中国の旅
北京、西安、桂林、上海
2002年(平成14年)6月28日〜7月4日
プロローグ
中国は近くなので歳をしたら行こうと思っていた。その時期が来たようである。初めての
中国となれば万里の長城とか長安の都であった西安やそこにある兵馬俑などを見たいと
願っていた。
今年の5月、アラスカクルーズの中で高野君にそのような話をしたが、帰国後まもなく高
野君から私の願い通りのツワーの紹介があった。早速中曾根君を誘って今回の旅が実
現した。北京は雨、霧雨にけぶる万里の長城だった。...が、他は雨季の中国とすれば
まあまあの天候であった。
中国は56民族が共生する多民族国家、国土は日本の26倍・960万平方キロメートル、人
口は13億人、つまり世界の人口の実に5人に一人が中国人ということになる。期待の大き
い旅であった。
北京
1日目 6月28日 晴れ 出発
成田発14:55→北京着17:35 時差−1時間。フライト時間は3:40 。 朝家を出
て、まだ陽のある中に北京へ着いてしまうのだから、国内旅行の感覚で中国旅行は出来
るように思います。 北京は雨季、霧に霞む北京市内でした。濃い緑に白を混ぜたような
街路樹は印象的でした。ホテルへ行く前に市内のレストランで夕食。ビール大瓶1本10
元。日本円で¥140 安いものです。二人 で2本をやっと空けた。ホテルはなかなかい
い、4つ星級かな。ここだけでなくこの旅は何処のホテルも今までの旅の中では最高級の
ものであった。添乗員の話だとホテルには重点をおいて企画したと話していた。
北京 シャングリラ・ホテル泊
2日目 6月29日土曜日 雨 北京市内観光
終日霧と小雨の北京観光であった。 北京の概説 北京は中華人民共和国の首都で中
国の政治、文化の中心である。市の面積は16,808km2で人口 は1,100万を超える。三面を
山に囲まれ、山地が総面積の62%占めている。東南部は開けた平地である。北京の歴
史は長く市区の南西50キロにある周口店では既に北京原人が生活していた。周代 (紀元
前3000年頃)になると、北京は「薊」と名付けて城が築かれて国としての形が出来上がっ
た。戦国時代になると当時の強国の一つであった「燕」の都となり、発展を遂げることにな
った。 その後、時代(618〜884)には「幽州」と呼ばれ、遼代には遊牧民族国家の副首都
であった。 金代(1115〜1234)の中期になると城壁が築かれ、「中都」と呼ばれた。1368
年、明の太祖朱元彰は「南京」を都に し、「大都」を「北平」と改称したが、第三代永楽帝が
再び北京へ遷都し、「北京」という名称にした。 以後、一時的な名称の変更や遷都はあ
ったが約600年に渡り北京は中国の首都として君臨して続 けてきた。

故宮
天安門とその広場を通って故宮へ出た。故宮は門を潜れば広場と宮殿があり、また門を
潜って広場と宮殿の繰り返しである。よくもこんな広い宮殿を造ったものである。テレビの
映像でおなじみの場所であるが、現場に立つとその規模の大きさに驚嘆した。カメラを動
画にして全体像を収録した。故宮から出口の所でガイドは抜け目なく掛け軸など売ってい
る店へ連れ込んだ。何も買わなかったが目の保養になった。

天安門をバックにして
北京と言えば、まず思い浮かぶのが天安門黄金色の瑠璃瓦、ベンガラ色の城壁、白い
大理石の欄干が印象的な城門は、北京の象徴でもある。中央門上部には初代主席毛沢
東の像が掲げられ、楼閣の上部には国章が飾られている。 天安門は1417年(明の永楽
15年)に建てられ、承天門と名付けられた。その後、明末期に焼失し、清時代に改築の
際、現在のように拡大され、その名も天安門と改称され、現在に至っている。

