこんなものです」と手つき手真似で店のじっ様「今
 は30p位なんですね」と私
「このお店のおすすめメニューは何ですか?」
「サザエどんぶり」
「堅くて食べれないんじゃないの?」
「細かに切って味付けしてあるから大丈夫」
「サザエは一つなの?」
「もっと沢山」

じっ様とそんな話をしていると皆さんが灯台から帰ってきた。
「何処で昼食にする?」と中曽根君
「ここでどう」と私
 計画では、目的地であるから旅館禄剛館で活魚料理をたらふく食べる予定であった。予約が必要
 なので、前夜連絡したが、何回電話をしても繋がらなくて諦めた経過がある。直ぐそこに、しゃれたレ
 ストランもあった。
 私を含めた三人はサザエどんぶり、中曽根君はそばを食べた。海辺でそばを食べるとは珍しい注文
 だなと思いながら、サザエどんぶりを食べた。味付けが古風で私の口には合わなかった。とても全部
 は食べきれなかった。じっ様が、サービスだと、何かの煮たのを出してくれたが、これも不味かった。
 中曽根君のそばが羨ましくなって「どう旨い?」と聞いたら、これも不味かったとのこと。以前北海道
 の稚内の岬で、ウニどんぶりを食べたとき、私は旨くなかったが、同行の高野君と窪田君は旨かった
 と言うこともあったので、小林君と高野君に聞いてみたら、異口同音「不味かった」とのこと。でも、も
 のは考えよう、その土地の人と話し、昔ながらの味付けのものが食べられたと思えば、貴重な体験を
 したことになる。じっ様のその昔は、サザエどんぶりなどは最高のご馳走だったのだろう。
【和倉】
 石川県七尾市の、七尾湾に臨む温泉地。無色透明の食塩泉。もと海中から涌いたので涌浦といっ
 たのが地名の起りという。

 和倉温泉へは、見附海岸、恋路海岸、九十九湾沿いの海浜道路を通っていった。見附海岸の軍艦
 島辺りで、スコールのようなものすごい夕立にあった。....が運転は中曽根君。彼は落ち着きはら
 って、サイドミラーを拭ったりしながらの安全運転であった。軍艦島は、松林越しに、ちらほらと見た程
 度。篠突く雨に外へ出る気にはなれなかった。穴水のボラ待ち櫓を眺めた頃には、雨もすっかり上が
 っていた。
能登島へ
 和倉温泉は、能登島の閉ざされた自然を見てから行く予定であった。途中、Navigatorの高野君が
 能登島への指示板と橋も見えるから、その橋を渡っていったらどうか」と私に話しかけてきたが、能登
 島へは、和倉温泉から能登島大橋を渡るより他にルートはないと私の脳裏にはインプットされていた
 ので、それを無視して走行してしまった。後で宿の女将に聞いたら、今年の3月から橋が新たに出来
 て開通したとのこと。悪いことをしてしまった。申し訳ない。
能登島は3分の2周。巧みの里でガラス細工の実演を見たり、ここで造られた美しいガラス工芸品を
 見たりした。また販売もしていたが結構な値段であった。今もって購入してくれば良かったと残念に思
 うのは、紫色の透明な一輪挿しの花瓶である。土産はその時に買わないと後では買えないものであ
 る。メキシコの旅でガイドもそのようなことを言っていた。
和倉温泉 旅館奥田屋泊。
 女将は80才代のばっ様で、こまめに暖かくもてなしてくれ好感が持てた。

■4日目 9月9日 木 快晴  →飛弾の高山へ
 氷見市海岸沿いの走行は、ベストコンディション。天気はいいし、車は少ないし、青い海原遠く小島
 が点在し、絵を見る様なような美しさであった。以前に来たときには、ここで大漁鍋を食べた事が思い
 出された。ここから8号線に入り北陸高速道路を乗り継いで富山市郊外で出た。ここからは運転を中
 曽根君に代わり、神通川沿いの谷街道を高山市へ向かって走った。
【高山】
岐阜県の北部、高山盆地にある市。飛騨地方の中心都市。もと江戸幕府の天領で代官を置いた所。
陣屋跡は史跡に指定。木工業が盛ん。人口6万5千

