韓国縦断遺産紀行

2003年4月23日〜30日
1.プロローグ
国外では一番近い韓国への旅は数年来予定のコースである。当初高野君と二人旅の予定であったが、学友の大井君に声をかけたら躊躇なく「行くなら俺も連れていけ」とのこと。急きょトリオのパックツワーが実現した。サーズがはやっている最中の旅、外国の旅は家族を含めて止めた方がいいんじゃないのと消極的な意見の多い中での旅であった。
2.概要と所感
○1日目4月23日水 曇り 出発→成田→済州島泊
この時期には珍しく台風が発生し、出発当日は東支那海を北上中。先々の天気が気になる出発であった。
朝の1:00長野中央タクシーで成田へ。途中で高野君大井君と乗り合わせて。出発ロビーは第一ターミナル。成田空港は朝が早いせいか或はサーズのためか人影はまばらであった。
空港の職員はマスクをしていたが、大井君もマスクをたくさん持参したといっていた。空中にウィールスが浮遊しているとすればそんなものでウィールスを除去できるのだろうか、はなはだ疑問である。合時刻7:30までには1時間以上もあったが気にならない時の流れであった。
成田を定刻9:45に飛び立って済州島へ12:15に着いた。2時間半のフライトである。空港内で1万円をウォンに換金約10万ウォンになった。急に金持ちになったような気分である。
空港から済州市のホテルへ直行。午後は自由行動。若ければタクシーで街へ出てもいいが、朝早かったので3人ともホテルで過ごすことにした。
夕食は町へ出て海鮮料理。大井君と私は焼酎、高野君はビールで乾杯。焼酎はオリゴ糖入り、甘口でのみ安い。2合ビンを一人であけた、私は飲みすぎ、次回からはビールに切り替えたが大井君は最後までこの焼酎を愛用した。
【済州島】
(Chejudo) 朝鮮半島の南西海上にある大火山島。面積1840平方km(沖縄本島は1185平方km)。古くは耽羅(タンラ)と呼ばれた。付近海域はアジ・サバの好漁場。周辺の島嶼と共に済州道をなす。日本の沖縄のような存在。昔は朝鮮半島とは別に国家体制を備えていた。文化も半島とは異なった独特の文化圏を構成していた。ガイドの話によればホテルの稼働率は90%台を維持し韓国では一番景気がいい。また韓国の若者あこがれのリゾートエリア。韓国の新婚旅行のほとんどは済州島とのこと。
済州島 済州市泊
○2日目 4月24日木 曇り後雨 済州島、→釜山の観光、→慶州泊
済州市内観光 ★三姓穴★民族博物館、★竜頭岩
三姓穴(サムソンヒョル)
済州島の歴史が始まったところ。伝説によると済州島の高氏、良(梁)氏、夫氏の祖先がそれぞれ三つの穴から生まれたそうです。ここは済州島の住民たちに単純な伝説以上のところであり、この物語は公式の歴史書にも記録されてい る。3姓の祖先が生まれたこの穴を毛興穴といい三神人をそれぞれ高乙那、良乙那、夫乙那と言う。彼らは獣を獲り皮服を着て肉を主食にしていた。ある日紫の泥で塗り付けた木箱が海の上に浮いているのを見つけました。箱の中には、また小さな三つの箱が並べてありました。まず、高氏が蓋を開けると、そこには五穀の種子がたっぷり入れてあり、 良氏が開けた箱 には、六畜が、 終りに夫氏の箱には、きれいな3人のお嬢さんがいました。 "我々は島国の碧浪国の皇帝の娘でございます。お父さんが耽羅国にすばらしい三人の君主がいるから、 そこへ行ってそれぞれ三人の君主の花嫁となれと命じられたのでまいりました。さらに、五穀の種子と六畜と共につかわされたのは我々は妻としての役目だけでなく夫と手伝い耽羅国の子孫を万代まで栄えさせるためでございます。 " この話を聞いた三姓は碧浪国 の皇帝の恵みを天に有難く思い、それぞれ気に入るお嬢さんと結婚しました。彼らが結婚式を行った場所は今の城山面 温坪里(婚姻地)に残っており、こうして耽羅国は農畜時代へ入ってから栄えたと言われています。
三神人が耽羅国を創始して、1526年朝鮮の中宗王(1506-1544)の時期にユス洞には祭壇、ホンサルムン(陵、廟などに立てる屋根がなく桟がつけてある赤門のこと)、 三姓穴を囲む壁を