万里の長城 八達嶺
世界最大の建造物として有名な万里の長城は、東は渤海湾に臨む山海関から、西は甘
粛省の嘉峪関まで全長約6350km。中国の距離の単位「里」(1里=0.5km)にすると、1万里
を超えるので、 万里の長城と呼ばれているのである。 そもそも万里の長城は、紀元前数
世紀ころの中国各地に分立していた国々が、北方の騎馬民族や他国の侵入に対し造っ
た防壁を、中国を統一した秦の始皇帝がつなぎ合わせたものである。14世紀にモンゴル
の元を北方へ追い払った明は、モンゴルの再侵入を恐れ、長城の拡張強化に務めた。 6
世紀に創建された八達嶺も明代には大改築が行われ、帝都を守る北の関所となった。八
達という名は「四通八達」という交通の要所を物語っている。
雨はほぼ上がり霧の中の参観であった。急坂を写真を撮ったりしながら見張り台を2カ所
越えて中曾根君と歩いた。滑り台ほどの角度のある急坂もあり這うような姿勢で上った。
若かかりし頃歌ったデカンショ節の一節を小声でぶつぶつ歌ってみた。
"万里の長城でションベンすればヨイヨイ ゴビの砂漠に虹が立つ ヨーイヨーイデカンショ
それデッカンショ" それをちょっともじって"万里の長城でションベンすればヨイヨイ
霧の彼方へ消えていく......"
今日はそんな感じの長城であった。天気が良ければと残念だった。けれど「かんかん照り
なら暑くてとてもこれほど歩けなかったね」と中曾根君と話し合った。
市内へ戻って首都博物館(孔子廟)を参観した。

首キ博物館(孔子廟とも言う )
常時の展示は『北京簡史陳列』。収蔵文物は数万点にのぼり、特に貴重なものは、殷
(商)代の金臂釧、伯矩鬲、宋代刻の王献之の『洛神賦』十三行の青玉版など数百点であ
る。また、周口店北京原人の灰燼焼土標本、三期「雪山文化層」出土の紅陶双月罐、そ
の他最近の出土文物などもある。 儒教開祖孔子廟として元の時代(1302年)に建立、明・
清時代に改修を経て乾隆2年(1737年)から皇帝専用の黄色い瑠璃瓦に葺替え、毎年春
秋2回孔子を祭る行事が行われた。触奸柏は明代の悪宰相、厳崇の官帽を風も無いのに
柏枝が払い落として以降、忠臣か奸臣か見分ける樹といわれている。

大成殿
大成殿内部には孔子の弟子72名の像が安置されている。硯水湖は硯の水を酌む井戸で
あるが、この水を飲むと文章が上達するといわれ、科挙受験の折り参拝して井戸水を飲
んだそうである。進士題名には元の時代から清代まで5万人以上の科挙合格者名が刻ま
れている。大成門内には乾隆石碑があり、儒教経典が刻まれている。気のよさそうなガイ
ドが熱心に解説してくれた。何しろ今日は朝から1万歩ほども歩いているので、この辺りま
で来るとさすがに疲れが出てきた。

写真はダックス料理店での一こま
夕食は市内のレストランで北京名物のダック料理。これは食べ方があるようで同行のこの
道の先輩から教えて貰って食べた。でもそんなことをしなくても自分流に食べればいいと
思いながら食べた血糖値を気にしながら食べた。美味かった。