 飛弾の高山は、左甚五郎を産んだ匠の町、城下町、町人文化の町、江戸時代には、天領の町でも
 あった。町屋建築の集大成と呼ばれる日下部民芸館から見て回った。中に入って土間から見上げる
 と豪放に組んだ太い梁が見事だ。収集した古美術品のすばらしさにかつての財力の程が偲ばれる。
 有名な根付けのコレクションも見た。
ね‐つけ【根付】
巾着(キンチヤク)・煙草入・印籠(インロウ)などを帯に挟んで下げる時、落ちないようにその紐の端につける
 留め具。珊瑚(サンゴ)・瑪瑙(メノウ)・象牙(ゾウゲ)などの材に精巧な彫刻を施したものが多い。
 ここを出て『京屋食事処』で昼食、高山市ならではの瀟洒な店だった。この後 高山屋台会館・桜山
八幡宮、高山陣屋、古町上三之町の順に見て回った。
高山陣屋は、全国でただ一つ現存する幕府郡代役所。内部は役
 所・御用場、大広間、白州と完全にそろっている。守衛の方から説
 明して頂いたりして見応えがあった。(写真右は高山陣屋)
 上三之町は、百年ほど前に建てた町家が並んでいて、古風な街筋
 を造っている。間口二間程のくすんだ軒の低い喫茶店でコーヒーを
 飲んだ。間口は狭いが奥ゆきは広いので、狭苦しい感じはしない。
 明かりは裸電球、静かな夜の雰囲気であった。
  今夜は旅の打ち上げ。ビールに程良く酔って、中曽根君と小林君
 はカラオケに外出、高野君と私は囲碁とそれぞれ最後の夜を楽しん
 だ。
飛弾高山 上三之町 旅宿上野屋 泊

■5日目 9月10日 金 晴れ  →乗鞍岳→帰宅
乗鞍岳】
(西方から望む時は馬の背に似ているからいう) 岐阜県北部から長野県中部にまたがる火山。飛騨
山脈南部の峻峰。海抜3026メートル。山頂近くにコロナ観測所がある。

 乗鞍スカイラインを快調にドライブして、畳平へ。
  途中からエアコンを切って窓を開けて走った。白樺からダケカンバ
 そしてハイマツの樹林帯へと変わる山の景観を楽しんだ。高野君は
 山は久方ぶりとのこと。途中、アルプス展望台が設けられており、槍
 ヶ岳や穂高連峰の雄大な景観を眺めた。
     "秋色の 渓谷越しに 槍ヶ岳"
(写真は終点畳平)

 帰りは安房トンネルを通って松本へ抜ける予定であった。....が、気が付いたときには旧道の安
 房峠へ通じる道路を走っていた。車載のナビゲーションは安房トンネルが出来る以前のもの、ついう
 っかりしてナビの設定通り走ってしまった。いやはや全くこれも歳のせい。
 安房峠の頂上で一休みした。若かりし頃、ここの茶屋でアイスクリームを食べ、青磁のぐい飲みを買
 った。ぐい飲みは『安房峠』の銘入り、今も使っている。その茶屋も今は廃屋、時の流れを痛感させら
 れた。峠から松本平へは、急坂のジクザクした下りコース。180度の急カーブにつけられた番号をナ
 ビの高野君が「15,14,13,.....」と数えていく。この峠越えで、すれ違った車はたったの4〜5
 台であった。峠を降りた梓川縁で遅い昼食、これという特色のないそばだったが旨かった。

3.エピローグ      
 旅は終わった。学友との車の旅は今回で終わりにしようと思う。そう思うとやはり寂しい。 北海道、
 東北、四国山陰・紀伊半島、伊豆半島でのあれこれのことが懐かしく思い出される。
 来年もまた次の年も車でこの様な旅を続けたい、だがこの歳になればそれは『河清を待つ』心境で
 ある。

 能登最奥の地、禄剛崎の食堂のじっ様が、訥々と「これはサービスです」とガチャンとテーブルに置
 いた小皿。あのじっ様は、今頃何をしているかな。そんなあれこれを思う旅であった。
同行の学友中曽根英介君、小林文治君、高野 昭君の諸氏に感謝しながら。



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