立て春と秋に記念行事を行い始めたそうです。この祭りは済州島の3姓の始祖を記念する行事の 一環として今も行っています。上記の物語は映画で鑑賞しました。この伝説は半島にもある国の成り立ちとは異なったタイプであり、伝説以上に真実感を伴って受け入れられているようです。竜頭岩(ヨンドゥアム)拏山の噴火で流れ出た溶岩が海で冷やされ固まってできた岩。竜の頭のような形をしているため、竜が神の怒りに触れて岩にされたという言い伝えがある。溶岩壁の細い道を海辺近くまで下って眺めた。
雨が気になる天気になってきた。
民族博物館
ここには民俗遺物と済州島の動植物が展示されている。済州島人の伝統の生活洋式が再現されていた。博物館の入口には大きな海洋動物の剥製が展示されていた。 長さ8.6m、重さ4.5トンの大型姥鮫(ウバザメ) 、長さ4.7mのえい、4トンのジンベイザメが目を引く。博物館は自然史展示室、民俗物展示室、特別展示室、視聴覚室などの4室の展示場に分けられ、およそ3、000点余りの民俗遺物が展示されている。
民俗物展示室には藁屋、テウ(浮木船)、農機具、海女の作業道具、済州島の伝統作業服('カルチュンイ'や 'カルゾクサム' など)などの多様な伝統遺物が展示されている。中でも興味を持って見たのはガルオッである。ガルオッは済州特有の痩せ地と独特な文化様式が作り出した作業着。夏青柿をもぎ取って潰したのを服に塗り付けて作る。ガルオッは風通がよく夏は涼しい、畑仕事をしても汚れにくい、渋染が防腐剤の役目をし、濡れた服をそのまま置いても腐ったりしない。最近ガルオッについての関心が高まりデザインと生地についての研究が進んでいるとのこと。
ここはそれほど有名な観光の場所ではないが見応えがありよかった。疲れた、腰が痛い、時折腰をおろして休みながらの参観であった。
昼食後空路釜山へ
着後釜山市内観光 ★竜頭山公園 ★国際市場
釜山は雨、結構強い雨、気の滅入るような雨であった
【釜山】
朝鮮半島の南東端に位する港湾都市。東港は商港、南港は漁港。日韓交通の関門。京釜鉄道の起点。人口は約4百万人、ソウルに次ぐ大きな市である。
竜頭山(ヨンドゥサン)公園
雨の中竜頭山公園のタワーへ上がることになった。山の姿が海から陸へ上がってくる竜の頭に似ていので、竜頭山と呼ばれたそうです。 釜山のシンボル。高さ120メートル。タワーからは釜山港の全景が一望できる。
公園内には李舜臣将軍の像が日本の方を向いて建っていた。
李舜臣将軍:1592年 文禄の役(壬辰の倭乱) 水軍を卒いて加藤清正、九鬼嘉隆ら豊臣秀吉による日本の侵攻軍を海上で破る。日本軍の補給路を断ち、全羅道より西への進出をふせぎ、戦局転換に大きな役割をはたす。彼の像は韓国のあちこちに建てられていていずれも日本の方向を向いてにらみつけているという怖い銅像である。
展望台から釜山市を眺望した。雨のためか、驚嘆させるものはなかった。
国際市場( ククチェシジャン)
竜頭公園の直ぐしたにある一角である。雨は小康状態 傘なしでも歩けた。
もとは朝鮮戦争時代の救援物資や、アメリカ軍基地内の軍事物資の横流し品などをあつかった闇市場が前身。今では一日中活気にあふれ、釜山で一番大きい、そして一番安い市場として有名。国際市場が人気を得ている秘密は、ないものはないとまで言われた多様な商品。ビックリ価格。道路に屋台店が並び食事までできてしまうという強み。
私はここで革の札入れを買った。アメリカドル60$で、ドイツの何とかというブランド製品である。多分コピーとは思うが。
市場と言っても通り全体が個人営業店である。高野君と街を散策した。あちこちから日本語で「安くするから買っていけ」と声がかかる。日本人観光客が多いせいか、片言の日本語で一所懸命客引きをしてくる。その凄さにちょっとたじろぐが、それもこの市場の人間くささなのではないでしょうか。
道路にある屋台店は店先の道路に腰を下ろして食べられるようになっていた。ちょっとなれないと食べる気はしないものであった。
この後バスで慶州市へ移動 慶州市泊
○3日目 4月25日金 雨 慶州市内観光→バスで大邱 大邱泊
慶州市内観光 ★仏国寺★石窟庵★天馬塚
【慶州】
(Kyongju) 朝鮮慶尚北道南東部の都市。新羅9百年間の都。付近に法興王と武烈王の陵、仏国寺・石窟庵・金冠塚などの史跡が多い。
人口約29万2千人
石窟庵(ソックラム)
