ラオス研修旅行記2014/11/16〜11/23

ラオス上座部仏教研修とベトナム石材業界視察

上座部は厳格な出家主義で個人の修行に重きを置き、上座仏教国、ラオスでは僧侶に布施をし出家をする。
スリランカ旅行から僅か
2週間で仏教国のラオス研修である。ベトナムのホーチミンに到着。6時間もかかった。
意外と遠い

次の日にホーチミン郊外の石材加工会社工場視察、主に建築材でベトナム産の石は僅かでインドや中国の石が加工されている。会長他の皆さんで案内して頂く。現在は建築材の加工だけだが、敷地は沢山あるので間もなく墓石の加工をすると言う。
久しぶりに大口径やワイヤ送の切削音を聞いた。
人件費が安くても石材が自国に無く輸送に問題があるのでは中国からベトナムに移れるかどうか疑問だ。
ラオスの仏塔やラオス寺院の屋根に特徴があり大変美しい、湾曲してせりあがり屋根に特徴があり最古の寺院ワット・シエントーン本堂の参拝
シャール平原の見学、壺にも墓にも見える、大きな石でできている。1,2,3と見学の予定だったが同じものと聞き3はキャンセル。

5日目にはバスに乗ってる時間が8時間と長い移動、途中モン族・カム族の村に寄る。数十年か前にタイムスリップした不思議な世界であった。
僧侶の托鉢風景を体験、ご飯と菓子を少しずつ鉢に入れてやるが次々と大変忙しい、もちろんお金がかかる。

最終日はメコン川をボートに乗りタムテイン洞窟や焼酎製造地・スカーフ織物地などを回る。

物価の安さに驚く。

主食はもち米で硬くて沢山入っていてとても食べきれない。最後の夕食は民族舞踊を鑑賞しての食事、終わりにラオスの国花・ブルメリアの花をいただく。
観光名所と呼ばれるようなところも無く、田舎らしさが残る、食べ物もまずまずであった。

スリランカ研修旅行記2014/10/27〜11/01

成田空港=スリランカ。直行便だが10時間、コロンボに到着、徳永信定寺住職の出迎えを受け宿泊のホテルに向かう。

二日目アヌラダプーラの仏塔参拝、
スリランカ最古の寺院イスルムニヤ精舎へは履物を脱いで素足での参拝、入口にはスリランカ寺院形式の守護神像と石版がある。ルアンウエリ・サーヤ大塔、大塔は仏舎利を納める施設、基壇の上に覆鉢、その上に平頭、相輪がある。それぞれの箇所では全員で般若心経を唱えての参拝。インドのブッタガャから運ばれたスリ・マハ菩提樹では柵内警備員から大きな菩提樹の葉をいただく。インドのブッタガャの菩提樹の葉よりもかなり大きい。

三日目
岩山城塞、高さ200メートルの頂上に王宮が築かれていた、世界遺産シギリアロック。1200段の階段を頂上に向かう、何人も、登坂に手助けしてくれる政府公認のヘルパーがついて来るがまったく必要なかった。途中綺麗な1500年以上前の洞窟フレスコ画が残っている。

タンブラーへ移動5つの石窟は岩山の中腹にある。
1窟は大きな涅槃佛が大半を占める2窟は王の寺院、鮮やかな天井画、数々の像第3窟は黄金色に彩られ煌びやか、57体の釈迦像がある。第4窟三人の王の寺ここも色彩豊かだ。第5窟最も新しい窟。すべての窟でお経を唱える。今夜のホテルは高台で見晴らしが良い。
夕食前に徳永先生によるアーユルヴェーダ講座は宇宙5大、五輪塔に繋がる奥深い講義でした。

四日目まだ暗い早朝佛歯寺の参拝、多くの人々の参拝に驚いた。一日に三回お堂の扉が開けられるのを大勢の人が待っている。我々はダンミカ和尚のお陰で普段は入れない佛陀の歯の御宝前で特別参拝が出来た。

マウント・ラブイニャに向かう途中スリランカ墓地の視察、残念なことに雨で思うように見ることが出来ない。夕方になったがダンミカ和尚の寺、ダルマソーカ寺を訪問あいにくの雨の中でしたが円周に28釈迦が祀られているそれぞれが花を添えて本堂で謹行。

最終日は大変よい天気になりダンミカ和尚が経営のさくら幼稚園の訪問、かわいい子供達の歓迎、それぞれ花輪をいただき、スリランカ国歌と君が代の演奏で国旗の掲揚、その後挨拶があり、子供達の踊りや遊戯をココナッジュースをいただき鑑賞、感動と感激の一時でした。

