富士山麓
富士山一周と身延山、静岡の旅
2002年9月8日〜9月10日2泊3日
1.プロローグ
 富士山を中心にして立案した。その中核は五合目まで車で登る、富士五湖、身延山、箱根でした。 その後みなさんと連絡しあう中で箱根と静岡市を入れ替えることになりました。問題は西東京市から 参加する小林君とどこで合流するかでした。インターネットで調べたら、新宿から高速バスが河口湖 駅まできていることが分かった。参加者はいつも通り、小林、中曽根、高野の諸氏と私の4名。テーマ は富士山麓の旅。富士山の雄姿をカメラに収めるのをひとつの目標にした。

2.日程の概略と所感
■1日目 9月8日 日曜日 曇り出発 
長野道−岡谷ジャンクション−中央道−一宮御坂IC−R137-−御坂町−河口湖 富士急行河口湖 駅で小林君と合流 河口湖ロープウェイで天上山富士見台へ−昼食
富士スバルライン→五合目 小御岳神社→鳴沢氷穴→富岳風穴→本栖湖−金子荘泊

 朝の6時予定通りに出発、途中高野君と中曽根君を乗せて河口湖へと向かった。天気は雨になりそうな曇り空、天気がよければ三坂町から、峠を越えて河口湖に映る富士山を撮影する予定だった が、この天候では無理。トンネルを抜けて河口湖へ出た。天候はだいぶ明るくなってきたが富士山は 厚い雲の中である。峠を通らないで正解と高野君。街中の道路は観光用の車が多い。観光地とすれ ばまあまあである。予定より30分早く9:30頃富士急行河口湖駅に着いた。血糖値を気にしながらア イス最中を食べたり、駅周辺をうろうろとした。定刻に小林君のバスが着いた。彼とは久方ぶりの再会。何かどこか懐かしいようなお互いであった。
 予定した富士博物館へ向かった。河口湖の湖畔で博物館への道を尋ねたら、今日は休みだという。
 天上山展望台は,ロープウェイで上った。思ったより視界が開けた 展望台であった。日が差しているが富士山は雲の中。富士山も顔を出すかと期待を持たせるような天気になった。この展望台は左手に 富士山を望み、眼下に河口湖が開け絶景の場所と思われる。(右の写真)
 この天上山麓のレストランで昼食、山梨名物のほうとうを4人そろって食べた(ほうとう:(ハクタクの音便) うどんとカボチャなどの野菜を味噌で煮込んだ料理(左の写真)。山梨県の名物)レストランのコックとウェイトレスは合わせて3人。いずれも60代のお姉さん方であった。
 年季の食った料理は古風で伝統的な味がした。うまかった。 レストランからは河口湖が一望できた。天気も良くなってきたし、5合目まで上がれば富士山が見えるかもしれないと話も弾んできた。
 富士スバルラインで五合目(標高2,340m)へ向かった。途中からはガスの中、これは予想通り、問題はこのガスがどこで切れるかである。4合目のあたりからガスが切れてきた。しかし富士山頂は依然として雲の中。雲は山頂を掠めて流れている。雲の切れ目から山頂が顔を出すかと期待が持てた。
 終点五合目には車1000台が収容できる大駐車場がある。ここから歩いて20分ほどのところに小御岳神社や売店5軒、休憩所などがある。休憩所脇の山頂展望台へあがってみた。雲は山頂へ噴きあげていて切れそうでなかなか切れない。薄い雲の中に時折山頂らしきものが見えた(写真右)。カメラを構えると雲がさえぎってしまう。でもほんの何秒か山頂を眺めることができた。売店で甘酒を飲んだ。そこの女将さんによれば昼ころは山頂が見えたとのこと。そう言われてみれば、そのころ河口湖周辺も天気がよかった。この辺りは今から数10万年前に出来た最初の山体小御岳(標高2,400m)の一部が見られる場所である。気をつけて観察したがそれらしきもの(古いから侵食されている)は見当たらなかった。富士山←クリックすると開きます他も同様です。戻るボタンで閉じてください。
山を下って鳴沢氷穴と富岳風穴を参観した。 鳴沢氷穴: 全長153mの竪穴環状型の洞窟。夏でも平均気温0℃の洞窟内には大きな氷柱やツララなどの万年氷があり、一年中氷柱が見られる。下って上って大きな洞窟であった。これが流れ下ってきた溶岩によって作られたものと思うと脅威である。このあたりには大小のこのような洞窟がたくさんあるとのこと。幅1.5m〜11m、高さは1m〜3.6m。頭を岩にぶつけた人もいた。準備のいい人はアノラックを着て入った。
富岳風穴。
全長200mの横穴の洞窟。平均気温は3℃で、昭和30年頃までは越冬用蚕の保存に利用された。氷柱や鍾乳石を一年中見ることができる。風穴を出たところから青木ケ原自然歩道へ出られるようになっていた。時間があれば散策してみたい場所である。宿金子荘泊 本栖湖のすぐ近くにある民宿、富士山の見える民宿、パソコンで調べて予約した。予約金は0円 宿泊料金¥6000 おばあちゃんとおじいちゃんが経営する民宿です。ホームページのうたい文句どおり食べきれないほどの料理でした。うーん 美味かった 満足でした。  夜はすごい土砂降り、山の雨は里とは違った降り方をするものです。まさにバケツをひっくり返したような雨。明日の天気が心配でした。

