瀬戸内海

2000(H12).8月21日〜8月25日 4泊5日
1.プロローグ
 年1回の車の旅は今年で連続7回目になる、メンバーは昨年の能登半島巡りと同じく、中曽根英
 介、小林文治、高野昭の諸氏である。昨年の旅の中で、高野君は広島へ行ってみたい、中曽根君
 は、原爆の資料館を見たい、それと島波海道へ行ってみたい、小林君はどこでもいいと言う。皆さん
 の意見を聞きながらマイデザインの旅が実現した。計画の中で初日に広島まで750キロメートルも
 走ることに抵抗を感じたが、全線有料道路、中曽根君も居るし、それほどのこともなかろうと、瀬戸内
 海を左回りに一周することにした。

2.日程の概要と所感
〔1〕8月21日 月 晴れ 出発 広島市へ
 旅は始まった。午前4:50 女房の握ってくれたおにぎりを持って広島へ向けて出発した。オイルエ
 レメントとオイルはこの日のために交換してあるし、安全点検済みなので、車は快調である。ナビゲ
 ーションも新調したので、広島の宿舎まではナビゲーションの指示通りに走ればいけるはずである。
 便利な世の中になったものである。途中で昨年のように高野君と中曽根君を乗せて、長野道、中央
 道から名神高速を飛ばした。神戸のジャンクションからの山陽道は初めて走る道路である。以前に高
 野君と倉敷市から瀬戸の大橋を渡り四国一周の車の旅をしたことがあるが、山陽道は今のようには
 つながっていなかった。だから中国道を通って倉敷市に入ったものである。山陽道へ入った最初の
 サービスエリアで昼食にした。この辺で運転を中曽根君に代わろうと思っていたが、彼は昨夜旅の
 前、朝の2時に目が覚め、寝不足とのこと。私もそうですが、いくつになっても遠足の前日のように興
 奮して、寝付かれないものですね。私は腰痛手術の入院時にもらった睡眠薬の残りで熟睡できた。
 ここまで400qばかり運転したが、高速道は信号もないし慣れれば思ったよりは疲れない。 また 
 昨夜は睡眠も十分。運転を続行した。計画段階では、運転交代者が居るので、疲れたら交代して無
 理はしないと考えていた。運転交代者が居ることはありがたいことであります。北海道10泊の車の旅
 ではこの運転交代者がなくて一人で運手をしたので大変でした。それと比べればこれくらいはなんて
 ことはない。今回の旅では疲れたときは中曽根君に代わってもらった。広島のホテルには4時PMを
 一寸回った頃着いた。ホテルの前で期せずパッタリ、JRで東京から来た小林君と一緒になった。グッ
 ドタイミングである。これで今回の旅仲間4人が無事に合流したことになる。ホテルで一休みした後.
 広島城の参観をした。
 市内に6本の川が流れ水の都と呼ばれる広島は、毛利輝元が太田川の三角州に城を築き、この地
 を広島と名づけた事に始まる。その城はホテルから歩いて5分程のところにあった。

【毛利輝元】

安土桃山時代の武将。元就の孫。隆元の子。初め織田信長に抗したが、豊臣秀吉の中国攻めに戦
 況不利となり、本能寺の変後秀吉と和睦し、後に五大老の一。関ヶ原の戦には豊臣方の主将となり、
 周防・長門二国に減封された。剃髪して宗瑞と称。(155311625)
広島城 満々と水をたたえた堀の向こうに城が見えた。夕日に映え
 た城、石垣、緑の樹木が調和の美を醸し出している。堀端を回りな
 がら入り口を探した。40後半のボーっとしたおじさんが堀端にある公
 園のベンチで夕暮れの一時を楽しんでいた。入り口を尋ねたら、裏
 門はすぐそこだと教えてくれた。裏門から入って表門へ抜けた。城内
 は私たちだけ、シーンと静まり返った城郭を、花崗岩の風化したうす
 桃色の砂を踏んで見て回った。写真 広島城
 夕食はどこにしようかと、夕暮れの広島の街を探し回った。赤提灯
 の焼き鳥屋で一杯やり、後ラーメンではわびしい。気に入ったところ
 が見つからなかった。結局はホテルのレストランで食べた。ビーフス
 テーキがメイン、生ビールで今日の日に乾杯。   KKR広島