王府井の出店
夕食後 夜の王府井の出店を散策した。ずらっと並んだ出店には串刺しの焼き肉など
直ぐ食べられるものがずらっと並んでいる。辺りは焼き肉の脂ぎった匂いが立ちこめ、裸
電球の明かりが煌煌と輝いている。焼き肉をかじりながら、ホットドッグをかじりながらの
人々と肩を擦れ合わせながら歩いた。エネルギッシュな人々の群像である。 ここもそうだ
が、中国全体が車道を横断するには車の合間を縫ってするようになっている。ここは特に
夜であったから、怖かった。ホテルへのバスを待っていると、物売りが執拗に絡んでくる。
「要らない」と言っても「ノーサンキュウ」と言っても通じない。『1000円!1000円!』 ぼ
んやりしていると下から黒い手がにゅーっと出て、物乞いの哀れな声がする。そこにもここ
にも、質は違うが、中国人のすさまじい生活力が感じられた。
北京シャングリラ・ホテル泊
西安
3日目 6月30日 日曜日 晴れ 北京→西安 西安市内観光
起床5:00 お弁当を持って北京空港へ。7:30フライト→ 9:00西安空港着。 バスで
始皇帝稜を右手に見て西安市内へ。
西安の概説 陜西省の省都である西安は関中平原の中部に位置し、北に渭河、南に秦
嶺山脈を望む。7つの区と6つの県に分かれており、市の面積は10,000km2で、人口は620
万。気候は大陸性気候で、年間通じて乾燥している。 かつて長安と呼ばれた古都西安。
紀元前11世紀から10世紀初頭まで2,000年に渡って漢や唐など多くの王朝がここに都を
おいた。それと同時に秦の始皇帝、漢の武帝、霍去病、唐の太宗、武則天、唐の玄宗と
楊貴妃など、歴史の英雄やヒロインを輩出した。 また西安はシルクロードの起点として有
名だ。漢の外交使節として派遣された張騫、天竺まで仏教の経典を求める旅に出た玄奘
など、旅人はここから出発して戻ってきた。中国の絹そして茶や磁器などは、中央アジア
を通り、ヨーロッパに伝わり、逆に中国にも西方の物産や文化をもたらした。 唐代の西安
は西方からやってきた多くの外国人で賑わうメトロポリスとして繁栄を極めた。唐代の大
詩人李白の七言絶句「少年行」のなかには碧眼の美女が登場する。 西安と日本の交流
の歴史も古い。隋・唐時代に遣隋使や遣唐使が派遣され、日本の文化に多大な影響を与
えた。興慶宮公園の安倍仲麻呂記念碑や青龍寺の空海記念碑などではかつての日本と
の交流の足跡を垣間見ることができる。

華清地
唐の詩人白楽天の「長恨歌」に歌われた唐の玄宗皇帝と楊貴妃とのラブロマンスの舞
台として有名。「春寒くして浴を賜う華清宮、温泉の水滑らかにして凝脂を洗う・・・」と楊貴
妃がここの温泉で美しい肌を洗ったと言われる。敷地の中にある御湯遺跡博物館では、
楊貴妃が好んで湯浴びした海棠湯、玄宗皇帝と愛を育んだ蓮華湯、宮女専用の尚食湯、
太子湯など浴場の遺跡がある。温泉の温度は42度とか、丁度良い湯加減である。中国
では温泉は貴重なものなのかな。池があり山があり、陸の竜宮城のような感じがした。

兵馬俑抗博物館の見学
始皇帝(紀元前246〜210)の陵墓より東へ約1.5kmの所にある。1974年にこの土地の
農民が井戸を掘っていて偶然に発見した。秦の始皇帝が死後の自分を守るために等身
大の兵馬を作らせたもので、当時の秦の軍団がそのままの形で再現されている。 1号館
から3号館までに約8,000体の兵馬の俑(人間が殉死する代わりに埋められた人形)があ
る。兵馬俑は表情も一体一体全て異なり、武器を手にしたものもいる。写真は入館すると
先ず目に付く光景です。