■2日目 9月9日 月曜日 晴れ
本栖湖→R300−R52→身延山久遠寺参詣−ケーブルで奥の院−R52−R1→駿府公園→ ル・
ヴェールたちばな泊   
 泣き笑いのような天気、豪雨の名残はあるが何とか天気になりそうである。出掛けにどこかで食えと宿のおばあちゃんがブドウをくれた。おばあちゃんに見送られて出発。
 本栖湖へ出てみたが富士山は厚い雲の中。5千円札の富士山の写真はこの本栖湖で撮影したもの。その撮影ポイントの近くへ来たが富士山は雲の中でした。
写真右は本栖湖の朝です。
 R300のカーブの多い道路を下り、富士川沿いに身延山へ向かった。
 【身延山久遠寺】日蓮宗総本山。波木井川に沿って身延山中腹の伽藍と山頂の奥之院、七面山本社から成る。日蓮上人開基、11世日朝上人が現在地に大伽藍を建立。多数の伽藍は杉林に囲まれ、境内にはしだれ桜が植えられている。高さ21mの三門は総ケヤキ造。正面に菩提梯と呼ばれる287段の石段が延びる。この急な石段を登ると正面には御本尊を祀る本堂、その地下には寺宝が展示されている宝物館がある。その他、祖師、日蓮上人を祀る祖師堂、日蓮上人の遺骨を納めた御真骨堂、仏殿、水鳴楼、大客殿が並ぶ。奥之院にはロープウェイで8分。寺宝に絹本著色夏景山水図〔国宝〕、宋版礼記正義〔重文〕などがある。境内自由真っ直ぐ細い街中の坂道を登っていったら、久遠寺の入り口へき た。道路はそこで行き止まり、駐車場はそこにはなかった。三門の入り口でユーターン今来た道を駐車場まで下った。すごい坂道を登って宝物殿を参観した。ここから本堂の内陣へ入られるようになっていた。警備する人も誰もいない立派な広い内陣でご本尊様にじかにお参りができた。開かれたお寺である。境内は白砂利がしかれ広々としていた。伽藍の合間に樹木が程よく生い茂り、気持ちの休まる景観であった。写真左は久遠寺本堂です。
 奥の院へはロープウェイで上った。奥の院は霧の中、晴れていればあたりの景観を楽しめたろうに、でもそれだけに神々しい雰囲気を味わうことができた。士川沿いに静岡市の駿府城跡へ向かった。途中川沿いのレストランで昼食。出掛けに宿のおばちゃんがくれたブドウを食べた。レストランのお姉ちゃんがブドウを洗って皿に入れてくれた。民宿と山のレストランのよさですね。
【駿府城址(駿府公園)】 
  天正13年(1585)に徳川家康が築城した駿府城の跡を公園としたもの。家康は将軍職を秀忠に譲ったのち、この城に隠居していました。豪華絢爛な造りで天下の名城を誇っていました。今ではその美しい天守閣を見ることはできませんが、復元された江戸初期の「東御門(ひがしごもん)」と「巽櫓(たつみやぐら)」が当時をしのばせてくれます。広い園内の本丸跡には家康の銅像が立っており、その近くに家康公お手植えのミカンの木もあります。写真右は本丸跡にある康のブロンズ像駿府公園は駐車場のないことはあらかじめ分っていた。公園の周囲は堀がめぐらされ堀沿いに車が通れるようになっている。どこかでコーヒーでも飲んで駐車して公園内に入れないかと堀に沿って回ってみた。2周目に道路端に5〜6台が縦列駐車できる有料パーキングエリアを発見した。1台分があいている、ラッキーでした。ここはみんな初めての参観である。バス旅行では駐車する場所もないし、際立った見るべきものもないためだろうか。歴史観の上に立ってみれば価値ある場所だと思うが。復元された巽櫓(たつみやぐら)を見たり家康の銅像見たりし、権勢を誇った当時をしのぶことができた。
 