雨の中石窟庵へ花崗岩質の白い山道を歩いた。修学旅行と思われる生徒交差しながら。雨に洗われた青葉が美しい。家のほうより半月ぐらい陽気が進んでいるようである。石窟庵の周辺は霧の中、幽玄の世界がそこにはあった。石窟庵は 吐含山に位置する韓国の代表的な石窟寺刹です。花崗岩
で作られた人工石窟寺院。石窟庵 は佛国寺を建てるときに一緒に建てられたもの。
金大城 は現世の父母のために佛国寺をたて, 前生の父母のために石窟庵を建てたそうです。
尊円形の主室には本尊像を始めとする 菩薩と弟子像等がある。石窟庵は 本尊像を安置するため作られた寺。本像は蓮花紋が刻まれた壇の上に座っていて優しい姿と慈悲深い表情をしている。
天井は 半月や弓模樣の丸い様式でその上に蓮模様の円板をのせて蓋をしている。
仏国寺(プルグクサ)
仏国寺は慶州を代表する遺蹟。雨の中の参観であった。世界遺産だけあって大きな立派な寺院である。山の斜面を利用して造られているから階層的になっている。法流寺と呼ばれていた頃もあったとか何処か親近感がもてた。廻廊の柱は中程が膨らんだエンタシス(法隆寺金堂の柱などもこれに属する)になっているのも時代を感じさせた。
仏国寺は新羅 第23代 法興王(在位 514〜540)によって西紀 528年に建てられ、その当時華嚴仏国寺, あるいは法流寺と呼ばれていた。その後 751年から 17年間の長い工事の後は仏国寺という名前が付けられた。秀吉の朝鮮侵攻で全焼した(1592〜98)。そのため 1604年頃から再び建て始め1805年 朝鮮 純祖(1790~1834) の時まで 40数回に渡り部分的な補修がなされた。
1969年 無説殿 ・観音殿 ・琵盧殿 ・經樓 ・廻廊 等が 復元(1973年)され,大雄殿 ・極楽殿 ・泛影樓 ・紫霞門 等が古くなったり壊れた部分が 修理された。
現在 仏国寺には多宝塔( 国宝 20), 釋迦塔(国宝 21), 蓮華橋.七宝橋( 国宝 22), 雲橋 ・白雲橋( 国宝 23), 金銅毘盧遮那仏坐像( 国宝 26), 金銅阿彌陀如來坐像( 国宝 27), 舍利塔( 宝物61) 等の多くの文化財が残っている。
大陵苑(テヌンウォン)(天馬塚)
韓国のピラミッド・大陵苑
この大陵苑は新羅王朝の王族の大規模な古墳群。広さ12万坪の敷地に23基の古墳が集まっているが、目に見えない地下の古墳まで合わせるとその数は200基位はあるだろうと言われている。これらの中で最も有名なのは天馬塚と皇南大塚である。
天馬塚という名前は1970年代に発掘された時に天に登る馬の姿が描かれた絵が見つかったため付けられたもの。15000年前古新羅時代唯一の絵画として大変貴重なもので、大陵苑の中で唯一内部を公開している。内部には11,526点の文化財と王冠まで復元されており古代の王の華やかな生活の様子を窺い知ることが出来る。初めは復元に気づかないでこんな素晴らしいものが埋蔵されていたのかと驚異であった。日本よりも文化的に数段優れていること、新羅文化の華やかさが感じとれた。
ショッピング
青磁を造って販売している店へ連れ込まれた。その店の婆様は日本語が上手でやり手の婆様であった。私は彼女に言葉巧み勧められて青磁のコーヒーカップを2組買った。なかなかいい感じのカップで毎日愛用している。
安旅は土産物店まわりが多い。この後民芸店を2店見て回った。別に買いたい物は見あたらなかった。
バスで大邱へ 大邱泊
○4日目 4月26日土曜日 晴れ 海印寺→ 南原(カンハルン)観光→バスで光州へ移動 光州観光 光州泊
起床5時30分 気になっていた天気は晴れ。ホテルの窓から青空がまぶしい。
海印寺(ヘインサ)
海印寺へ30分山道を歩いた。昨日の雨で洗われた若葉がまぶしい。まさに新緑の候である。ここも修学旅行の中学生と思われる生徒が沢山参詣に訪れていた。海印寺は紅流洞渓谷という紅葉の美
しい渓流沿いを登った所にあり、お経を経板に彫り付けた八万大蔵経が収められているお寺として名高い。八万大蔵経は仏の力をかりて外敵の侵入を防ごうという願いから発願され、1011年から1087年まで実に 77年間をかけて完成された。しかし、1232年蒙古軍の侵攻により焼失してしまった。再び1236年から 1251年の16年間をかけて現在の八万大蔵経が完成された。
経板にはシラカンバとホオノキが 用いられており、海水に3年間漬けた後、塩水で蒸して、日陰で乾かしたものを用いているという。八万大蔵経が収められている蔵経閣は