1号兵馬俑は東西230m、南北62mの中に兵士俑8,000体、馬俑600体が埋葬されいるが、
発掘数は 1,000体程度で、巨大なド−ム内では現在も発掘作業が続けられ、気の遠くな
る様な修復作業を経て年々陶俑の数は増えており、秦の強大な軍陣が明らかになってい
る。11の壁に仕切られ、東を向て3列横隊の兵士はこの前衛部隊である←写真。また11
の空間には38列の兵俑が縦隊に整然と並び、右翼部隊、左翼部隊、後衛部隊になって
いる。兵俑達の平均身長は178cm。 2号坑は、4つの部分から成立っている。弓矢の兵
俑は二重三重に配置されている。4つの方陣はお互いが有機的な大方陣になることが出
きる配列であり、守るに良く攻めるに良いといわれている。 3号坑は小さく、軍司令部
の坑とされている。中央に鹿の角があり、ここで占いを行った。 丁度昼時、観客が思った
より少なく、じっくりガイドの説明を聞いたり、観察することが出来た。よくもまあこれだけの
ものをつくったものである。
食は市内のレストランで四川料理 これもうまかった。血糖値を気にしながら、また腹一杯
食べて
しまった。 気温はぐんぐん上がって35℃この暑い中大雁塔の見学をした。

大雁塔
大慈恩寺・大雁塔の見学
慈恩寺は648年、唐の高宗が亡き母文徳皇后を偲んで建立したものである。インドより
教典を持ち帰った玄装法師が、この寺で仏教経典600部余りを翻訳したことで知られる。
唐の僧である玄奘(三蔵法師)が629年に長安を出発し、645年にインドから多くの経典・
仏像を持ち帰り、この大慈恩寺で仏教の経典600部余りを翻訳した。
慈恩寺のシンボルタワーが大雁塔で、高さ64m、652年に建立された。三蔵法師が天竺
から持ち帰った75部1335巻の仏典を収める為に建立された。
最初5層だったが、則天武后の頃10層となり、その後戦火に遭って現在は7層。この塔は
四角形で、柱を使わず黄土を餅米で突き固め、外側をレンガの壁で覆った分厚い構造
で、最上階まで250段の階段がある。上まで登るとシルクロードを一望できる。大雁塔の
南側入口に玄奘三蔵の偉業を讃えた唐の高宗碑文がある。
シンボルタワーの大雁塔へ上った人もいたが、そのエネルギーは私にはなかった。中曾
根君と寺内を見て回った。同行の誰かが、「ここの坊さんがたばこを吸って、その吸い殻を
草むらに捨てた。」と言っていた。ひどい坊主もいるものである 。
この後博物館を見たが、ガイドの説明を真剣に聞いていたら、そのうちに、その素晴らし
いものを80万円で売るという。何のことはない。ガイドがいつの間にか売人になっている
のである。何か騙されたような不快感を感じた。
南門:永寧門

永寧門の上で
西安は今も城壁が残されている数少ない都市である。他の多くの都市では交通の障害
になるという理由で城門が取り壊されている。現在残っている城壁は明代に構築されたも
の。周囲の長さ14km、高さ12m、上部の幅12〜14m、底部の幅15〜18m。東・西・南・北に
それぞれ門が有る。東門:長楽門、西門:安定門、南門:永寧門、北門:安遠門。
この南門から城壁に登って市内景色を一望した。大変よく見渡せた。 城門の直ぐ下は敵
兵を取り込んで全滅する広場になっていた。

ホテルの窓から
夜はライトアップされていてホテルの窓からも美しく眺めることが出来た。 夕食は餃子の
フルコース。餃子はこんなに種類があるのかと思うほど次々と出てきた。食べ過ぎ、飲み
過ぎが反省でした。
4日目 7月1日 月曜日 晴れ 市内見学 後 西安→桂林
碑林の見学

