スペイン・モロッコ他

1998年(平成10年)3月23日〜4月6日

プロローグ
学友高野君からの年賀状に「標題の旅行にぼくは申し込んだがどうですか」と誘いがあった。ためら
 わずにその気になり、この旅が実現した。高野君とはメキシコ・カリブ海・アメリカ、南アフリカ、ロシア・
 北欧に続いての海外旅行になる。
今回はジブラルタル海峡をフェリーで横断したり、アラブのイスラム文化の象徴であるモスクやグラナ
 ダのアルハンブラ宮殿などに期待するものが多かった。

出発
   "旅立ちや クロッカス花に 送られて" 
朝夕は暖房が必要とする頃の出発であるから、厚手の解禁シャッツにカーデーガン、裏付きのジャ
 ンバーにリュックサックを背負って家を出た。
長野新幹線の車内で高野君と合流、今回は、添乗員を除いて37名のパックツアー、添乗員は星さ
 ん。

1日目 3月23日 晴れ      成田空港→マドリッド
モスクワで給油・スペインの首都マドリッドのホテルへ着いたら、現地時間夜の10時過ぎ、疲れてい
 るのになかなか寝付かれなかった。一晩中うとうとと夢を見ていたような気がする。隣の高野君は熟
 睡していた。

モロッコ
2日目 3月24日 火 晴れ    
マドリッド空路→カサブランカ−バス→マラケシュ
昼食の機内食は旨かった。ここだけでなく、イベリア航空の機内食はホテルやレストランのものより、
 私の好みに合うものが多かった。


出穂した麦畑
カサブランカからマラケシュまでは、なだらかな起伏が続く、その大地一面が小麦畑。既に出穂し、南
 へ行くにつれて黄色に色づき始めている。この麦畑の中を、ガードレールが何処にもない貧弱な舗装
 道路が真っ直ぐに延びている。畑他周辺には殆ど人影はなく、それなのに、警察官が所々いるのは
 どうしてだろか。 麦畑の雑草は、赤やピンクの可憐な花を咲かせていて美しい。日本では見かけな
 い光景である。マラケシュの街にさしかかるとナツメヤシが目に付く。レンガ色の建造物にナツメヤシ
 の緑が映えて美しい。店の看板は、あの独特なアラビア文字、横書きのこの文字は右から左へと読
 むものである。マラケシュ
3日目 3月25日 曇り   マラケシュの観光−バス→カサブランカの観光
 マラケシュは、ベルベル人達の築いた王朝の都、『モロッコの縮図』と呼ばれる古都。建物は、レン
 ガ色が多く。王様に関係のある宮殿や墓には緑色や青系の色が多く使われている。繊細な豪華な
 彫刻や模様が施してある。一般庶民は宮廷の豪華な生活を支えるために、貧しい生活と過酷な労働
 を強いられたのであろう。
 メナラ離宮: アトラス山脈の雪解け水を満々とたたえた貯水池の周りを、オリーブの林が取り囲ん
 でいる。その貯水池の向こうに、離宮と呼ばれる小さな建物が見えた。王様が愛人との逢い引きの
 場所とか、なかなかロマンチックである。



 サード王朝の墓 
旧市街のごみごみとした中を通って行った。独特の生活の匂いが立ちこめ、物売りがしつこく何処ま
 でもつきまとう。だが、この廟朝は別世界、一寸した庭園の中に、その庭園を囲むように、円柱の大
 理石の柱で支えられた石造りの建物が建てられている。その中に代々の王様の墓が納められてい
 る。壁や床は青色を基調とした文様で飾られ、静かな佇まいであった。庭の一隅に高さ3bもあるトラ
 ンペットという白い花が咲いていた。日本にもあるそうだが。 



バビア宮殿 
中庭の周りに回廊を巡らし、こざっぱりとした宮殿である。壁や天井は繊細なイスラム独特の模様が
 彫刻されていて見事であった。
  ジャマエル・フナ広場: 蛇使い、水売り、大道芸人、数多くの出店があり、大勢の人々で活気のあ
 る広場であった。私はここでナツメヤシの実の乾物を買って食べてみた。添乗員の星さんの言うよう
 に、丁度串柿のような味で旨かった。大きさはクルミぐらいである。出店の商品はなんといってもオレ
 ンジが多い。オレンジを机の上にピラミッド状に積み上げて売っていた。
モロッコでは、今がオレンジの収穫期であり、ホテルのレストランでもオレンジは十分に食べられた。
 街路樹にもオレンジが植えられていたり、庭先にもあり、オレンジ栽培には適した土地柄のようであ
 る。それにしても暑い、開襟シャツ一枚になったが未だ暑い。クロッカスの世界から来た私には、未だ
 気温への適応が出来ないらしい。高野君は半袖姿であった。
   
   "オレンジや どこもかしこも 街路樹も"

   "やれ暑い ヤシの実食って 汗拭いて"



 クトウビアの塔 
フナ広場で高野君と撮った写真にも写っているが、フナ広場の西にあり、マラケシュのシンボル的存
 在。高さ65b。元はモスクの一部。この塔から一日5回のアッラーの神に祈りを捧げる時を知らせた
 のであろう。ムーア様式の傑作。