1488年頃に建てられ、その後何度か修理されている。経板が腐朽しないよう通風や敷地の土壌に細心の工夫が施されているという。窓は格子窓で、上下二段に配し、上の窓より下の窓の方が大きいのは風通しをよくするためと思われる。また土壌には炭、灰、粘土を入れることによって、湿気の調節を図っているなど工夫が施されている。
昼食
この日の昼食は旅の中では一番豪華でおいしかった。参鶏湯と書きサムゲタンという。若い鶏を丸ごと料理した物である。腹の中に薬草とか香料の植物を入れて煮込んだ物である。味が良くボリュームたっぷり十分満足する物であった。
韓国人に愛される古典文学の傑作春香伝の舞台・南原(カンハルン)の見学
『春香伝』は、韓国の人々の心に永遠に刻み込まれている愛の物語。16歳の美しい娘 春香(チュニャン)と貴族の子息 夢龍(モンニョン)が身分を越え試練を越えて結ばれるまでを描いた、韓国古典の傑作である。その物語を映画化した所が公園になっていた。公園内には物語の名場面の絵画が展示されていた また 二人が出会ったブランコもあった。池のある美しい公園でした。自由行動の中
で楽しく散策できた。
添乗員は朱勇さんと言い29歳の韓国人。彼は演劇や日本の落語に興味を持ち日本の演歌が大好きな好青年です。バスの中で、またこの公園でも力強い韓国の歌を歌ってくれました。すごい迫力のある歌に圧倒されました。
バスで光州へ移動 着後光州市内観光 ★民俗資料館 ★国立光州博物館
【光州】 (Kwangju)
朝鮮全羅南道の道都。古くから牛・綿花・米の大市が開かれた。繊維などの工業が盛ん。1929、反日の光州学生運動が起った。また1980年光州事件が起きた(光州市で、戒厳令拡大に反対し一部武装したデモ隊と戒厳軍が衝突、多数の死者が出た事件)。そうした歴史の歩みから、光州は正義と
自由を愛する「義の街」だとされており、人々も地元に熱烈なる愛着を抱いているとのこと。人口約14
0万、面積50平方キロメートルの国内5番目の大都市。
国立光州博物館
展示内容:全羅南道出土の遺物を中心に展示。青銅器時代では、大谷里、草浦里出土の青銅器など。原三国時代では郡谷里出土遺物。三国古墳時代では、萬樹里、新村里など甕棺墓出土遺物。他に、14世紀の新安海底遺物なども展示ここの一番の目玉は「新安沖海底文物」である。
1976年、光州からほど近い木浦の近海、全羅南道の新安郡の沖合で、漁船の網に、数点の中国製陶器がかかって引き上げられた。これをきっかけに始められた調査の結果、海底から、一隻の沈没船が発見されたのである。 当時、朝鮮と中国の間に、船による
貿易ルートがあった。その元代の貿易船が嵐のためか沈没し、現代に至るまで
600年余の間、眠り続けていたのである。
船内からは、さまざまな宝物が発掘された。その数1万8千点。なかでも、当時の中国の焼き物に優品が多い。 ほとんど欠けてもいない完品も多く、海の中にあったとは、信じられないくらい、きれいなものだ。特に、見事な逸品は、青磁の花瓶や水瓶の類。
新安海底文物の他に面白かったのは、考古室の「甕棺(かめかん)」である。 日本で弥生時代に見られたものだが、百済時代にも同様のものがあった。 韓国語では「トンノル tok-neol」と言う。埋葬の一形式で、二つの大きな甕を組み合わせ、その内になくなった人の体を入れるもので、卵をかたどっているのではないかと思われる。卵生神話というのは、日本でも古朝鮮でも伝説としてあった。
歴史伝奇浪漫の得意な漫画家諸星大二郎氏は、これは古代の人工冬眠装置、タイムカプセルであると言っているそうです。 光州泊
○5日目 4月27日日曜日 晴れ 内蔵寺、コインドル見学後バスで→光州へ百済遺跡、宋山里古墳群参観→ 儒城温泉泊
高敞(コチャン)コインドル
このごろ(2000年)高敞(コチャン)コインドルはユネスコ世界文化遺産に登録された。
参考までに韓国の世界文化遺産に登録されているのは仏国寺(プルグクサ)・石窟庵(ソックラム)、宗廟(チョンミョ)、海印寺(ヘインサ)蔵経板殿、昌徳宮(チャンドックン)、水原にある華城(ファソン)に次いで計7件である。今回の旅ではこのすべてを参観した。
コインドルは一般的にはドルメンという。
ドルメンとは?