碑林の入り口
中曾根君がぜひ見たいと言っていたところである。 碑林とは、碑が林の如く立っている
ことから名付けられたものと思われる。漢代から清代までの3000余りの石碑が保存され
ているとのこと。これらの石碑は、公用文、経典、書道、墓標など、様々な文字を刻んだも
ので、唐代以降は拓本を取って利用したことから世界最初の印刷技術とも言われてい
る。 私たちが見学しているときにも拓本が取られていた。 中曽根君はここで書道の何と
かという手本を購入した。この頃になると交渉の仕方が上手になって随分安く買えたと喜
んでいた。
ショピングのつき合い
安いツワーは必ず土産店へ連れ込む。連れ込まれた店は他より高い店が多い。今回も
よくつき合わされたが、エアコンの効いた店で一休みをし、目の保養をするために活用し
た。そう考えれば納得のいく時間帯になる。ここはきらびやかな宝石店であったが、私は
何も買わないでお茶を飲んで一休みした。
昼食は『安倍』という日本食レストランで。焼き魚と茶碗蒸しに天ぷら、味噌汁どうという
ことのないものであった。今回の旅の中では一番質素なものであった。ガイドの話によれ
ば、ここでの日本食は値がいいと言うが本当かな?トイレは汚いし、洗面所の水もたらた
ら程度しか出なかった。これではいけません。

陜西歴史博物館
1991年に開館したもので、唐代の建築様式を取り入れたとても立派な博物館。北京の
故宮博物院に次ぐ規模を誇る。113,000点の収蔵品のうち、展示されているのは約3,000
点のみ。 展示室は年代別になっており、第1展示室は先史時代から周、秦代までを展
示。周代を青銅文化と呼ぶように、この時代の青銅器や陶器が多い。兵馬俑から出土し
た銅車馬のレプリカや、俑(人形)もある。2階第2展示室は漢から魏晋南北朝にかけての
展示室。 2階第3展示室は、隋、唐から清代までを展示する。特に唐三彩が見事。また、
唐代にアラブ方面から貢ぎ物として贈られたとされるメノウや獣首瑪瑙杯などもあった。
この後空港へ
桂林
4日目 7月1日 月曜日 晴れ 西安→桂林
西安の陜西歴史博物館の見学後空港へ
フライト時間1時間30分 6:30Pm桂林空港着 桂林空港へ近づくと機内からあの独
特の奇山が見え始めた。川は茶色に濁り、所々冠水している様子がうかがえた。雨季、
随分雨が降ったようである。幸い天候は曇りまあまあである。
空港を出たら直ぐそこにあの独特の山並みが見えてきた。ワンダフル来てみてよかった。
この実感は明日、漓江下りでより深く体感することになるのである。
夕食は市内のレストランで広西料理。テーブルを囲んだ面々はずらっと書道の大家。岡
島さんという60才代のおばさんを筆頭に、そのお弟子さんで師範級の娘さんが2名。そ
れから我が中曾根君である。このおばさんは全国教育書道会の理事他なんとか会長を
含めて肩書きが5つ位もある偉い人である。でもここでは旅仲間、西安の碑林の話など私
にすればちょっと質の高い話しもあったが、中曾根君にはいい機会だったようである。夕
食後桂林の美しい夜景を見てホテルへ
桂林・ローヤル・ガーデンホテル泊
5日目 7月2日 火曜日 曇り 桂林のハイライト漓江下り
9:00バスで乗船場へ向かった。郊外へでると情景が一変し、極めてのどかな田園風
景である。放し飼いの豚がのうのうと集落の中を散歩している、もちろん犬も鎖につなが
れているのは1匹もいない。日本の戦前、戦中の農村風景でる。非衛生的な生活環境で
ある。道路は舗装してあるだけのものであった。

漓江は広西北部の興安県の猫児山に源を発し、南の梧州の江まで全長426km。漓江下
りは桂林から陽朔までの流域83kmの景色を指している。桂林から下流の陽朔までの船
旅では、風光明媚な山水画の世界である。川の両岸にはボコボコとした山が遠くまで並
んでいる。この辺りはカルスト地形であるから、石灰岩のが雨水により浸食され、石灰岩
でないところが凸部となって奇峰となったものある。双眼鏡で山壁を見ると整合の地層が
海底に堆積した様子を物語っている。