〔2〕8月22日 火曜日 小雨  原爆ドーム→安芸の宮島→岩国市
原爆ドーム
 原爆ドーム近くの道路脇に車をとめてみて回った。駐車場をきょろきょろと探したら、北海道の札幌
 のように時間制限で駐車できるようになっていた。原爆ドームを一回りしてみた。テレビでは何回か
 見た光景であるが、現場に立って当時の情景に思いを馳せれば身震いのする思いであった。来て見
 て良かったと思う。

 相生橋のたもとに在った碑文をどう読むかみんなで話し合っていた
 ら、ジョキング姿の50歳代のおばさんが私たちの話し合いに割り込
 んできた。ランニングパンツ姿の、小またの切れ上がったこのおばさ
 んはなかなか積極的で、純情で鳴らした私たちはたじたじ、自己紹
 介をさせられたり、握手をさせられたり、碑文の解釈は私の解釈と同
 じからいいようなことを言われて、何か分かったような分からないよ
 うなおかしな気分であった。買い物篭を下げて、派手なこうもりがさ
 をさして、ジョキングパンツ、ジョキングシューズ姿のこのおばさんは、
 歳をしていて若い感じの不思議な人だった。あのおばさんは何をして
 いるかな、今頃は。
 原爆ドーム→相生橋→平和公園(平和の鐘、原爆の子の像、平和のともし火、原爆死没者慰霊
 碑)→広島平和記念資料館を見て回った。そぼ降る雨の中を。

 この後広島市を縦断して安芸の宮島へ。市内は片道4車線の所もあり車でごった返していて、経
 済的な活気が感じられた。宮島口の駐車場に車を止めて、フェリー
 ボートで10分の宮島へ渡った。安芸の宮島は松島、天橋立と並ぶ
 日本三景の一つに数えられている。そぼ降る雨の中での参観であ
 った。写真を撮るときは傘をつぼめて撮れる程度の雨であった。私
 は初参観の宮島である。厳島神社はテレビの画像ではおなじみの
 場所である。が、来てみれば広いというよりは雄大、歴史の重みを
 感じる場所である。小林君を中心にして中世の宮島にかかわる歴史
 の話をしながらの参観であった。厳島神社→平清盛神社→昼食→
千畳閣・五重塔を巡り参観した。湿度が高く気温も高く汗を拭き拭き
 見て回った。
 清盛は私の好きな武将の一人である。女房に頭が上がらなかった
 家庭的な亭主、豪放で無鉄砲、温か味のある人間性そして盛者必
 衰のことわり通りに滅んでいった平氏にどこか惹かれるのです。
写真左平清盛神社
【厳島神社】 厳島にある元官幣中社。市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)
 を主神とし、田心姫命(タゴリヒメノミコト)・湍津姫命(タギツヒメノミコト)を合祀。
 社殿は海中に立ち、宝物類には平家寄進のものが多く、大鳥居・朱
 塗の殿堂・五重塔・千畳閣・能舞台など、国宝・史跡に富む。安芸国
 一の宮。
【厳島の戦】
 一五五五年(弘治一)毛利元就(モウリモトナリ)が、大内義隆を殺害した陶晴賢(スエハルカタ)を敗死させた
戦。以後、毛利氏は中国地方に威を振うようになった。
 この後 国道2号線を走り、山口県の岩国市へ行った。宿舎の半
 月庵に車を止めて、すぐそこにある錦帯橋から岩国城と公園を見て
 回った。この日も暑い日であった。漢詩の一節に「汗は滴る鍬下の
 土」というのがあるがそんな感じである。岩国城を見た後、一休み。
 私は「金時かき氷」大盛り¥500を食べた。これが次の日にたたり、
 下痢をしてしまった(笑い)。暑いときの冷たいものはほどほどにとい
 うことですね。 (>_<) でも旨かったなあ!!写真錦帯橋
きんたい‐きょう【錦帯橋】 山口県岩国市を貫流する錦川に架かる
 反橋(ソリバシ)。石造の橋脚四基と両岸との上に、アーチ式の五橋を
 連ね架する。全長一九三・三メートル、幅五メートル。一六七三年(延宝
 一)岩国藩主吉川広嘉(ヒロヨシ)の創建。一九五○年、風水害で中央部を流失、のち修築。きんたいば
 し。算盤橋。五竜橋。
【岩国】
山口県東部の市。もと吉川(キツカワ)氏の城下町。錦川の左岸にあり、錦帯橋は有名。海岸部に石油
 化学工業が発達。人口一○万九千。…長野県とは全国高校野球で春夏2回も対戦した岩国高校は
 耳新しい。
 国民宿舎半月庵は、市立の宿舎である。美人ぞろいでサービス万点。一流の旅館に引けを取らな
 い内装であった。夕食は舞台付きカラオケ付き宴会場を借り切り、宴会時間は無制限。。仲居さんは
 30代後半の独り者。この方が終始私たち4人の世話をしてくれた。名は節子さん。記念写真を一緒
 に撮ったり、カラオケを歌ったりして。中曽根君をはじめ皆さんはお互いに若やいだ気になり飲んで歌
 って楽しい宴であった。私も次の日は飲み過ぎ、はしゃぎ過ぎで声がかれていた。
 (^@^)........来年も行ってみようか?