「ドルメン」とはケルト語から来ている言葉です。「ドル」がテーブル、「メン」が石を指す言葉です。
つまりドルメンとはテーブル状の石造物を指したもので、その分布は意外にもヨーロッパからアジア、そしてアフリカにまで及んでいます。ドルメンは一般的に地上や地下の墓室の上に巨大な板石をのせた墓で、巨石文化の一種である。明日香村の石舞台古墳は盛り土をした墓が露出したと言われているが広義的にはドルメンの中に入る?と思うが。時代的にはドルメンは青銅器時代の物である。
日本では「支石墓」と呼び、九州などでドルメンが見つかっているそうです。
高敞コインドル遺跡は紀元前2000〜3000年前のもので、先史時代における葬祭儀式などの技術や社会的発展の様子が手に取るように分かると評価されている。近くに石切場がありそこから切りだした石で造った。支石が地下に埋もれ板石だけが地上に出ているから見た感じは大きな石が散在しているように見える。3石が地上に出ている物と比べれば迫力に欠けるものであった。韓国には3万個のコインドルがあるとのこと。
現在も死者の葬儀や墓は大事にし、土葬が70%をしめている。見晴らしのいい場所があれば他人の土地であっても墓をつくってしまうとか。それに対して地主はそれ程抗議をしないそうです。(ガイドの話)
この後バスで35qの距離にある内蔵寺へ
内蔵寺
内蔵寺は百済時代(636年)霊隠祖師が創建した古寺。当時は50余の伽藍を建てて、霊隠寺と名付けた。その後火災や移転等があり、現在の寺は1938年建てられた。建物自体は比較的新しい物である。
ここは寺よりもお寺のある内蔵山一帯の自然景観美が観光の対象のようである。寺の入り口の山門を入ると樹齢20年〜50年、今が盛りの楓のトンネルが道路を被っている。十和田湖の奥入瀬渓谷のような感じである。秋の紅葉の頃はさぞかし綺麗だろうと思われた。金と暇があったら来てみたい。陽光に黄緑に透けて見える若葉の今もすがすがしい美しさがある。500メートルの参道を若葉の楓を眺めながら歩いた。本堂の境内にはいると樹齢数百年と思われる見事な楓があった。
境内はお経が拡声器で流されていた。メロディーは日本のお経より軽やかでより音楽的な感じがした。古寺にしては現代の先をいく試みである。我が家の近くでも朝のお勤めは録音テープを流して済ませているお寺もあるそうです。
本堂の一角にサツキの植え込みがあり。燃えるような赤色が人目を引いていた。サツキはここだけでなく韓国の何処へ行ってもあった。南から北へと移動したが何処も満開の状態であった。
昼食後バスで百済の都公州へ移動
宋山里古墳群
宋山里古墳群とは600年代の百済熊津時代の王陵群で、武寧王陵を始めとする7基の百済古墳を指す。この内3基は墓の前に入り口があり、中に入ると玄室(棺を安置した部屋)がある。6号壁画墳や武寧王陵などは、学術的、歴史的価値が非常に高く、熊津時代の百済古墳の研究における貴重な資料となっている。
武寧王陵は、百済第二十五代武寧王(在位502〜523)とその王妃の合葬墓である。百済時代の王陵としては初めて、その埋葬されている人物が明らかであるのに加え、数多くの遺物がよく保存されたまま発見さている。
入り口に武寧王陵の模型館があり内部の様子が再現されていて、遺体の状態や埋蔵品の状態をつぶさに観察できるようになっていた。
百済の古都「公州」】
百済時代の都である。百済は初め、ソウルの近く「漢城」に建国したが、高句麗の南下によって漢城は陥落し、475年に都をソウルの南方150Kmに位置する公州(コンジュ)市「熊津城」へ移した。中心都城であった公山城は錦江の南岸に接し天然の要害をなしていた。しかし、やがてここも高句麗の攻勢に会い、扶余へ逃れていく。「熊津城」は百済時代64年間にわたり都として栄え、百済の全史を通じて日本との関わりが深い。百済から日本へ五経博士が派遣されたり仏教が伝えられたのも百済からである。
熊津城(公山城)
百済の首都が熊津(現在の公州)だった頃の宮殿で、当時は熊津城と呼ばれていたが、高麗時代以
降、公山城に改められた。この山城は、百済時代の土城であったものを朝鮮時代に石城に築き直し