天候は霧雨模様の曇り空、場所によっては山峰は霧に隠れ、幽玄な山水画の景観であ
った。漓江は連日の雨で増水し、濁流が滔々として流れ下っていた。緑色に澄んでいたら
また違った美しい景観が展開したろうに。また春夏秋冬それぞれ趣のある景観を見せてく
れることだろう。(写真は漓江を下る船)

鍾乳洞の入り口でバックは漓江
途中冠岩の下にある鍾乳洞の見学をした。 冠岩は漓江東岸の草坪郷に位置し、市内か
ら29km離れた南郊外にある。 山の形が帝王の紫金の冠に似ていることからこの名が付
いた。岩のすぐ下には地下川が流れる巨大な鍾乳洞になっている。この入り口までは船
を降りって結構な上り道を嫌になる程歩く。その道々「馬に乗れ」とか「かごに乗れ」とか、
また「100円100円」と物売り等が執拗にまとわりついてくる。へとへとになって洞窟の入
り口に辿り着いたら美人のお姉ちゃんが正装して一緒に写真を撮れとせがむ。勿論有料
である。「母ちゃんに怒られるから駄目だ」とやんわりと断った。

洞窟の中には地下川が流れ、所々赤青緑などのネオンの照明がしてあり、(写真上)見
応えがあった。途中からトロッコを連結したものに乗り参観した。一番の奧は行き止まりに
なっていた。ガイドに「これからどうするのか」と聞いたら、「今来た道を戻る」という。中曾
根君とこれはえらいことになったと話し合ったが、途中からエレベーターで地上へ出られる
ようになっていた。

冠岩の辺りをバックにして
出た所は冠岩がうまい調子に見られるようになっていた。そこからの山下りはブレーキだ
けの二人乗りのトロッコで、各自運転して山麓まで下った。トロッコ代は30元。ビール3本
分であった。
昼食は船内で、ビール1本付き、内容もまあまあの物であった。
昼食が終わった頃からここでも、扇子、梅の干物、酒、宝石などを手を変え品を変えて
売り子が、盛んに「それ買え!やれ買え!」と勧める。この辺りまで来ると同行の皆さんも
なかなか交渉が上手になって、こんなにも安くして儲かるのかなと思うほど、ディスカウト
させて購入していた。4袋1000円だった梅の干物が最終的には12袋で1000円であっ
た。この売り子と客のやりとりは見ていて面白いものであった。いったいどちらが得をした
のかな。両方が利得を得たのかな?。
漓江下りの終点は陽朔。ここからバスで桂林市内へ戻った。

桂林博物館の見学
館内には、「桂林歴史文物陳列」「廣西少数民族風俗陳列」「国際観光客おみやげ陳列」
「明清の瓷器陳列」などがあり、日本語ガイドが熱心に説明してくれた。桂林には少数民
族も沢山住んでいるそうであるが、ここにはその風俗が陳列されていて興味深く参観でき
た。ここでもやはり最後には国際観光お土産陳列室へ連れ込まれて「どうですか」と言う
話になった。
市内のレストランで夕食を済ませて、桂林空港から上海へ。フライト時間2時間 上海空
港着 ホテルまでのバスの中では、日本語のガイドが、「一人で好きなように行動をす
ると大変な目に遭うから、全て私に相談しなさい。どんな願いも私ならかなえて上げます
から。」「綺麗な女の子の誘いに乗るな」とか、「迷子になったら私の携帯電話を呼び出
せ」とか「上海という街はうかうかしていられない」とか言っていた。どうも『夜の街も案内し
ますよ』と言うことらしい。ちょっと隅には置けないガイドのように思えた。 上海
華亭賓館泊 今回の旅の中では一番いいホテルであった。
上海
日目 7月3日 水曜日 曇り 上海市内観光
上海の概説 上海市は6,314q2の面積で1,400万人が集中している。日本を含み外国列
強の租界地として発展してきた。租界地としての古さと近年の経済発展による新しさが渾
然一体となっている特異な都市だ。 上海は現在の中国の最先端を走るエキサイティン
グな都市。バンド地区には租界地代の建物が立ち並び、ライトアップされた摩天楼を背景
にした夜景が楽しめる。バンドの南側、豫園の周辺は伝統的上海を今に伝えている。
市内中心地には淮海路と南京路の2つの巨大メインストリートがあり、どちらのストリート
も通り沿いにデパートやブランドショップ、レストランが立ち並ぶ上海の人気エリアとなって
いる。