 ムーア‐じん【―人】(Moor) ヨーロッパで、マグレブ(北西アフリカ)地方のイスラム教徒の呼称。元来は
 マグレブの原住民(ベルベル)を指し、八世紀にはイベリア半島を征服したイスラム教徒を指すように
 なり、さらに一一世紀以後、北西アフリカのイスラム教徒の呼称となり、一五世紀頃からは漠然とイス
 ラム教徒一般をも指す。 
カサブランカ
 来たときと同じ道をバスでカサブランカへ引き返し、カサブランカの観光 
 カサブランカはモロッコ最大の都市で経済の中心地。イスラムとヨーロッパが共存している近代都
 市。大西洋に面した貿易港でもある。



 ハッサン二世モスク
 ハッサン二世は、現国王。1993年に完成したモロッコを最大級のモスク。高さ200bのミナレット
 (塔)は市内の何処からも見える。屋根は緑色で近代的な美しいモスクである。何処のモスクもそう
 であるが、信者でない者は内部立ち入り禁止である。 社会的な生産に関係のないこの様な建造物
 に、莫大な費用をかけるのはどうかな? イスラム文化を伝承していくのには役立つのかな?それに
 しても宗教の力は、これだけの物を造らせ、また民族を統一し、広大なイベリア半島を侵略したそのエ
 ネルギーは偉大である。でもなぜか割り切れない思いでこのモスクを眺めた。
 宿泊したホテルは、カサブランカの中心地モハメット五世広場の近くにあった。ここはホテル、レスト
 ラン、カフェ、商店街などが集中し、街で最も賑やかなところである。
映画『カサブランカ』で有名なハイアット・リージェンシーホテルもこの直ぐ近くにある。私は行かなかっ
 たが、夕食後この辺りのバーで一杯やった方もいたようであるが、思ったより料金は安かったとのこ
 と。
モロッコは、イスラム圏内にあるから一般庶民は禁酒、ハッカのような感じの香料の効いた植物を浮
 かした甘いお茶を飲みながらくつろぐ習慣である。他の物価に対してビールなどは割高だった。
 ホテルでの夕飯は和久夫妻、大阪から一人参加の広瀬さん、私達を含めて5名、楽しい夕食であっ
 た。女性がいると場が和み、楽しく過ごせるものである。和久夫人はクレオパトラに負けず劣らずの美
 人であったことも、その大きな一因である。なお彼女は、どんな悪路もハイヒールで過ごしたすごーい
 人でもある。
ラバト
4日目 3月26日 木 曇り 
 カサブランカ−バス→ラバト観光→ボリビリアス→フェズ



モハメッド五世霊廟とハッサンの塔 
ラバト: この辺りは北緯34度、日本の下関から福岡県と同じ緯度にある。ラバトはモロッコの首都。
 大西洋に位置するモロッコ第二の都市である。 
 モハメット五世の霊廟: 建国の父と呼ばれるモハメット五世は、フランスから独立を勝ち取った前国
 王。赤と白の鮮やかな軍服に身を包んだ衛兵が、白馬にまたがって廟の入り口を守っている。こぢん
 まりとした清楚な感じの建物の中に、大理石の棺が納められていた。
 ハッサンの塔: 未完成のミナレット。周囲には360本の大理石の柱が林立していたが、これはモ
 スクの跡。モハメット五世の霊廟と同じ敷地内にある。
 


ブー・レグレグ川 
ハッサンの塔の直ぐ下を流れる川。この川の畔で一休み。対岸は、サレ地区。そこへ向かう人々は
 船で、のんびりと渡っていた。1q上流にはハッサン二世橋があるが、荷物を背負って徒歩で行くに
 は、この渡船場が便利なのであろう。久しぶりに見るのどかな風景であった。そんな姿をハッサンの
 塔は静かに見守り続けてきたのであろう。 岸辺には、世の騒々しさに関係なく、小さな草花がひっ
 そりと咲き、精一杯生きているように見える姿が印象的であった。人生 せかせか焦ることはない、
 のんびりと行こうじゃないか。  
  "春草や レグレグ川の 渡船場"
 

ボリビリス



 ボリビリスの遺跡
 一世紀頃のローマ遺跡。 宮殿の石柱はすでに風化しかけ、豪華だったろう風呂場の跡もその形
 容を定かにとどめない状態である。床にタイルのモザイクで書かれた騎士、船、魚釣り、象などの絵
 は保存状態が良く、当時の華やかな宮廷生活が偲ばれた。ギリシャの神殿を思わせるその佇まい
 に、時の流れが空しく感じられた。いわば    "夏草や 兵ものどもが 夢の跡"
 奥の細道の中で松尾芭蕉が、平泉の義経堂の丘で詠んだ俳句が思い出された。まさに国破れて山
 河ありである。
 ここへの道端にミモザの黄色の花が見事であった。二千年前のその当時もこんな花が、40ヘクタ
 ールもあったと言われる宮廷の何処かに咲き誇っていたのであろうか。
   "ミモザ咲く 丘に佇む ローマの宮"