たもので、百済時代土城の一部が山頂の東に残されている。この山城は北に錦江が流れる海抜110メートルの稜線に位置した天然の要塞として、東西に約800メートル、南北に約400メートル程の方形を成している。
公山城址へ上り始めると、位牌のような石柱が山門の参道にずらりと並んでいた。牧師と書いてあったが朝鮮時代に功績のあった役人や偉人の顕彰碑らしかった。その向こうに熊津城が見える。近づいてみると城壁の上には軍旗がはためき鎧甲をまとった武者が何かを持って10人ほど立っているのが見える。篝火台に火が燃やされているようである。ちょっとした山を一登りして城壁の門をくぐる。
20人ほどの武者姿の人が槍を持って並び勇ましい号令 をかけ、やがて行進を始めた。衛兵の交代の儀式のようであった。城門の上に出てみたここにも武者が槍を持って威厳たっぷりに立っていた。観光客はこの武者と写真を撮ったりしていた。城内には熊津が首都であった時期に築かれたと思われる王宮址(跡)を始め貯蔵庫の跡などもあるそうであるが、そこまで行かなかった。
帰りは、城門に番兵が2名立っていたが、ブッシュ大統領のように挙手の敬礼を軽くした。番兵は「シェッホー!!)とか叫び槍を傾けて答礼した。私は気分上々熊津城を後にした。
この後バスで儒城へ
夕食は街へ出て韓国の家庭料理。
韓国と言えばキムチ。昼食と夕飯はいつも街で食べたが、そのいかなる食事にも数種類のキムチが出ていた。やはり辛いですね。慣れてくると一寸辛味がないと食べる気がしない感じになってきます。食事のパターンは、昼はビールで乾杯、夜は大井君が焼酎、高野君と私はビールで乾杯。飲んで高カロリーの物をたらふく食べますから3Kgも体重が増えてしまったと悲観していた人もいました....が、他の2名も俺もそうだとか言っていた。皆さん多かれ少なかれ体重は増加していると思います。
さてこのキムチですが、中国に隣接している韓国にサーズが入ってこないのは、このキムチを食べているからだと言われているそうです。キムチの発酵した何かの成分が効くのでしょうか、辛味のためなのでしょうか。ただしこれはガイドの話です。真偽のほどは今後の研究にお任せいたしましょう。私はサーズにならないように一所懸命ハアハアいいながらキムチを食べました。
儒城温泉泊
ホテルの温泉は大きな立派な浴槽でした。水泳パンツをはいて入るのかなと思っていたら、添乗員はいらないと言う。入ってみて驚きました。日本以上にオープンなんですね、全くそこを隠そうとはしないのです。堂々たるものです。何処からでも見てみろという格好です。中には洗い場に上向きに寝ている人も居たぐらいです。
○6日目 4月28日月曜日 晴れ バスで→水原 水原華城見学→ソウル 宋廟見学
水原・華城(スウォン ・ファソン)
日本で城といえば天守閣を中心とする城郭がイメージされるが、韓国の城は街を護るために人々が住む街全体を城壁が取り囲む形になる。水原の華城は周囲5.7km、高さ7mの石造り城壁。水原の北がソウルであることから正門は北の長安門で、堂々たる風格と威厳を持つが、他の三方の城門や砲楼、楼閣、水門、軍事指揮本部である将台など、各施設も韓国の建築独特の美しさを見せている。
西安の城壁とは比べ物にならない程小規模のものであるが、機能的美、均整の取れた楼閣美はさすが世界文化遺産だけのことはあると思いました。
華城の逸話
朝鮮王朝第22代正祖大王(在位1777〜1800)は、政争の犠牲になって王位にも就けず非業の死を遂げた自分の父を悼む心を持ち続け、その墓所を風水で最高の地という水原の南の花山に定めた。そして父の墓の近くに住みたい一心から都を水原に移そうとし、3年の歳月と莫大な資金を投じて華麗で雄大な城"華城"を築いた。
華城は長さ5.7kmの城壁がぐるりと水原の街を囲み、城壁内の面積は約130haでその中に王宮などあった。城壁などの城郭築造には石とレンガを併用し、矢と槍、剣による攻撃を防ぐ古いタイプの
城郭ではなく、鉄砲の攻撃に備えた近代的城郭になっている。城壁の東西南北には長安門、八達
門、華西門、蒼竜門があり、ほかに戦闘に備えた砲楼、将台など48カ所の施設を城壁の各所に配