豫園内部:迫力満点の龍の焼き物
豫園の参観
400年の歴史を持つ豫園は、明時代喜靖年間(紀元1577年)に造園名人である張南陽に
よって設計された邸宅式の庭園で、明時代の四川役人、藩允端が父親のために創ったの
が発端と言われている。
庭園の門を入れば、眼前に見えるのが三穂堂で、1760年に創建。清代では役人が祝典
を行う場所。仰ぎ見れば"城市山林"という四文字の額が見られるが、周囲は賑やかな繁
華街、園内は山林野生の趣きに満ちているという文字の内容が豫園の環境を形象的に
語っていると言える。
建物や築山、竜の彫刻などについて、ガイドは熱心に説明してくれたが、不勉強の私は
そうなのかと思った程度、勉強をしていけば見方はもっと違っていたろうに。

豫園豫園商場での散策
豫園商場:豫園の直ぐ近くにあって、建物は昔の状態が維持されている。中は近代的な
お店である。その昔の上海はこんな様子だったのかなと周囲を観察した。中国風の立派
な建物が軒を並べている様は見事であった。明日は帰国なので、連れ込まれたここの店
でTシャッツ3着買ったら3元残った。
中曾根君が公衆トイレへ入ったら1元取られたそうである。3元あればトイレもできそうで
ある。
南京路の散策
南京路は、東は外灘から始まり、西は静安寺公園まで約5kmにわたる上海のメイン・ス
トリートで、中国一の繁華街とも呼ばれている。ほぼ中央の第一百貨店を中心に東側を
南京東路、西側を南京西路と分けられる。
時間は2時間もあるからその気になれば端から端まで歩けるが、気温は30度以上。元
は使い切ってないし、買いたい物もない。中曾根君と歩いてみたが、目的もなくぶらつくの
はただ疲れるだけ、日本のデパート伊勢丹へ入ってみたら同じ思いのお二人と一緒にな
り、4人で喫茶室でコーヒーを注文して1時間程過ごした。支払いはカードで済ました。南
京路はじっくりとは見なかったが、あれこれと語り合える有意義な時間であった。年寄りに
はこの様な時間も必要であります。このお二人さんとは成田で固い握手をしてお別れをし
た。
昼食はモンゴル焼き食べ放題 肉と野菜を自分の好みに盛り合わせて持っていくと、大
きな鉄板上で見事な手さばきで焼いてくれる仕組みになっている。珍しかったがそれ程美
味い物ではなかった。

上海博物館の見学
博物館の入り口前(写真)には動物像が並んでいるが、これらは300を超える漢・唐時代
の石・青銅像から8つを選び出し、それらに模して作られたものとのこと。