■3日目 9月10日 火曜日 晴れ
 ル・ヴェールたちばな→日本平→久能山東照宮−三保の松原−静岡IC→東名高速道→富士IC−→ R139−上井出インター→白糸の滝見学→R139−朝霧高原経由− R139−本栖湖−精進湖−358−甲府南IC→中央道−岡谷JC−長野道→帰宅  
【日本平】標高308mの有度山の山頂北側一帯の平原。茶とミカン畑をぬって登るドライブウェイとハイキング道があり、清水港・三保ノ松原・富士・伊豆箱根・静岡市街・南アルプス・御前崎など雄大な自然が望める。山頂には久能山とを結ぶ全長1,065mのロープウェイがある。国の名勝地、県立自然公園に指定されている
 富士山を見るために静岡市内を突っ切って日本平へ登った。ここは2回目であるが、車の数も少なく閑散としていた。展望台へあがってみようと思ったがどこだったか暫し迷う。展望台には私たちの他に1組だけの人。眼下に清水港と海原が見渡せ雄大な眺望である。富士山とおぼしきあたりは雲に覆われている。残念、しょうがない…ですね。
"赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった・・・・・・・・・."この野口雨情が作詞した童謡を,誰でも一度は聞いたことがあるかと思います。この女の子は清水市出身の「岩崎きみ」ちゃん、母親は「かよ」という。展望台を下がった一角に「赤い靴はいていた女の子」の母子があった。
ロープウェイで久能山東照宮へ参詣した。
【久能山東照宮由来の抜粋】 家康は晩年駿府城に在ったが元和2年(1616)4月17日75歳で 薨去、御遺命により当山に葬り、従来山上に在った久能城を廃止すると同時に2代将軍 秀忠公の命により宰相頼将卿(後の紀州家の祖頼宣卿)が総奉行となり中井大和守正清を 大工棟梁として元和2
 年5月着工。同3年12月に至る僅か1年7ヶ月と云う短期間に造営された のが現在の建物である。
 私は始めての参詣である。楼門から入ったが、なかなか造りはいい。楼門は前面に後水尾天皇御宸筆の「東照大権現」の 額が掲げてあるので勅額御門ともいうそうである。境内には太鼓楼、神楽殿、五重塔の跡、厩舎、唐門、家康のお墓、博物館などがある。全体的にこじんまりとしているが造りのいい建物であった。五重塔や明治時代までは観音堂もあったようですから神仏混淆が本来の姿だったのでしょう。今は神様です。 唐門から入って拝殿でおまいりをした。何も願わないでただ拝んだ。天下泰平の基盤をつくった業績は賞賛して余りあるものであると思います。
  大名が寄贈した石灯籠の並ぶ参道を通って家康のお墓へいって見た。コンクリートの樽状に見えるお墓だったが当時はポートランドセメントがあるはずはない。石をくりぬいて作ったものであろう。明るい感じの墓所であった。家康は死んだらここへ埋めろといったそうだが、死んだらここの山体になって、見晴らしのよいこの地から天下の行く末を眺めようとでも思ったのかな。この後博物館の見学をした。
写真左は家康のお墓です
  山を下って三保の松原へ向かった。 三保の松原は、平安の昔から景勝地として名を馳せ、多くの万葉歌人に歌われ、日本の伝統芸能である能楽「羽衣」によって世界的にも知られている。ここからの富士山の眺めは絶景。また、この松原には、約1キロメートルの鎌ケ崎遊歩道や日本の能楽「羽衣」に傾倒し、あこがれの三保の松原を見ないままパリで没したフランスのバレリーナ、エレーヌ・シュグラリス夫人の碑、天女が舞い降りた伝説を残す樹齢650年の羽衣の松がある。この羽衣の松はいまや瀕死の重症。人間で言えば点滴をして入院ものである。写真右は元気のない羽衣の松です。
松の並木が続く遊歩道に沿って海岸へ向けて走った。行き止まりには広い駐車場とその周りにはレストランやみやげ物店が並んでいる。松並木を徒歩で上って下ると海岸へ出られるようになっている。まず目に付くのが枯れそうになっている羽衣の松である。短い弱々しそうな葉がその病状を訴えているようであった。波打ち際まで歩いた。天気はいいが富士山の見えるあたりは雲に覆われている。残念無念の極みである。食堂の女将の話によれば昨日は富士が見えたとのこと。この後小林君は静岡鉄道しんしずおか駅から帰宅。残り3名は東名高速道から白糸の滝へ向かった。
白糸の滝には公営の無料駐車場もあったが後で分かったこと、その近くの有料駐車場へ駐車。もう少しわかりやすく表示したらどうなのだろう。もちろん無料駐車場を利用します。
この辺りは曽我兄弟(曾我十郎祐成(スケナリ)・同五郎時致(トキムネ))が鎌倉時代の初期父親の仇討ちをしたところです。それにかかわりのある曽我の隠れ岩と音止めの滝を見てから白糸の滝の参観をした。
曽我の隠れ岩(写真左): ある雨の降る夜、兄弟はこの岩陰で父の仇工藤祐経を打つ相談をしていました。近くの滝の音が轟々として密談ができませんでしたが、敵討ちの話を始めると滝の音はぴたりと止まりました。話し終わるとまた轟々と音がしました。これが音止めの滝です。隠れ岩は半ば自然の状態で見栄えのするものではなかった。物語の中の岩としてみればいいのかなと思いました。
  音止めの滝の近くはお店が道路の両端に並び滝の見学よりもそちらに興味が惹かれそうな状態でした。音止めの滝は近くまでは行かれなくて、展望台のようなところから眺める程度です。結構な滝のように見えました。(右の写真は音止めの滝です。)
 白糸の滝はこの音止めの滝とは川筋が異なり、小帰りして反対側の崖を下ったところにある。崖を下って川縁に出るとメインの滝が正面に見える。そこへ向けて、絹糸のように見える細い滝が幅200メートルに わたって流れ落ちている。高さは20メートルとのこと。橋を渡って川の左側からメインの滝に向かった。滝から流れ落ちた水は足元を川になって流れている。(写真左は白糸の滝です)この滝は富士山の伏流水であるから天然浄化されたものである。いくら天然浄化といてもいまどき飲んでいいはずがない…が飲んでみたくなった。川の中へ入ってペトルポットに汲んで飲んでみた。中曽根君も高野君も飲んだ美味い水だった。メインの滝つぼへ着いた。青く澄んだ滝つぼには橙色のヒメマスが泳いでいた。そのときは緋鯉かと思ったが帰って資料を調べたらマスであることが分かった。鯉には水温が低すぎる。帰りは店先をのぞきながら目の保養をした。結構見所の多い白糸の滝であった。
 富士の裾野を走った。周囲は牧場。ススキが穂を出し初秋の風情である。晴れていれば大きな素晴らしい富士山が見えるはずである。残念ながら富士山は相変わらずベールの中。「お天気だったら なあ」など思いながら緩やかな起伏の続く朝霧高原を走った。一昨日宿泊した宿の前を通って精進出た。初めて見る湖水である。湖のほとりに車を止めて一休みした。この後は予定通り中央道へ入り一路帰宅の途についた。ついに富士の勇姿を見ないまま旅は終わろうとしている。中曽根君は今秋にもう一度富士山を見に来たいと言っていた。