〔3〕8月23日水曜日晴れ  →尾道市→しまなみ街道→松山市道後温泉
 昨日よりも一段と暑い日であった。山陽道を走り尾道市へ出た。ここでは千光寺公園と千光寺の観
 光である。小高い丘の上にあり、尾道市や尾道水道を挟んで向島が
 一望できる風光明媚な場所であった。写真の川のように見えるのは
 海(尾道水道)遠く尾道大橋が望める。写真左は尾道水道 狭い行
 き詰まりの道路脇に駐車したら、帰りの方向転換に苦労してしまっ
 た。4人がかりで何とかなった。「オーライオーライ、はい、ハンドルを
 切って、もっと切って、直して、はい、また切って、まだいいまだいい、
 ストップ」とこんな調子であった。 昨日の暴飲暴食がたたり、私はこ
 こで下痢。小林君にふうふう我慢しながらトイレにつれていってもら
 った。踏んだりけったりであった。
 おのみち【尾道】
広島県の南東部、瀬戸内海沿岸の市。平安時代から瀬戸内海水運の重要な港。古名、山の尾の
 路・玉の浦。人口九万七千。

村上水軍城 写真右は水軍城
 ここから尾道大橋へ出れば島波海道である。まず因島の村上水軍城へ行っ
 た。ここはそれほど観光的には有名な場所ではないが、日本歴史の中で、村
 上水軍の果たした役割は大きい。小高い山の頂上に再建された山城であっ
 た。中腹から徒歩で登る。暑い日差しの中。汗を拭き拭き、ふうふう言いなが
 ら登った。城の登り口にこざっぱりとした寺があり、村上水軍の墓があった。城
 の見学後なのでみんなばて気味、3人は割愛、健脚の小林君が駆け足で見
 てきた。今になってみれば残念なことをした。苔生した五輪の墓だったそうだ
 が名のある武将の墓だろうと思います。
 いん‐の‐しま【因島・因ノ島】
 @瀬戸内海中部、芸予諸島の島。因島大橋で本土と結ばれる。面積三三・九
 平方キロメートル。
A(「因島」と書く) 広島県南西部、因島を中心とする市。村上水軍の根拠地。明治以降造船業が発
 展。人口三万二千。