博物館は4階建てで、各フロアーごとにテーマが別れる。
1階:中国古代青銅器や古代彫刻の館、唐三彩や北魏の仏像など。
2階:青磁、白磁、景徳鎮など50点あまりの磁器類。
3階:歴代印鑑と書法、絵画の館。4階:少数民族の工芸品と古銭、古代玉器、明・清時代
の家具など
無線受信機を借りて、日本語で館内展示物の詳しい説明を聞くことができる。展示物に
記されている番号を押せば解説が始まるようになっている。ドイツの博物館でもこの様に
なっていたが、便利な物である。見学時間は2時間もあったが、全部は見切れなかった。
意欲はあるが、疲れるから時折ベンチで一休みしながらの見学であった。
ショピングは、絹織物の専門店。ここは繭から糸をとって、製品を作っている立派な店で
あった。はじめはファッションショウがありモデル嬢が次々にしゃなりしゃなりと出てきて目
の保養になった。さすが上海辺りの店になるとやることがあか抜けている。売り子も商品
の説明をする程度で執拗に勧めないので感じはよかった。
夕食はこの店の工場の二階にあるレストランで上海海鮮料理であった。中国最後の夕
食にふさわしい物であった。

食後、雑伎団の演技の観賞をした(写真)。 雑伎を演じる人たちは、生え抜きで10歳頃
から入団し数年の歳月を経て舞台に出られるそうである。技量の維持が難しいのでだい
たい25歳くらいまでで退団するという。見事な演技の数々であった。直ぐ前にいた同行の
奥さん連は、ここはと思うところで「ホー!ホー!!」と驚嘆の歓声を上げて見ていた。そ
の声がより私達の感情を高揚させるものであった。中でも4人がオートバイに乗って、球
形の籠の中を縦横無尽に走る演技ははらはらしながら見守った。中曾根君は「こんな危
険なことは止めた方がいい」とぶつぶつ言っていた。

上海の夜景を見に行った。海辺の街はライトアップされていて見事であった(写真)。これ
が上海なのかなと思いながらカメラのシャッターを切った。これが中国の旅の最後であ
る。
ネオンの明かりは旅の最後を飾るに相応しい物であった。今日は密度の濃い1日、疲れ
ました。 上海 華亭賓館泊
帰国
7日目 7月4日 木曜日 曇り 帰国
上海空港9:40発−成田空港着13:50 フライト時間約3時間 成田からは長野中央タ
クシーで。乗客は3人。一人はカナダのバンクーバーへ単独で20日間ばかり過ごして来
たというお嬢さん。彼女とバンクーバーの話をしたりしながらの車中であった。ドライバー
は藤沢さんという母ちゃんドライバー。彼女とはこれで2回目である。前回は高野君宅へ
泊まって、東欧へ行くときに成田までお世話になった人である。 下車は中曾根君、彼女、
ラストは私。帰宅は19:40 旅は終わった。ビールが美味かった
エピローグ
ありふれた中国の都市巡りの旅。それは人が思うこと。初めての私には北京、西安、桂
林、上海の組み合わせはよかった。すごくいい旅であった。
桂林の市内は整備され、夜はライトアップされた観光の街に相応しいものであるが、郊
外に出れば、非衛生的な田園地帯が展開している。華やかな観光地の周辺では物売り
がしつこくつきまとい、物乞いが100円100円と手を出している。都市と農村部の生活程
度の格差、生活手段のない物売りが横行し、素晴らしい速度で発展している中国のひず
みがそこかしこに感じられた。
学校へ行かないで、観光客の後を追いかけて物売りをしている子供達の将来はどうな
るのかな。反面歴史的遺産の豊富さとそのすばらしさに驚嘆した。特に始皇帝の偉業か
ら当時の中国文化水準の高さに敬服させられた。 文化遺産を訪ね、近代的な都市に触
れ、中国人のたくましさに触れ、得るところの大きい旅であった。
旅は道連れ、終始おおらかな中曾根君と一緒。気兼ねなく過ごせました。この気兼ねな
くの旅仲間が何よりのものであります。お陰様でとても楽しい旅になりました。
中国語がぺらぺらのおばさん。背中の後ろで手を合わせて拝めるおばさん。新型のデ
ジタルビデオで撮り続けたおじさん。中曾根君よりもカラオケが巧いくらいの2歳年上のお
じさん。いろいろの人間模様が織りなす中での旅でした。 これ皆お陰様でした。ありがとう
ございました。

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