置している。
華城は都を守る城郭としての機能を備えるとともに、城郭の建造物には芸術的な美しさがある。ま
た、築城の工程や日程などの記録が完全な形で残っている面でも建築学、建築史学的にも大きな
価値を持っている
見学は城の外側にある長安公園からまず城壁と北舗楼を眺め城の内部へ入った。城壁上の歩道を
北舗楼から長安門へ向かって歩いた。銃眼から城外を眺め→北西砲→北西敵台→長安門を見て回
った。上ったり下ったり、それほどの距離ではなかったが結構疲れた。
北舗楼:北舗楼は華西門と長安門の間にあって、楼閣に板門を設け穴をあけ敵を攻撃できるように
なっている。中には梯子がもうけられている。
敵台:城門の左右に設置した防御施設です。
長安門:華城の北の城門で、正門である。八達門(南の城門)とともに華城の代表的な建物である。
この後バスでソウルへ移動 ソウルの市内観光
宗廟(チョンミョ)
宗廟は朝鮮の歴代君主の位牌を奉って祭祀を行う所。その伝統的な荘厳な儀式である祭礼や祭礼楽など、長い伝統と慣習がそのまま保存され、世界文化遺産に登録されています。この儀式は毎年5月の第一日曜日に行うそですが、私たちは建物を見ただけです。
宗廟祭礼楽は、器楽や歌、踊りで構成されている祭礼楽ですが、500年前の旋律を今日までそのまま伝えるもので、現在世界で最も古い儀礼文化となっているそうですから、これが文化遺産の中核をなすものだと思います。
正殿の中には19の部屋があり、そこに各王の位牌がまつってあるとのこと。また 正殿の塀の中には君主に誠実に仕えた臣下たちを奉った功臣殿があります。 私たちのお寺にある位牌堂のようなものです。位牌堂と比べればずいぶん大きくて立派な建造物です。権力の頂点に立つ王様ともなれば一般庶民とは桁外れに違うものです。
上の写真は宋廟です。大きすぎて私のカメラでは入りませんでした。少し高い真中の道は亡くなった王のための道で、正殿つながっています。この後予定していた昌徳宮は休み。見学を延期して免税店などでゆっくりショッピングをしてホテルへ。
夕飯は街でカルビ1.5人前。これがたたり?翌日から下痢が始まりました。
○7日目 4月29日火曜日 雨 昌徳宮→国境近くの統一展望台
昌徳宮(チャンドックン)
昌徳宮は、公的空間である宮闕と王家の居所である宮、そして庭園である後苑に大きく分けられます。昌徳宮は朝鮮時代の宮闕建築の脈を引く唯一の宮で、王たちの休み場として使用された後苑は300年を超える巨木と池、東屋など造園施設が自然と調和を成した所です。
敦化門を通り昌徳宮に入ると、右側に錦川橋があり、その橋を渡ると他の所の正殿とは異なり屋根の棟の花模様が独特な仁政殿がありますが、これは日本が朝鮮王室を一家門に格を下げるために付けたものだと言われています。また昌徳宮の塀と昌慶宮の塀の間のセメント道路を歩いていくと後苑があり、韓国を紹介する写真に最もよく登場する芙蓉亭と宙合楼などが観光名所となっています。土砂降りの雨の中の参観でした。ガイドはここ専属の人。ハンドマイクで話していたが何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。
ここは王様の政治と生活をした場所です。政治面では今風に言えば議事堂があり政治を執行する場所があり。公務員を採用するための試験や面接をする場所、印刷の場所など…。生活面では衣食住とそれを補佐する召使いの住むと所などがあった。
接客の場所、くつろぐエリアとして後苑などがありました。
外観は重厚な造りで立派でしたがそれに比べると内部は随分質素な造りでした。エリアごとに塀を回し、小さな門をくぐって次のエリアに行くようになっていた。結構広い場所、歩く距離が長かった。雨の中、靴に水がしみ込み衣服の一部が濡れ、惨めな参観であった。
南北分断の現場にあるオドウ山統一展望台
ソウルから自由路に沿ってバスで30分あまり行くと、オドウ山統一展望台がある。
韓国と北朝鮮の境界にある川の中心が軍事分界線に なっている。土砂降りの雨の中の参観でした。
統一展望台の前面は川幅が3,2キロ。その右方向は460メートルと一番狭くなっています。