生島の耕三寺へ 腹がへった。耕三寺の入り口にある食堂兼土産
 物屋で昼食にした。メニュウはこの道の大家中曽根君任せ、¥800
 円の焼きめしを注文した。ウェイトレスのおねえちゃんの捧げ持って
 きたのは地鶏焼き肉の豪華版定食。これが¥800とは安いなあと
 思いながら喰った。請求書は¥1200であった。中曽根君が何かに
 言ったが喰った後の祭りであった。返品のきく物ではないから。でも
 あの鶏肉は旨かったなあ。
耕三寺:この店から耕三寺までは徒歩で5分。拝観料の¥1000は
 高い。この寺は、実業家耕三寺耕三氏が、母親菩提追悼のため、3
 0年の歳月をかけて建立した寺。24の堂塔は飛鳥、奈良、平安、鎌
 倉、江戸各時代の代表的な仏教建造物がモデル。絢爛豪華。日光の陽明門を10年がかりで復元し
 た孝養門(写真)もあり西の日光とも呼ばれている。各建物は、どこかで見たような感じがして親しみ
 がもてた。本堂の地下を走る隧道には、1000体にも及ぶ磨崖仏が掘られていた。これは圧巻であ
 った。(写真上は耕三寺)

多々羅大橋ウオーキング   多々羅大橋は耕三寺のあるこの生
 口島と大三島を結ぶ斜張橋である。橋脚間が890メートルあり、こ
 れは世界一とのこと。橋の下の道路脇に車を止めて橋まで、ミカン
 畑の丘を登った。昼下がりの一番暑い中を。ミカンは芸予諸島では
 この生口島が一番多く採れるとのこと。 "ミカンの花が咲いていた 
 思い出の道 丘の道 遙かに見える青い海 お船がポート鳴いてい
 た"誰かがそんな歌を唄ってた。中曽根君は青いミカンを両手で愛し
 そうに包み感触を味わっていたっけ。橋の上に出た。瀬戸内海の青
 い海原の真上を歩いた。汗で濡れた背中を、青い風が心地よく通り
 過ぎて行く。(写真右は大橋)
 大三島の大山祇神社へ (写真左)........ カーナビにはまだ
 多々羅大橋がインプットされていなかった。それに気づかずにカーナ
 ビ任せで走ったらフェリー乗り場の港へ案内してくれた。多々羅大橋
 へ乗るのにロス時間30分。いやはや参りました。世は秒進分歩の
 時代ですね。ナビもバージョンアップをしていかないとだめですね。 
 新しいCD−ROMが発売されていたがケチったのが原因。同じ様なこ
 とが大三島から今治へ出るときにもあった。  大山祇神社は天照大
 神の兄さんを祭った古い神社。境内には樹齢2600年のご神木があ
 った。また 花崗岩質の砂が敷き詰められていて明るい感じがした。
 ここで天照大神と卑弥呼が同一人物かどうか話題になった。小林君の説では同一人物ではないかと
 いう。そう考えれば、神話と古代史における日本の曙がうまく結びつき、すっきりするがそれでいいの
 だろうか?。