 ボリビリスの街から、小高い丘の続く道路を一路フェズ市へ。途中車輪8本の大型トラックが、カーブ
 でハンドルを誤り、谷へ転落する寸前の事故に遭遇した。この車が道路を塞ぎ1時間のロス。ガード
 レールのない道路は怖い。夕食はバイキング 8時PM   フェズ泊
フェズ
5日目 3月27日 金 曇り    フェズ観光−バス→タンジールへ
フェズは世界最大の迷路と言われる旧市内(メディナ)で知られている。9世紀初めに造られたモロッ
 コ最古の王都。


王宮
王宮見学の後(中へは入れない、外観だけ)現地案内人の先導で、ブー・ジェルド門から旧市内へ入
 った。9世紀に出来たこの街は既に千年の歴史を刻んでいる。車の通れない細い道では、荷物を乗
 せたロバや民族衣装を着た人々が行き交う。細い道路が迷路のように入り組み、現地案内人無しで
 の見学は先ず無理。添乗員からは「はぐれたら動き回らないでその場所にいること、こちらで探すか
 ら」と厳重な注意があったほどである。私達は前の人を見失わないように、足もとのロバ糞を踏まな
 いように、スリやひったくりに注意しながら、周りを観察したり、物売りと交渉したりの観光であった。
やはりここはモロッコ、男達はジュラバという足まであるフード付きマントを着ている。これが何ともユ
 ニーク。ゲゲゲの鬼太郎に出てくるネズミ男の衣装を想像して貰えばいい。ガイドはアラブ系のベルベ
 ル人の混血と思われるおじさん。ジュラバを着たこのおじさんは何処まで信用していいのか分からな
 いネズミ男。頭の上で手を振りながら、ジュラバを翻して案内していく。このガイドの連れ込んだ店は
 何処も高かった。
ここは、大きなモスク、神学校、廟朝などの名所旧跡、立派な土産物店や露天、銭湯、レストランなど
 ありとあらゆる物が混在している不思議な街である。ガイドの連れ込んだ、大きな土産物店で1枚1
 千2百円していた飾り皿が、店を出たところで物売りの少年が5枚で2千円というから購入した。高野
 君は2枚で1千円。中には4枚1千円で買った人もいたとか。物価の値段はあってないようなもの、値
 段は交渉次第の所である。
 歩いていると場所によって匂いが刻々と変わってくる。香料のいい匂いがしたかと思えば、ほやほや
 のロバ糞の匂いがしたりである。、耐えきれなかったのは、なめし革工場周辺の匂いである。タンパ
 ク質の腐敗した匂いと、その発生源であるどろどろした液体が道路まで、にじみ出ている。その液体
 の上を、つま先立ちで、何回か「ゲェ ゲェッ」と吐き気をもよおしながら歩いた。



ダンサー
昼食は、この街の一角にあるレストランで、モロッコ名物のクスクスとシシカバを食べた後、ベリーダ
 ンスの観賞をした。言い換えれば、ルウ無しのカレーライスに串刺しの焼き肉を食べ、尻振りダンス
 見たということになる。ダンサーは尻と胸の良く発達した、出っ歯のおばさんだった。汗をかきかき、愛
 嬌を振りまきながら一所懸命に踊ってくれた。腕時計をしていたのはいただけなかった。

 この後、バスでジブラルタル海峡に面した港町、タンジールへ移動。タンジールのソラズールホテル
 泊。ここもそうだったが、モロッコのホテルは、入国カード並以上の宿泊カードがあり、事細かに記入
 するようになっていた。ややっこしい国である。
スペイン
6日目 3月28日 土 曇り
タンジル→フェリーでジブラルタル海峡→アルヘシラス→バスで太陽海岸→ミハス観光→グラナダ

 起床5時。モーニングコールを聞き落とし、ドアをノックされ、どきんとして跳ね起きた。それもそのは
 ず、出国カード未記入に気づき、夜中に二人で記入したりしたのだから。



後部甲板からタンジルの町を望む
海は鉛色、海峡に集まった風は船の進行方向であるイベリア半島からの強風。このため到着予定時
 間を30分もオーバーした。
期待したジブラルタル海峡であるから、高野君と寒さに震えながら船尾のデッキで頑張った。白い航
 跡を一直線に引きずりながら、アフリカ大陸は水平線の彼方に消えていった。 「ここがジブラルタル
 海峡なんだ!」私はジブラルタルの冷気を思い切り吸い込み、静かに静かに吐き出した。
 スペインの南端アフリカ大陸玄関口、アルヘシラス市へ予定時刻より30分遅れで上陸。看板にアラ
 ビア文字が混ざり、抱えきれないほどの荷物を持ったアラブ人が行き交う。スペインでアラブ支配が一
 番長く続いた地であることがうかがえる。対岸うっすらとスペイン領内にぽつんとある英領ジブラルタ
 ルが望めた。
白い家、白い砂浜の続くリゾート地域コスタ・デル・ソル(太陽海岸)を車窓右側に眺めながら、ミハス
 へ。
 ミハス

ミハスの街並み
ミハス: コスタ・デル・ソルの一角にある小さな美しい山村。村の観光地図を片手に自由行動。白い
 家、狭い路地、美しく咲き乱れている花々、ロバタクシー(観光馬車)、小さな教会と四角な闘牛場
 等々。狭くても整った観光の街である。