私は知りませんでした、敗戦国の日本が現在このように発展出来たのはスリランカのお陰であるとは・・・

サンフランシスコ講和会議において戦勝国連合軍は日本に対し賠償と制裁借置を求めた四カ国(ソ連・アメリカ・中国・イギリス)分割統治の案。この日本分割占領案に反対を唱えたセイロン代表ジヤワルダナの演説に諸外国代表の心を打ち、当時日本に厳しい制裁借置を加えようとしていたソ連の反対を押し切り、日本の国際復帰につながった。この条約締結後いち早く日本と外交関係を結んだのもスリランカです。このジャワルダナ代表の演説は仏教国なるが故ブッタの言葉が引用されています。改めて仏教国スリランカに対し感謝したい。



ウズベキスタン研修旅行記
2010/10/8〜15

仏教伝来の道を訪ねて、中央アジア仏教文化研修と日本人拘留者慰霊参拝の旅

今回の研修は中央アジアに位置するウズベキスタンとタジキスタンである。ウズベキスタンと言うと大概の人は大丈夫か?と心配する。スタンと付くと、アフガニスタンのタリバンを連想してしまうが、『スタン』は本来、陸とか国と言う意味で、私もあまり知識が無かったがアフガニスタンのバーミヤン遺跡の破壊には関心があった。
成田を出て関西空港で合流し、添乗員を含め9人でウズベキスタンに向かう機内はがらがら横になれそうである。インターネットでみた通り飛びたつ前に飲み物のサービスがエコノミーでもあったランチだと思食事14時を過ぎたころに運ばれて来た、日本まれた食事なので安心して完食するがあとは寝るない約9時間の飛行で時差は4時間、無事にタシケント空港についたホテルに向かうバスが故障のために待てども来ない、外の気温はかなり涼しく、寒くさえ感じる、だいぶ時間が過ぎた結果、分乗しタクシーでホテルに向かう、タシケントではかなり良いホテルのようだ、水もお湯も問題なかった。私の知っている限りで紹介するならばウズベキスタンの現状は豊富な野菜果物と牧畜どれもが深い印象を与えてくれる国ですが水やお湯についてはかなり問題がある。国旗の色は上から青白緑、月と星が印されている。三日月はイスラム教12個の星は12の州を表し、青は空、白は綿花、緑は樹木、細い赤い線は先祖を象徴している。国内にが1あり、境にはすべて検問がある。ウズベキスタンは140年間ロシアの統治が続いたためロシア語は皆話せる。1991ソ連から独立を果たすが社会主義体制から脱皮出来ていない。合弁事業の相手はほとんどが韓国で、この国では韓国人が活躍しているようで何所でも『コリア?』と聞かれる。
中国の特産品であった絹を北京からヨーロッパや北アフリカまで運んだ東西の交通路から名付けられたシルクロード。当時はキャラバンと呼ばれるラクダを率いた隊商が、何ヶ月もかけて通った道の大半は砂漠で、タシュケントはウズベキスタンの中でも天山山脈から流れる川の水がオアシスをつくり、サマルカンドと並びシルクロードの中間地点都市として発展した。これから始まる研修は仏教文化、交易の中継地点、文化の融合地点等を確認できるであろうと期待を寄せて、日本時間の4時ごろに就寝。

 109 釈迦三尊仏像にめぐり合う
朝の気温は低いが快晴、日中は暑くなりそうなので皆さん対応出来る仕度で9時発タシュケントの観光 タシュケント(Tashkent)とは石の町という意味だそうです、しかし石がたくさん取れると言うことではない。タシュケントは人口約300万人でウズベキスタンの首都。まず、ウズベキスタン歴史博物館の見学、二階の展示物には鳥葬後に骨を納める陶器(オスワリ)などゾロアスター教にまつわる150万年前の石器から現在のウズベキスタンの産業までが展示されていた。なかでもテルメズ近郊のファヤズテパ遺跡から出土したクシャン朝時代(2〜4世紀)の釈迦と2大弟子の石像(石灰岩)が最大の見ものである。高さは60cm位で禅定印を結んだ釈迦如来と左右で合掌する僧が、釈迦三尊仏像であった。素晴らしい!!