 道後温泉へ    海岸端を走る道路と真っ直ぐに行く山道がある。どちらにしようか喫茶店のカウン
 ターでソフトクリームをなめなめ聞くと、店のオーナーは、山道がいいという、も一人の客は海岸沿い
 に走るのがいいという。高野君は、ナビ任せでどうかという。結局ナビ任せにした。ナビは山道を選ん
 だ。意志決定に機械が重要な位置を占める世の中になってきたのですね。途中までどちらを走って
 いるのか分からないまま運転していて、「今 どこを走っているの?」と私。「R317のようだね」と高
 野。R317の道路標識が出てきた。
 こういう山道は、追い越しがきかないので、運転の下手なやつがのろのろ先頭を走られると本当に
 疲れる。50qぐらいで走れるところを40qそこそこでカーブごとにブレーキを掛けかけですからね。
 今回も先頭の軽自動車がそんな状態でいらいらしながらの運転でした。参りました。私ならば後続車
 に道路を譲りゆっくり走りますがね。これがドライバーのマナーだ!!      道後温泉泊
 夕食後中曽根君と坊ちゃんの湯へ出かけた。坊ちゃんが、松山中学校の数学の先生になって毎日
 入りに行った温泉である。ホテルから6分、1000円札1枚懐にして出かけた。ポン引きのお姉ちゃん
 にさっそく捕まった。中曽根君は結構上手に対応してくれて助かった。さすが上山田町在住だけの力
 がある、私のような田舎住まいとは違って手際があか抜けている。坊ちゃんの湯とは道後温泉本館
 のことである。そこが道後温泉の繁華街になっている。小説「坊ちゃん」では誰も居ないからと湯の中
 で泳いだら、次の日に、「ここで泳いではいけません」と張り紙をされたと書かれている。湯へ入って
 から繁華街をぶらつくことにした。先ほどのポン引き嬢のことなど一杯機嫌で彼と話しながら入浴し
 た。中曽根君は「○○とはどんなことと聞いてみれば面白かったね」等話ながら入浴した。しばらくし
 て、中曽根君が「ひゃー」とか言って湯船から飛び出した。どうしたのかなと思ったら、時計をはめたま
 ま入浴していたのである。
 浴衣姿で草履履き、アホンとしながらキョロキョロ繁華街を歩く私達は、格好の鴨ネギに見えるらし
 い。ここでもポン引き姉さんに執拗に絡まれたが、その道のベテラン中曽根君と一緒だし、懐には湯
 銭を払った残り550円しかないのだからどうしようもない。坊ちゃん先生もこんな風にして、遊郭の入
 り口の茶屋で団子を食べたのかな。翌日教室の黒板に「団子○○本喰って旨かったかなもし」と書い
 てあった。

 【坊つちやん】
夏目漱石の小説。一九○六年(明治三九)雑誌「ホトトギス」に発表。田舎の中学に赴任した江戸っ子
 教師の若い正義感を、明るくユーモラスに描写。
その書き出し部分を次掲、何度読んでも歯切れのいい文体ですね
 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて
 一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇(ムヤミ)をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深
 い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そ
 こから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使(コヅカイ)に負ぶさって帰って
 来た時、おやじが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかといったから、この次
 は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
 親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳(カザ)して、友達に見せていたら、一人
 が光る事は光るが切れそうもないといった。切れぬ事があるか、何でも切って見せると受け合った。
 そんなら君の指を切って見ろと注文したから、何だ指位この通りだと右の手の親指の甲をはすに切り
 込んだ。幸(サイワイ)ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。し
 かし創痕(キズアト)は死ぬまで消えぬ。