私は当初38度線と言われる場所がこの展望台だと思っていましたが、現在の軍事分界線に変わった後の最先端にあるのが統一展望台でした。ここから北朝鮮の村落や施設が見えるとのこと、期待していた場所ですが、あいにくの雨、北朝鮮は靄(もや)の彼方でした。
この展望台には、北朝鮮の学校の様子や庶民の生活状態、工場で生産されているもの、南北朝鮮の交流の現状などが展示されていました。
夕食は韓定食。韓国版の懐石料理といった感じ。
宮廷料理に伝統的な家庭料理をミックスしたもので、陰陽五行に基づいた五味(塩見、甘味、酸味、辛味、苦味)と五色(赤、緑、黄、白、黒)の調和を大切に考えられているそうです。
旬の韓国の食材をふんだんに用いた数多くの皿がわんさと出てくる。食べ終えてほっとするとチョゴリを着た娘さんがまた持ってくる。
この娘さんはにこりともしない愛嬌何て全くない。これ何かと聞けば何々と答えるだけ。これは私たちのテーブルだけでなく何処もそのようでした。宮廷ぶった仕草なのかな。皿の数に圧倒されたがそれほど美味しいとは感じなかった。
食後韓国の古典舞踊を見た。 ソウル泊
○8日目 4月30日水曜日 曇り 帰国
ソウルを10時過ぎに離陸。成田空港は予定通り12:30着
旅は終わった。6:00PM頃帰宅。例により愛犬クウは尻尾をちぎれるように振り、尿をしびって喜んだ。何時もそう思うのですがやはり家が一番いいですね。
3.エピローグ
韓国は活気がありますね。韓国人には大陸で生きぬいてきた歴史的なバイタリテイが感じられます。添乗員の朱勇さんが紹介してくれたアリランの歌も私たちが歌うのとはちがって力強く歌うようです。光州辺りの露天商のおばさんの会話も何か真剣に喧嘩をしているように見受けられましたが、ガイドによればこれが普通の話し方だというから驚きです。
日本は郊外の大型商店に客足が奪われ街中はゴーストタウン化していますが、韓国の街中は個人営業の商店が軒を並べていました。国際市場の客引きも迫力がありました。ソウルでは建設中のビルディングが目に付きました。ガイドに寄れば車は3人に1台の割合になるそうです。街中は処々車の渋滞でした。郊外からソウルの街中へ車で通勤しているガイドのキムさんは毎朝渋滞に悩まされているそうです。走っている車のほとんどは新型車、パールホワイトの車を多く見かけました。日本語を話す人も多いように思いました。
日本も今までの経済成長の上に胡坐をかいていれば遠からず韓国に追い越されてしまいそうです。構造改革が景気をよくしてくれると思っているとすれば大間違いです。もっと一人一人がバイタリテイのある生き方を求めなければだめです。韓国語を学び中国語を学び近隣の人々と交流を深める努力が肝要と思います。
3人いると気が大きくなります。カラオケ道場へ通っている同行の彼は、バスの中で新曲のカラオケを歌いたいという。どうしたものかと相談を受けた私は、島国根性なんだな開口一番「やめとけよ」でも事情を聞いてみると、昨夜今日のために思い出しながら歌詞をメモって来たという。もしここで歌わなければ後々悔いが残りそうだという。これでは止めきれない、彼は立派に歌いました。彼のように積極的に何かしようとする意欲のある人が今の日本には必要だと思いました。その彼がその夜 風呂の中でいっぱい機嫌で歌謡曲を歌っていました。よく朝気がついてみたら、有料ボディオイル¥1600を頭に塗りつけたとか。みんなに「ここを読んでみろ、有料でボディオイルと書いてあるでしょ!」といわれ彼は青菜に塩でした。人の悪い私は大いに愉快でした。
年のせいもあってガイドの説明が聞き取りにくくて苦労しました。どこかの旅行社のように一人一人に無線で聞けるイアホーンを貸与してくれればもう少し深く理解できたかなと思いました。世界文化遺産を尋ねての旅は内容が豊富でした。もっと勉強をしていけばと終わってから悔いる旅でした。
同行の親切な また 愉快な仲間と学生気分で旅が出来ました。思い出に残る旅でした、ありがとうございました。
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