釈迦三尊 石材工場 地震の碑


宿泊したパレスホテルの前にナボイ劇場があり、建物左側奥の壁に埋め込まれているプレートには日本国民が建設に参加し、完成に貢献した。』と記されている。劇場は外装も内装も華美で、柱や壁に丁寧な彫刻が施され優れた美術品が拝見出来た。ナボイ劇場の建設にはいろんな説があるが日本人が関わって出来た事には間違いがない。
1966年に大きな地震があり大きな被害が出た地震記念碑が黒御影石で作られていた。
日本人墓地に行く前に、現地ガイドの案内で地元石材工場を訪ねる、偶然来られた社長の案内で工場内を視察ができた。此処とは別に新しい工場が在るようで1人が美術彫刻をしていた、数少ないウズベキスタンの原石の前で社長と一緒に記念写真を撮る。

日本人墓地の参拝と福田業
今回、福禄寿会目的のひとつ、日本人墓地慰霊参拝・献花と墓地清掃の福田業である。日本人墓地は市内のヤッカ・サライ墓地の一番奥に位置する、タラームさんが管理をしていて下さる、ウズベキスタンの人々の心温まる対応に感謝の意を代表して石本副会長から贈る。我々も心をこめて墓地内の清掃をして綺麗になったお墓に花を生け、永遠の平和と友好不戦の誓い碑の前でご冥福を祈り、合掌。

この日本人墓地に行く途中には土盛されて簡単な墓石(約65ドル)が設置された墓など色々、現地石屋さんのお手伝いをする会員もあり、墓地は勉強の宝庫である。

日本人墓地 感謝の意を贈る


パラク・ハーン・メドレセの左手前には図書館がある。ここにはティムールがダマスカスから持ち帰った世界最古のコーランが収められている。このコーランは7世紀に書かれたもので羊皮紙に大きな字で書かれていて、真ん中に血が滲んだコーランを拝見。なんでも世界最古のコーランは世界に4冊あり、他の3冊はトルコ・エジプト・サウジアラビアにあるとのこと。このコーランは奥の部屋のガラス箱に入り、大事に大事に保管・公開されている。モスクに向かうと一日に5回行われる参拝時刻にあたり見学と参拝。
今日の最後はタシケント市内最大のバザールに出向く。活気に満ちその熱気に海外旅行へ来た雰囲気を味わえ、価格の安さに買い物をする。 日本には無い賑やかさ、人々のエネルギーを感じることが出来た一日中歩き回り痛かったの痛みが更に増す

1010 世界遺産遺跡めぐり
タシケント空港から交易の街シリダリヤ州テルメズに向かう。天気は良いし暑い、アフガニスタンに近いテルメズはローカル空港静かである。まずは数々の仏教遺跡の見学。
バスが突然停止して降りることになる、遥かかなたにあるzurmala stupaを見に行くため、埃道をひたすら歩く、車が通るのになぜ歩くのか?挙げ句の果て綿畑がありそれ以上近くには行けない。帰りは車が迎えに来た。このstupa現在は14.5m高さ中央アジア最高のものですが、かつては16mあり、基壇は赤土の日干し煉瓦が積まれ、ドームは石灰が塗られていたそうです

9世紀の哲学者で町の聖人アル・ハッキムを記念したアル・ハッキム・アト・テルメズこの建物の裏手からアムダリヤ河とアフガニスタンが見渡せます(写真撮影は不可)。支配者達の家族のお墓で1115世紀に建てられたイスラム建築
カラ・テパ遺跡はアフガニスタンとの国境にまたがるため、入場には政府と軍の特別許可が必要カラテパには、軍事施設があるだけでなく、目の前には、アフガニスタンとの国境、アムダリヤ河が流れている。ピリピリした状況であるがゆえ写真撮影に関しては厳しく軍事施設アフガニスタン側の撮影は禁止、バスが止められ軍人との交渉が長引き皆降車を命ぜられ、点呼を取られたり予定した道が軍人にだめと言われ他から徒歩にて向かうはめになった。カラテパ遺跡は、クシャン朝時代の仏教遺跡で、日本の加藤九祚先生による調査・研究でも有名な遺跡です。南丘、中丘、北丘の三部分に分かれていて屋根のかかった所は現在発掘中、全体の広さは約三百平方メートルあるそうです。かつて、インドからきた僧が修行をした洞窟寺院の形をしていたようで壁に当時の装飾の一部が残っていますが、言われない限り、単なる凸凹にしか見えません。柱の一部や土器のかけらなど雑然と置かれただのガラクタのような扱いである、熱心な会員は重い遺跡の欠片を収集、後に空港の検査で問われることになるのだが、『これは何か?「彼の答えは」石です』この答えで無事に通過! 日干し煉瓦で出来た狭い遺跡の上を歩くとどんどん崩れてしまう。次の見学もあるのでなにやら銃弾の破片が落ちている軍事演習内約1キロを急いで歩く