【4】8月24日 木曜日 晴れ  →松山城→淡路島へ
 予定にはなかったが、皆さんの希望により松山城を参観した。街中の駐車
 場に車を止めてリフトで登った。山城だが大きな立派な城であった。ベンチに
 居た地元のおじさんの話だと見所は石垣とのこと、言われてみると反りが鋭
 く、また石垣は隙間の無い様に積まれ、手の掛かるところもなく、なめらかに
 仕上げられていた。また何という石なのだろうか薄桃色で美しい石垣であっ
 た。 
  四国を縦断して淡路島へ。....松山インターチェンジから有料道路へ入っ
 た。ここは4年前に高野君と走った道路である。鼻歌を歌いながら飛ばした。
 徳島のインターまでは不連続で、普通道へ何回か降りて乗り継ぐ予定であっ
 たが、世は秒進分歩の時代、全線が繋がっていた。徳島市街から鳴門海峡
 大橋を渡って淡路島へ入った。この辺りは中曽根君の運転、後ろでのびの
 びとして、鳴門の渦潮を橋上から遠望したりして楽しんだ。淡路島の有料道
 路の走行中にふと見ると燃料切れの警告灯がついていた。燃料切れで高速道路上でのエンコは格
 好が悪い。淡路インターチェンジで降りる予定だったが燃料が持ちそうもない。淡路島の中程を北へ
 少し過ぎた津名一宮インターチェンジで降りた。料金所でガソリンスタンドはどこにあるか聞いて走っ
 た。走っても走ってもスタンドらしき物は見つからない。途中で車を止め通りすがりのおばさんに聞い
 てみたりして走った。在った、入れた、ほっとした。でも 何て事はない、後100qくらいは楽に走れる
 状態だった。でも結果的にはこれが良かった。このR28を海岸沿いに走れば淡路花博の会場へ行け
 る道路であった。右手に大阪湾を眺め、小さな村落を走り抜け、これが淡路島かとその雰囲気を味わ
 いながら花博会場へ向かった。花博会場までの20qは飽きの来ない道路であった。
 入園料金は私達シルバーは大人2800円のところ2000円であった。黙っていれば2800円。シル
 バーは65歳以上。シルバーだといったら証明する物を出せといった。運転免許証を見せてシルバー
 でパスした。結構高い、ここの経営はパソコンで調べたら黒字のようである。受付でもらったパンフレ
 ットには、「国際園芸・造園博覧会  淡路花博  ジャパンフローラ2000」と書かれていた、これが
 正式な名前なのだろう。会場はとても広くて全体は見切れない。パンフレットを見ながらポイントを逃
 さず見て回った。
淡路花博 この様なときは高野君が頼りになる。ナビゲーター高野君の案内で見て回った。料金の
 高いのはいい面もある。高い料金なのだから見なきゃ損、
 暑い盛りの昼下がり汗を拭き拭き見て回った。広大な丘は
 緑の芝と桃色の花の絨毯に被われ、青空には遠くアドバル
 ーンが4〜5個浮かび、丘の裾野は大阪湾に落ちている。ス
 スキの穂が2〜3株浜風に揺れていた。素晴らしい景観であ
 る。そのまっただ中に私が居る。これは素晴らしいの一言で
 尽きる。花は また 近くでしみじみと味わう物であると思う。その為に、広大なテントで囲われ冷房さ
 れた「花の館」があった。花びらの上に花粉を落として咲き乱れる百合科の花々など近くで一つ一つ
 見ると自然の造形美の魔力に引き込まれていくような感じがする。これが陶酔というのだろうか。こ
 の様に花は大局的な美と近写的な美の両面を持ち合わせている物である。それが憎いほど巧みに
 演出されていた。くたびれたが来てみて良かった。....花より団子、ここでなめたアイスキャンデー
 は旨かったなあ。(写真上は淡路花博会場にて
 民宿浜辺荘へ泊まった。私のカーナビは電話番号検索では、公共の宿やホテルは検索できるが、
 民宿まではできない。直ぐ近くまでは誘導するがぴったりとはいかない。この様なときはいつも小林
 君が気軽に車から降りて聞いてきてくれる。今回も小林君の誘導で無事宿舎に着けた。淡路町の観
 光課へ、明石海峡大橋がよく見える宿と申し込んだが、橋の直ぐしたの浜辺。窓を開ければそこに明
 石海峡大橋がある宿であった。夕飯のビールは旨かった。最後の宿泊と明日に乾杯!!