 私はここでタバコを日本語で買った。タバコを買うくらいのスペイン語は調べていったが、いざその
 場になると出てこない。スペインでは英語は通じないと案内書に書かれていたので、ならば日本語で
 とやってみた。幸いタバコはスペイン語である。後日ガイドブックで調べたら、ミハスは観光客が多い
 から英語も多少は通じると書かれていた。でも、目的とする銘柄を買い、お釣りも間違いなく貰えた。
 勿論手つき手真似を含めて。お釣りの渡し方は、日本とは反対に小さいお金からだんだんに並べて
 いく。中にはコインを貰っただけで、札のお釣りを受け取らないで行く日本人もいるそうである。
 旅行中の写真を見ると、私は何時もカメラに正対し、あほ面して写っている。同行の上品なおばちゃ
 んが撮ってくれと言うから、カメラを向けると、カメラに30度の向きで横顔が写るようにポーズをとっ
 た。「なーるほど、俺も今度はそうしよう!」これもミハスで学んだこと。
                         グラナダ市 フェネラリフェ ホテル泊

グラナダ
7日目 3月29日 日 雨        
グラナダの観光−バス→コルドバ市
グラナダ:アルハンブラ宮殿があるグラナダの地は、約800年間イベリア半島を支配していたイスラム
 教徒の最後の砦であった。.......が.....1492年イスラム支配に終止符が打たれ、新しいス
 ペインとポルトガルが誕生していくのである。


アルハンブラ宮殿の城壁



アルハンブラ宮殿主要部の全景
アルハンブラ宮殿: 学友小林文治君がここはよかったと言った宮殿である。コルドバの街はアンダ
 ルシア(スペイン南部の区分地域)特有の白い家並みであるが、ここだけはレンガ色の石づくりであ
 る。
アルハンブラが、赤い城を意味したのは、城郭に使われたい石壁が、大量の赤鉄鉱を含んでいたた
 めに石壁が赤色であったからである。12−14世紀にかけての建造物。王宮、カルロス五世宮殿(ス
 ペインの王が後日建て増しをして使った建造物)、アルカサバ(塔)、フェネラリフェ庭園、(離宮)の4
 つの部分からなる。


水面に影を宿すカルロセ五世の宮殿



ハーレム
アラビア文化の粋を集めて造った宮殿は雨の中、寂とし。日本より持ってきたと言われる柿木、藤の
 花ボタンなどもあり親しみが持てた。藤の花は今が見頃紫の花が一際参観者の目を引く。中庭の水
 面に影を落とした宮殿は、、後日写真で見ると、どちらが本物か判断に迷う。離宮庭園の噴水のアー
 チをくぐって離宮を参観した。こぢんまりとした建造物であった。
ライオンの噴水のある中庭を囲むハーレムは、王以外の男性は立入禁止、羨ましい、勿論私は王に
 はなれなかっただろうが、だろうに可能性を残しておきましょう。でもハーレムに囲われた妃の心境
 はどうだったのだろうか。
    "春雨に ハーレムの妃 藤の花"

 この後バスとの連絡不十分で、道端で1時間も待たされ、陶器と革細工店で、ショッピングのつき合
 いをさせられ、コルドバのホテルへ。全く時間の無駄。これまでの時間があればカテドラル(地域の教
 会を統括するカトリック教会)も見学できたのに。これは安いパック旅行の通癖である。


コルドバ
8日目 3月30日 月 晴れ
コルドバ市内観光−バス−→セビリア市内観光 ...夕食後 フラメンコ観賞
起床7時 就寝はフラメンコを観て0時。疲れた一日であった。
 コルドバ市: 西のイスラム教主(カリフ)の宮廷所在地として10〜13世紀には文化・科学・芸術の
 中心地として繁栄した古都。当時メスキータ(回教寺院)をはじめ300ものモスクがあったとか。日本
 でいえば奈良市か京都という所か、ここには遠くローマ時代の遺跡も残る。メスキータの直ぐ脇にあ
 るホテルから徒歩で見て回った。


メスキータ内部
 メスキータ: イスラム教王国の総本山であるからその規模の大きさには圧倒される。785年に着
 工し四代の王様が200年余りかけて建て増しをしていった物である。内部は真っ暗だった。やがて暗
 闇に目がならされ、無数の円柱の森が目の前に広がる。この円柱のアーチは約850本にも及ぶ。縞
 瑪瑙、大理石、花崗岩で造られ、赤い縞模様が印象的であった。日本の奈良時代末期から平安時
 代初期の頃に、これだけの建造物を造った、イスラム文化の水準の高さは驚きである。 

旧ユダヤ人街: 石畳の細い道をぶらぶら歩いた。白壁、その壁に古風な四角な街灯があったり、ま
 た 生け花が飾られたりしていた。

マイモニデスの像
中央の小さな広場に、ユダヤ人思想家マイモニデスの像があった。1492年にカトリック両王に追放
 されるまで、ヘブライの寺院があり団結のよりどころとなっていた場所である。 



ローマ橋で、その向こうにメスキータがある。
ローマ橋:グアルダキビール川に架かるローマ時代に造られた橋である二千年もの歴史を川の流れ
 に写してきた橋はアーチ型の橋桁に支えられ全長250b。高野君と自由時間の中で渡ってみた。バ
 スも通られる立派な橋である。ドイツ人と思われる上品な老夫妻にシャッターを押して貰った。