ファヤズテパを見学。この仏塔、遺跡と言うのに何だか新しい?と思っていましたが、中にオリジナルの仏塔があって、写真に写っている仏塔は保護するカバーであった。あの有名な「三尊仏」がこの辺りから発掘された仏塔の中は真っ暗で、人一人がぐるりと一周できる程度の広さがある、仏塔の横の部分は土で作られているので触るとザラザラ土が採れる、やはり雨ざらしでは風化を防ぐことはできないので、こうやって大切に保護しているようです。この近くに三尊仏のコピーなどがおかれた博物館があった。博物館を出た頃には夕日がファヤズテパを映し出してほっとした時間であった。

カラテパ遺跡 stupa ファヤズ・テパ カラテパ遺跡


今日の最後は、テルメズの博物館で、博物館に着いたのは18本来なら閉館であるが現地ガイドがここの職員だったので仏教遺跡からの出土品を見ることが出来た。

ウズベキスタンの結婚式に招待される。
現地ガイドの親族の結婚式に招かれてご馳走になることになった。それは大変賑やかで、楽団にダンス、賑やかなウズベキスタンダンスに参加してお祝いする。我々は途中で失礼したがこの宴会はえんえんと続くようだ、さぞかし新郎新婦は疲れることであろう。結婚式自体は、いかにたくさんの人に来てもらえるかが重要らしく、平均300人くらい、500人以上も招待するとのことでした。そして、新郎新婦のことを全く知らない我々も参加してよいとのことでした。今日は古い時代の仏教遺跡に感動したり、結婚式にお呼ばれしたり実りある一日でした。

1011日 新婚さん多い、結婚シーズンか? 
バスで往時の権力者ティムールの出身地シャフリサーブスにむかう、舗装道路だがかなり揺れる、長閑な田園風景が続いたり、牛に道路を塞がれたり検問通過2箇所、途中喫茶店でマントウ(肉まん)とグリーン茶で休憩、シャハリサーブスまではあと65キロ午後2時頃に着いてラグマン(うどん風麺料理)と野菜中心の料理で昼
まずはアクサライ宮殿の見学、夏の宮殿と呼ばれて大きな建物だが現在は門のみの残骸、昔は屋上にプールや公園があって高65mだったが今は35mになっている。門の入り口にはアラビア文字で、『我々の権力を疑う者は我々の建築物を見よ支配は神様の影(代理人)』と記されているとガイドの説明。

公園中央にはアムール・ティムール像があります、今日もまた新婚さんを何組か見る、昨夜のような披露宴をしたのかこれからするのだろうか?

新婚さん 結婚式 途中喫茶店



ジャハンギール廟を見学。ジャハンギールとは22歳で亡くなったティムールの長男の名前。ティムールもここに葬られるはずだったが、実際はサマルカンドのグリアミール廟に葬られた。内部も外部もモザイクが施されて美しい。そして,次に向かったのはティムールの棺(になるはずだった)が収められた所。身分から考えると、えっ?というほど小さくてこぢんまりした建物だった。ティムール自身はここへの埋葬を望んでいたらしいが彼は中国への遠征途中になくなった為ここではなくサマルカンドのグル・エミール廟に葬られた。回廊の中で石屋さんが彫刻をしていた、並んでいる墓石は65ドル位だと言う。どこに行ってもス  ザニ(刺繍)売りが付いてくる。
ホテルで7時からの夕食途中から停電になり、ローソクで部屋に帰る。電気事情、水もお湯も出が悪いのでさっさと寝る。