【淡路島】
瀬戸内海東部にある同海最大の島。本州とは明石海峡・友ヶ島水道(紀淡海峡)で、四国とは鳴門海
 峡で隔てられる。一九八五年鳴門海峡に橋が完成。兵庫県に属する。面積五九三平方キロメートル。

明石海峡大橋の概要
  明石海峡大橋は橋長3,911m、中央支間長1,991m(設計段階では1,990m)、主塔高さ海面上約
 297mで世界最長の吊り橋です。建設に使われた材料は、アンカレイジや主塔基礎に使われたコン
 クリートが約1,420,000m3、それらに支えられる主塔、ケーブル、橋桁などの鋼材が約200,000トン
 と他に類を見ない規模です。このため、厳しい自然条件に耐えられる様、細心の注意と工夫がなさ
 れ、暴風は風速80m、地震はマグニチュード8.5クラスと言う、共に150年に1回程度の激しいものにも
 耐えうる様に設計されたそうです。しかし、不幸な事に建設工事中の1995.1.17に起きた阪神・淡路
 大震災の影響で、3P主塔(淡路側)の基礎が地盤ごと1.1メートルほどずれたため、中央支間長が1,991
 mになり、その結果橋の全長が当初計画していた3,910mより伸びて3,911m強になりましたが、工
 事は続けられ1998.4.5供用開始にこぎつけた。

5】8月25日 金曜日 晴れ →六甲山→有馬温泉→帰宅
六甲山山頂へ  明石海峡大橋を渡って神戸市へ入った。朝の通
 勤時ものすごい車である。料金所を出たジャンクションで入り口を間
 違えて、芦屋市へ通じる有料道路へ入ってしまった。ここはさけよう
 と予定していた道路である。予想通り片道4車線の道路には車があ
 ふれ、渋滞の渋滞であった。さすが神戸活力満点である。芦屋市か
 ら六甲山への道は、車も少なく道路もまあまあ、快調に走れた。道
 路脇に車を止めて、徒歩10分ほどで六甲山の山頂へ出た。頂上に
 は最高峰の標識があった。六甲山にはいくつかの峰があり、ここが
 最高峰と言うことなのでしょう。と高野君の弁。頂上から六甲の山並
 みが一望でき、緑のなだらかな起伏が印象的であった。
写真は六甲山山頂
【六甲山】
兵庫県南東部、神戸市北部にそびえる六甲山地の主峰。東六甲山は海抜九三一メートル、西六甲山
 は八○四メートル。行楽地として知られ、山中に鷲林寺の廃址がある。

有馬温泉へ  六甲山からは有料道路で10数qのところにある。話には聞いていたが初めての訪
 問である。谷間のこざっぱりとした温泉街であった。小林君が見つけ
 てくれた「花結」という豪華なホテルで一休みした。ウエイトレスは研
 修生なにがしと名札をつけた上品な娘さんであった。一泊¥20000
 は私達には不向き、神戸の芦屋市辺りのお金持ちの客でもっている
 のであろう。
 【有馬温泉】有馬の湯。古代から名湯として知られた。泉質は含炭
 酸食塩泉。
 ここから宝塚市へ出た。幹線道路へ出る前の支線道路は渋滞であった。10qぐらい走るのに1時
 間近くかかってしまった。渋滞の途中で昼食にした。焼き肉屋で、韓国料理「石焼きビビンバ」¥800
 を食べた。日本流に言えば五目飯のチャーハンである。珍しくて旨かった。昼食後もまだ渋滞。のろ
 のろと走った。幹線道路へ出たら快調に走れた。宝塚の駅で小林君が降りた。ここから電車で東京
 へ帰るために。私達は宝塚インタチェンジから高速道へ入った。  家に着いたら8:00PM近かった。
   旅は終わった。

3.エピローグ
 事故らしい事はラジェーターの水不足で警告灯が点灯し、補水した程度。人車とも快調な旅であっ
 た。旅は道連れ世は情け、50数年来の友人との旅は話が尽きない。困れば誰かが何とかしてくれ
 る。70才なんて生活年齢は忘れ去って、青春時代に戻ってしまった5日間だった。同行諸氏のお陰
 で予想以上に楽しい旅ができました。感謝申し上げるとともにまたどこかへ一緒に行きましょう。
 来年はどこか南の島へ行きたいという。ついに行くところが無くなってきたのかな。


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