セビリア
 セビリア: アンダルシア最大の都市。参観のメインはカテドラルとヒルダの塔、それからフラメンコで
 ある。



 写真はスペイン
 スペイン広場: 世界博覧会用に造られた広場、周りはアラブ形式の華麗な建物。孫用のテーシャ
 ッツ2枚を英語で購入、何とか通じた。 
 ピラトスの家: 16〜17世紀にかけて造られた個人の家(昔の族)優雅で贅沢な邸宅だった。公開
 は半分だけ他は個人の住宅になっている。中庭の四隅に飾られていた、ギリシャ神話やローマ神話
 に出てくる神々の白い立像が印象的であった。



 カテドラル(大寺院)
カテドラル(大寺院): もとイスラム教寺院の跡地に、15世紀初めから百年余りかけて造ったのがこ
 の大寺院だ。幅116b奥行き76bの四方形で、ゴシック様式のこの大寺院は当時ヨーロッパで3番
 目の大きさであった。内部は壁づたいに礼拝堂がたくさん並んでいる。またその壁には、有名な画家
 や彫刻家の作品で飾られていた。さながら美術館の中を歩いているようであった。印象的であったの
 はコロンブスの墓である。棺を四人の騎士の像が担いでいた。



 ヒルダの塔 
 ヒルダの塔:セビリアのシンボル。12世紀の末、ここが未だメスキータであった頃イスラム教徒によ
 って建てられたミナレットである。高さ98b。カテドラルと同じ敷地内にある。これだけの物を造り出す
 宗教の力は偉大である。またゴシック建築は豪華でありそして美しい。

 ゴシック‐しき【―式】ロマネスクに続く中世西ヨーロッパの美術様式。一二世紀中頃北フランスに興
 り、各国に伝わってルネサンスまで続く。建築が主要な様式で、天井は肋骨で補強し、壁は先のとが
 ったアーチと組み合せた柱で支える。建物は高く、窓も大きくとる。寺院建築に多く、シャルトル・ラン
 ス・アミアン・パリのノートル‐ダム大聖堂などが著名。ルネサンスに近づくに従って、彫刻・絵画は写
 実的になり、やがて建築から独立する傾向をもつ



フラメンコの観賞
ホテルで夕食後、バスで夜の街をフラメンコの観賞に出かけた。ビールを飲みながら観た。隣は仙台
 から姉妹で参加した美人のS子さん年格好は23〜4歳ぐらいでしょう。Sこさんのお酌で、小声で彼
 女と何かと話し合いながらの観賞であった。フラメンコは女性の踊り子と思っていたが、踊り子は女性
 6人男性3人であった。入れ替わり立ち替わり、11時30分までの2時間半飽きることのないショウで
 あった。踊り子の好みも人それぞれ違うもので、肉体派の子がいいという人もいたが、私は品のよい
 子に惹かれた。S子さんは草刈正雄によく似た踊り子が好きだという。女性とすれば標準的な好みで
 ある。
ホテルへ着いたら0時疲れました。
                     セビリア泊
ポルトガル
9日目 3月31日 火 晴れ 雨がぱらついたりした     セビリア−バス→リスボン
セビリアからバスで国境を越え、ポルトガルの首都リスボンまで、田園風景を眺めながらのドライブ。
途中国境近くのレストランで昼食。ワインと水つき、子牛の煮込みがメイン。街の名前はバタホス。
ローマ時代の遺跡水道橋がありバスから降りて写真を撮ったり、しばし休憩をした。ローマはこの辺り
 まっでも進出していたのである。
ポルトガルは、入国カード不要、何のチェックもなく素通り、こんなことは初めての経験である。ポルト
 ガルへ入ったドライブインで、コーヒーを飲んだ。80ペタセ、日本円で約70円ぐらいいてあった。濃厚
 で、こくのある美味しいコーヒーだった。
リスボン
6時30分PM リスボンの街並みを、陽光が明るく照らしている。オレンジ色の屋根に白い壁の民家
 が美しい。空気はさわやか、大西洋の波は高かった。
 夕食は、街へ出てファドを聴きながら。.........哀愁を帯びた歌声はじーんと胸にしみ、言葉
 は分からなくとも、若かりし日のことなどが思い出され、胸の熱くなる思いであった。 リスボン泊

                     
10日目 4月1日 水 雨後晴れ       
リスボンとシントラの観光−空路→マドリッド
ポルトガルは、1143年建国。16世紀までに植民地帝国に発展したが、19世紀になるとナポレオン
 の侵入を受け、またブラジルの独立などで国力は衰退、1910年には王政は廃止され現在は共和
 国。
 リスボン:ポルトガルの首都、古代はローマ領。テージョ川河口の河岸段丘に東西に伸びる街。先
 ずこのテージョ川河畔のベレンの塔と発見記念碑の見学をした。時折小雨のぱらつく中、カメラのレン
 ズを気にしながら
 

ベレンの塔
ベレンの塔は、下部は船、上部は城をモチーフにした建物で、テージョ川の貴婦人と呼ばれる美しい
 建物と言われている。私はそれ程美しいとは感じなかった。観るだけの教養はないのか、それともお
 天気のせいか?
  