10月12日 空の青と競いあう青の都
枯れ草を食む放牧の牛を見ながらデコボコ道を3時間、サマルカンドに向う途中の野天バザールで一休み、靴を買う。サマルカンドはティムール帝国、従ってティムールにまつわる遺跡が多い。現在は人口36万人で、ウズベキスタン第二の大都市。
グリ・アミール廟、グリ・アミールとは、「アミール(支配者)の墓」という意味らしい。
ティムールとティムールの子孫達の墓である。元来は、ティムールが1404年に戦死した孫のために建てた廟であるのだがその翌年、自身も中国遠征の途中で戦死してしまったので、彼自身もここに葬られたのである。ティムールの墓は黒色の石で作られて
いて墓石の下3メートルのところに本当の遺体があるといわれている。ここには4つの墓石が並んでいる。1941622日にソ連の学者によってティムール墓があけられ、自身が右足が不自由であったことと、孫のウルグベクが首を切られて死んだことが確かめられたという。墓の裏側には「私がこの墓より出たとき、世界は崩壊するだろう」というようなこと書かれていたという。そして、墓が開けられたその数分後に、ドイツがソ連に攻撃を開始第二次世界大戦における独ソ戦が始まったそうですが、現在蓋を開けたらどのようになるでしょうか?グル・エミール廟内部は華やかです内部は金で装飾が施されていて綺麗カトリック寺院の内壁や天井とはだいぶ違う。さらに奥の黒い石は『願いの石』と呼ばれ、窪み水がたたえられの水を悪いところにつけると治ると言い伝えられています。

レギスタン広場
レギスタンとは「砂地」という意味があるらしい。 レギスタン広場は3つのメドレセによって囲まれていて、左側にウルグベク・メドレセ(1420年に完成)、右側にシェルドル・メドレセ(1636年に完成)、そして中央がティラカリ・メドレセ(1660年に完成)です。3つとも1階部分は土産物屋さんになっていて完全に観光施設化しています。 まずは、ウルグベク・メドレッセ、品のある落ち着いたメドレッセだけれど、面白いのはウルグベクが天文学者であることから、星の形が模様になっていること。ここのミナレットは登ることができるらしい。
天文台跡は1908年、ロシア人の考古学者ヴィャトキンによって発見され現在は六分儀の地下部分のみが残っています。ウルグベクは政治家であると同時に科学者でもあり1年の長さを非常に正確に計算し今日の精密な計算と比べても誤差は1分以内といわれています。 
真ん中にあるティラカリ・メドレッセはモスクも兼ねていて綺麗な青いドームの下が礼拝所で3つのメドレッセの中で一番新しくて青いドーム美し、壁面のタイルも美しい。シェルドル・メドレッセたぶんレギスタン広場で1番有名なメドレッセであろうが、なぜ有名かといえば、人面を帯びた日輪を背負うライオンが描かれ、堂々と動物や人間の顔まで描いている。「ライオン」だというけど「トラ」にしか見え、偶像崇拝を禁止するイスラムには不思議な装飾。

レギスタン広場 ライオン ティムール像



最後の見学はビビ・ハーニム・モスクシアブ・バザールのすぐ前にあります。中央アジア最大のモスクといわれる。高さが36メートルビビ・ハーニムは、ティムールの妻の名前。中庭にはウルグベクによって建てられた書見台がある。その台の下を潜り抜けると腰痛が治るとか、願い事をして3周ると叶えられると言われています。ウズベキスタンのモスクやメドレッセはこんなに綺麗だけど、20世紀初頭にはソ連に徹底的に破壊された昔の写真を見るとかなり破壊されているのに、修復の見事さに驚くと共に感動。シェルドル・メドレセの偶像といい、ウルグベクの自由で科学的な精神といい、どうも中央アジアは古くから独特のイスラムのようです。現在のウズベキスタンでイスラム色が薄いのは、単にソ連の無神論教育のせいばかりではないのかも知れません。今夜は民族舞踊を見ながらの夕食だが寒いし静かな民族舞踊なので早めに帰る。
ここで、サマルカンドの歴史を整理しておく。紀元前6世紀頃からオアシス都市として栄えていた。紀元前4世紀、アレクサンドロス大王が若干20歳でマケドニアの王に即位し、大帝国を築いた。サマルカンドは紀元前4世紀アレクサンドロス大王が訪れる。紀元前328年アレクサンドロスの手に落ちる。アレクサンドロス大王は「噂には聞いていたが、それ以上に美しい都市だ」と感嘆したという。その時代のサマルカンドの住民はイラン系ソグド人であ彼らの宗教はゾロアスター教であった。勝利したアレクサンドロスは将兵たちに現地の人との結婚を勧めた。(アレクサンドロス自身もアケメネス朝ペルシア最後の王ダレイオス3世の王女を妻に迎えている。)ソグド人は商売上手として当時から有名であり、文献に「ソグド人は生まれた子供に、口には蜜をくわえさせ、手にはニカワを塗らせる。それは、甘い言葉と銭が手に着くようにするためだ」という。玄奘がサマルカンドを訪れたときもソグド人が通訳を務めている。現在のサマルカンドを新しくつくったのがティムール帝国である。そして首都の中心部にレギスタン広場がつくられた。ティムール時代の諸建築は青いタイルで光り輝いていたサマルカンドが「青の都」と呼ばれるゆえんであろう。サマルカンドは、2001年に世界遺産に登録された。ちなみに青いタイルを多用する事で涼しさを感じさせるようにしていたらしい。