3.エピローグ
 旅が終わりました。富士山の姿を追い求めた3日間でしたが遂にその勇姿を観ることができませんでした。秋雨前線が南下し、また台風が東シナ海を西進する気流の不安定な気象条件の中での旅でした。
 1日目の出発当日も天気予報は雨から曇り、少々の雨は覚悟の上での出発でした。走るほどに天候は回復し、富士山が見えるかなと期待が持てるほどになりました。河口湖では晴れ、でも富士山は厚い雲の中。昼食には山梨名物のホウトウ定食を食いながら、「もしかして五合目まで上がれば雲の上に出て山頂が見えるかも知れないぞ」などと会話も弾みました。
 五合目まで上がったら、ガスの切れ間から富士山の山頂を短時間ですが観ることもできました。この夜は大雨、明日の天気が気になるほどの大雨でした。       

 2日目もだんだんに天候は回復して、晴れ間の多いいい天気でした。でも富士山は雲の中でした。 3日目は予報通りの晴れ、三保の松原でも天気はいいのに、富士山は雲の中。食堂の女将の話しによれば、昨日は富士山が見えたとのこと。
この様に天候は天気予報に反して、まあまあのいい天気でした。富士山が見えなかったことは残念 無念。
 中曾根君は10月頃再度訪問して、富士山を撮影してみたいと言っていました。
 来年の旅?はまた何処かいいところへ行きましょう。のんびりと弥次喜多道中のような旅がいいですね。

大根の若芽が元気に成長をしています。白菜も毎日のようにその成長振りが目に見えます。その周りをモンシロチョウがしきりに乱舞しています。これは気にかかります。毎日青虫(モンシロチョウの幼虫)をひねりつぶしています。そろそろ野沢菜の蒔く頃になりました。本栖湖での野菜談義を参考にしながら家庭菜園に精を出します。そして来年の旅の中で実践をご報告申し上げたいと思っているこの頃です。
 
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