発見記念碑
発見記念碑は、ジェロニモス修道院の向かい側にあり、巨大な帆船をかたどった高さ53bのモニュメ
 ントである。そのわきにエリケン王子をはじめマゼラン、フランシスコ・ザビエルなどの海外雄飛に関わ
 った人物が彫り込まれている。黒雲のたれ込めた天気だったので、何か彼方の海へ向かって今にも
 船出をするような勇壮な感じがした。その向こうに全長2,278b、テ−ジョ川に架かるヨーロッパ最
 長の『4月25日橋』が見えた。4月25日はポルトガルの改革記念日。
この後シントラの王宮を見学した。



シントラの王宮
 シントラ: リスボンからバスでシントラへ、緑豊かな落ち着いた街だ。こぢんまりとした街をを抜ける
 と林の間にとんがり帽子を二つ並んだ王宮が見えてくる。まるでおとぎの国の城のように可愛い。
 1910年の共和制宣言まで王宮の夏の離宮として使われていた。外観の異様な煙突も圧巻だが、
 内部も豪華な装飾が施されていて、見応えは十分。特に庭園は手入れが行き届いていて見事であ
 った。規模の小さいベルサイユ宮殿の感じがした。

 シントラの見学後再度リスボンに戻った。空港へ行く前の一時、自由時間があり、高野君とリスボン
 の街をぶらついた。
 バイシャ地区の商店街にある歩行者天国アウグス通りを通って、コメルシオ広場まで行ってみた。
 この辺りは1775年の地震後復興した新市街であるから、碁盤の目のように規則正しく道路は交差
 していた。歩行者天国の道路を普通道路が何本か横切っているので、あほ面して歩いてはいられな
 い。歩行者天国−普通道路−歩行者天国の繰り返しである。ここで残ったわずかのポルトガル$を
 使い切った。


コメルシオ広場(写真)は、ガイシャ地区を抜けたところにあり、テージョ川に面した広場である。かつ
 てヌマエリ一世の壮麗な宮殿のあったところでもある。広場の中央には1775年の大地震当時の
 王、ジョゼー一世の騎馬像が建っていた。
スペイン


空路マドリッドへ。
夕食はマドリッド市内のレストランで、スペアリブのバーベキュウ。スペアリブは骨が多く食べるところ
 の少ない物であった。夕食後ツナと呼ばれる歌と演奏を聴いたが、私の好みに合うものではなかっ
 た。夜のマドリッドを、バスの車窓から眺めながらホテルへ。         マドリッド泊
トレド
11日目 4月2日 木 曇り   
マドリッド−バス→トレドの観光→マドリッドの観光
 トレド: トレドはマドリッドから70q南、タホ川が巡る丘陵地に広がる、石造りの中世の街。かつて
 のスペインの首都。ここでは大寺院、サント・トメ教会、グレコの家の参観をした。



 大寺院(カテドラル)写真: 1227年から約200余年かけて造ったスペインカトリックの総本山とも
 言うべき大寺院である。教会は見飽きるほど観てきているが、主礼拝堂の、木彫りで、キリストの生
 涯の場面20余りを彫刻で表現したものがあり素晴らしいと思いました。また 彫刻の群像やイサベ女
 王の王冠などもあり観るべきものは多かった。


モサラベの塔
 サントトメ教会: ここは塔と絵だ。ムデハル様式のモサラベの塔が見事であった。細い路地の隙間
 から全容をようやっと撮ることが出来た。 
 ムデハル様式とは、イスラム建築がキリスト芸術の影響を受けたスタイルである。教会内部にはエ
 ル・グレコの傑作『オルガス泊の埋葬』の絵がありじっくりと観た。この後石畳の細い道を通ってタホ
 川に架かるサンマルティン橋を渡り、対岸からトレドの街を眺めた。街を巡る城壁、大寺院、一際高く
 聳えるサントトメ教会のモサラベ塔などが美しく望めた。
マドリッド
  バスでマドリッドへ。
 マドリッド: スペインの首都。半日観光であるから、味わうことは少なく、見て回ったということにな
 る。美術館を二つ観て、スペイン広場でサンチョパンサを従えたドンキホーテの騎馬像を観て、後は
 バスの中からガイドの説明を聞きながら見て回った。私には印象の弱いマドリッドであった。



裸のハマ
 プラド美術館: 世界有数の美術館。ここでは、ゴヤの『裸のハマ』と、『カルロセ4世の家族』をじっく
 りと観た。あらかじめ美術全集でゴヤの絵について調べていったのが役立った。 王立レイナ・ソフイ
 ヤ美術館: プラド美術館と人気を二分している美術館とのこと。私には見方の分からないものが多
 かったように思う。印象に残っているのは、ピカソの代表作品の一つゲルニカぐらいのものである。や
 はり基礎的な教養と素質がないので、絵を見ても震えるような感動に浸れない私だった。ガイドの説
 明が聞き取りにくかったことも一因である。
 昼食はマドリッドの『ドンゾコ』という和食レストランで日本食。刺身に漬け物、味噌汁が旨かった。
 大変疲れた一日であった。川瀬さんから頂いた風邪薬を飲み、腰にトクホンを張った。マドリッド泊

12日目 4月3日 金 晴れ   マドリッド−空港→バルセロナ...観光..泊
モーニングコール5時30分、朝食の弁当を持ってホテル発6時45分。
 空港へ着いたが未だ薄暗い、夏時間のためだろうか。ポーターは朝早いので駄目、各自で自分の
 スーツケースを運んだ。バスから全部のスーツケースを降ろしたのに、高野君のスーツケースがな
 い。さては薄暗いこのゴタゴタに紛れて、置き引きにあったかと私も彼も思った。.......バスはも
 う帰ってしまったし、どうしたものかと思ったが、ガイドが運転手に携帯電話で連絡を取ってくれ
 た....ありました。バスの中に、暗くて見落としたとのこと。人騒がせな運転手である。高野君はこ
 のため一躍名前を売ることが出来ました。これは後の話し、その時は、彼に次いで私もショックでし
 た。
 フライト時間1時間でバルセロナに着いた。天気はいいし、スーツケースはあったし、名前も売れた
 し?明るい気分で観光が出来た。

バルセロナ 


 グエル公園から観光、聖家族教会(写真)、モンジェイックの丘、オリンピックスタジアムを観てその
 後バスでカルターニヤ広場やランブランス通りを眺め、3時頃ホテルへ着いた。朝早くから、あっちこち
 と歩き回ったので結構疲れた。 明日は一日自由行動になっている。オプションもあるが、折角の。バ
 ルセロナだから地下鉄を使ってあちらこちらと見て回ることにした。その為の研究に若干の時間を費
 やした。
 13日目 4月4日 土 晴れ    
  バルセロナ市内見学.....自由行動..メトロで必要なスペイン語は書き出した。例えば「トイレ
 は何処ですか?」「幾らですか?」「回数券をください」「お願いします」「これをください」「そこへ行くに
 はどう行けばいいですか」...等。これと市内地図を持って出かけた。地下鉄の駅は、ホテルから徒
 歩5分程の所にあった。「回数券をください」と言ったら駅員は両手を開いて10の手つきをし次に2本
 の指を出した。意味は分からなかったが「はい(shシー)」と言うとカードを1枚くれた。後で分かったこ
 とだが二人用の10回券(1枚のカード)であった。フランスのパリでは十枚綴りの切符をくれたのでこ
 れは予想外であった。使い方は検察機にこのカードを2回通すと右側にある通路が2回開いて二人
 が通過できるようになっていた。初めは駄目、駅員が慌てて出てきて教えてくれた。1回券で乗り替
 え自由何処まで行ってもいいことになっている。この回数券が¥700弱だから1回券は¥70というこ
 とになる、安いものである。
 最初の目的地はランブランス通り、カルターニヤ広場で地下鉄を降りた。この広場は道路が4本交
 差していてどちらへ行けばいいのか分からなかった。国内旅行を車でするときは私がドライバー、ナ
 ビゲーターは高野君の役目、ここでもそんな役目に自ずとなってしまう。保育園の先生らしきご婦人
 に高野君が英語で聞いたら、英語で丁寧に教えてくれた。
 ランブランス通りは、両側が車の通る道、その間が歩行者天国になっている。花屋、小鳥屋、雑貨
 屋、バブ、大道芸人など様々である。人通りも多くお祭りのようであった。
 サンホセ市場:歩行者天国の通りから一寸入ったところにあり、バルセロナの胃袋とも言われる大
 きな市場である。豚や羊の頭の並んでいる精肉店では、カルチャーショックを感じる。美的に並べら
 れた野菜や果物、そして見るからに新鮮な魚介類の中には、日本では見かけない珍しいものも多
 い。ここでイチゴを買った。完熟の大粒のもので、二人では食べきれないほどの量が約¥350くらい
 であった。
 バブで一休み: 歩行者天国の通りに、テラス風にして、くつろげるようになっている店があった。こ
 こでコーヒーを飲んだりして一休み。店の親父は人懐こい人で、高野君の求めに応じて、にこやかに
 私と一緒にカメラに納まってくれた。
 買い物: 高野君は例によってバルセロナの解説書を、私は、たばこを購入した。両者とも今度はス
 ペイン語で。


コロンブスの塔
 コロンブスの塔:ランブランス通りは、バルセロナ港に面した、平和公園で終わっている。この平和
 公園に、コロンブスの像が高さ50bの塔の上に立っていた。コロンブスは新大陸を望む港の方向に
向いていた。 
次の目的地は、ピカソ美術館とその周辺の中世の街並みである。今来たランブラス通りを100b程
 戻って地下鉄に乗り、途中二回乗り替えてピカソ美術館の近くで下車。ここも道路が何本か交差して
 おり、何処へ行ったらいいのか分からない。また 高野君が中年の紳士に尋ねたが、地図を見ながら
 丁寧に教えてくれた。 ピカソ美術館の周辺は人の波、女子大生が多かった。ピカソともなれば、これ
 ほど人気があるのかな。 
 中世の街並み保存地域は、城門の扉を思わせる鋲打ちの分厚いものが磨き上げられ、当時のまま
 の状態で保存されていた。また 狭い通りの左右の建造物は古めかしい石造り。中世の頃は、こうだ
 ったのかなの感じがした。但し 内部は、現代風のこざっぱりとした商店になっていた。 
 最終目的地は、地中海に面した日本食レストラン『写楽』での昼食である。今来た道を引き返して地
 下鉄に乗った。この頃になると地下鉄にも慣れ、二人別々に、空いたシートにゆったりと腰を下ろし、
 『後幾つ目の駅で降りればいいんだな』等思いながらぼーっとして過ごした。これが心の隙、トラブル
 に巻き込まれる羽目になったのではある。

 トラブル: 目的の駅で私が先に降りSALIDA(出口)への矢印に添って歩いて行った。高野君は私
 の後から少し離れて来たようである。二人がやっと横並び出来るほどの狭いエスカレーターが後4〜
 5段で終わる頃、「ワー!」と言うような声がしたと思ったら、前の若者がいきなり私に倒れかかって
 きた。何が起こったのか分からない、手すりに必死になってしがみついた。ずるずると滑り、摩擦熱で
 手の皮が痛い。「やられた!」と直感的に感じた。カメラと背広の内ポケットの財布を右手でガードし、
 前の奴の隙間をかいくぐって、出口へ向かって逃げた。振り返ると若者は追ってこないのでほっとし
 た。ほっとしたが、高野君の姿が見えないので慌ててエスカレーターの方へ引き返した。高野君が走
 って来た。
 一方高野君は、急に前の若者が倒れかかってきて また 後ろからも押された。後ろの若者がリュ
 ックサックの肩掛けに手をかけて盗ろうとしたので「何をするか!」とか、何か大声を出して、肘でその
 奴を突いた。相手が一瞬ひるんだ空きに、逃げてきたとのこと...桑原桑原。
 結局ぼーっとしていた二人は、奴らにすればいい鴨だったわけ。20歳くらいの若者が地下鉄のエス
 カレーターを利用して、高野君と私をサンドイッチにして強奪しようとしたのである。その状況はエスカ
 レーター....若者2人−私−若者2人−高野君−若者3人....エスカレーター。その他には、人
 影はなかった。
 そんな話をしながら、高野君のリュックを見てまた驚いた。リュックのチャックがみな開けられている
 ではないか。盗られたものは、リュックの中からは、私のカメラカバー(高野君のリックに入れて貰っ
 た)、高野君のバロセロナ通りで購入した本と持参した扇子だけだった。私の背広の外ポケットへ入
 れておいたバロセロナの地図も盗られていた。小難ですみ二人ともほっとした。
 日本食レストラン写楽:4〜5人に聞いて、迷いに迷い最後は警察官に聞いてやっと辿り着いた。ヨ
 ットハーバーの海辺にある小さなレストランであった。ガイドブックに、ここの日本人経営のレストラン
 が紹介されていたので来てみたが、思ったより小さなレストランであり、また この地域では名の通っ
 ていないレストランであった。でもよく尋ね当てたものです。ここで久しぶりに寿司を食べたが旨かっ
 た。
 ヨットハーバーは70〜100艇ぐらいのヨットで埋まっていた。食後このヨットハーバー周辺の海辺を
 散策した。また海辺に腰を下ろして、地中海の青い海を眺めた。
 これで予定したものは全て終了した。予定外のものはエスカレーターでのトラブルである。帰りは、
 反省を生かし、周囲に気をつけながらメトロを乗り継いで、無事にホテルへ着いた。 3時30分。
                                    バルセロナ泊
帰国
14・15日目 4月5・6日     
バルセロナからマドリッド、モスクワ経由で成田へ
 帰国の途: 起床5時 ホテル出発6時15分。マドリッド空港で嫌になるほど待たされたが、囲碁を
 して過ごした。モスクワでも待たされ、モスクワから成田まで8時間余りの旅。 
 機内で囲碁を何番かやり、うとうとしながら過ごす。足は例によりむくみ、トイレに行くときに履く靴は
 きつかった。成田は6日の11時着。帰宅は4時30分頃であった。 
 デンマーク在住の理恵と開も同じ日に一足早く帰国・帰宅していた。高野君とのモロッコ・ポルトガ
 ル・スペインの15日間の旅は終わった。
 夕方孫3人を連れ立って、近くの農道を散歩した。
   "旅終えて、アサツキに味噌 熱燗で"

   
エピローグ
今回の旅の印象はとても一言では言い表せないほど、バラエティに富んだものであった。
 モロッコ:黄色に色づき始めた麦畑、麦畑の赤い草花、オレンジ、ナツメヤシ、オリーブの木、繊細な
 文様で飾ったモスクや宮殿などの王朝文化とそれを支えた民衆、旧市内の匂い、ジュバラを着て逞し
 く生きる人々、ジブラルタル海峡の朝風.........等々.....。
 ポルトガル: 出入国カードもいらない国、胸にじーんと浸みるファドの歌声など。
 スペイン: ミハスの小さな美しい街、アルハンブラ宮殿の哀愁、メスキーター(大回教寺院)、セビリ
 ヤでのフラメンコ、トレドの中世の雰囲気、マドリッドの美術館、バルセロナの自由行動  等々。 
でもやはり、バルセロナの自由行動が一番印象深かったような感じがするな。
 持病の腰痛と風邪に悩まされたこともあったが、川瀬さんから頂いた薬で大事にいたらず元気で旅
 が出来ました。その他皆さんから親切にしていただいた数々、人情を感じさせられる旅でありました。
 高野君をはじめお世話になった皆さん方に感謝しながら。


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