 10月13日 国境と峠越え
国境を越えてダジキスタンに向かう。
タジキスタンは、観光客を受け入れてまだ数年らしい。タジキスタンは旧ソ連15ヶ国の中での最貧国現地ガイドの説では国民の平均月給は30ドル。面積は北海道、九州、四国の合計に近い14.31万平方Km。国土の半分は3,000m以上の山岳国家。中央アジアの最高峰ザマニ山は7,495m、富士山の約2倍もある。
サマルカンドのホテルを朝8時に出発し、葡萄畑、小麦畑、煙草畑、草原、を車窓に眺めながら走行すること約1時間で国境に到着した。バスから降りてガラガラスーツケースを押す事500m、出入国審査後、更に500m以上舗装されたデコボコ道路を歩く、タジキスタンに入ると三台のジープ(トヨタ車)が迎えにきていた。悪路走行が予想される。1時間ほどでペンジケントに到着、ソグド人の古代都市遺跡(58世紀)を見学した

国境 宮殿 ペンジケントの市街 ペンジケント遺跡 羊飼いと



『中央アジアのポンペイ』といわれるそうだがガイドがあれこれ商店街・住居・拝火教(ゾロアスター教)の神殿・宮殿などと説明日干しレンガ造りの遺跡は、殆ど崩壊していてなんだか分からない
この遺跡の北方にはトルキスタン山脈が東方にはザラフシャン山脈(天山アラトーの支脈)の雪を頂いた山並みが望見できる。眼下の谷あいを流れるサラフシャン川に沿って、膨大な数の民家が眺められた。背後に聳える草木一本も無い不毛の山とは対照的に、川原に近い平地には地下水も豊富なのか、屋敷は緑の大木に埋まったかのような美しさこのペンジケントの新市街も建物は全てスレート葺きかトタン葺きであった。ペンジケントはあの三蔵法師も通過した。

タジキスタン古代史博物館ルダーキ記念博物館に行くルダーキはタジキスタンでは超有名な歴史的人物サーマーン朝時代に活躍したイラン古典文学の父と言われる彼の名前を冠した通りの名前や建物も多いとか。博物館内部にはソグド人の古代都市の遺跡であるペンジケント遺跡から発掘された色鮮やかな壁画が展示されている壁画の他に動物の剥製石器土器や陶器骨壺などの古い時代の物やタジキスタンの民族用品なども展示されていた玄奘が訪れた6世紀には、まだソグ国家が安泰だったのだろう。8世紀の初めにはアラブ人の侵略に遭い、街は破壊され、多くの住民は殺されたそうでソグド人の古代都市のナゾ解きのために1946年から未だに発掘調査が行われている。「ソグドのポンペイ」と言われるほど、当時の住居の間取り街づくりの様子、そして壁画などを通じて生活文化の様が伺われる。

峠越 頂上付近

峠越えはザラフシャン川に沿ってザラフシャン山脈を通過し、アイニーの街での昼食を含めえんえん5時間、途中の峠には数台の車が放置されている頂上付近は積雪があり寒い。昨夜降った雨で、大きな水溜りが出来たひどい悪路で高度な運転技術が必要な難所であるがタジキスタンの大自然を満喫できる峠越えの道は秘境らしい景色を満喫できる。海抜3,378mのシャフリスタン峠の頂上を通過して幾重にも重なった谷間の向こうはペンジケント。その先はすぐ国境で、ペンジケントからサマルカンドまでは60kmの距離シルクロード上での要所であった。
悪路と寒さに耐えた数時間後やっとイスタラフシャンに到着。
イスタラフシャンとは、土地の女性のロクショナ残れ、という意味らしい。ロクショナとは、アレクサンダー大王と結婚したこの町の女性の名前。この町は2500年の歴史をもつ町といわれてい
狭い路地に入ると綺麗に清掃された昔懐かしい旧市街地、子供達がどこからとも無く集まる、外国人が珍しいらしい、最初は遠巻に伺っていたが西村さんに飴をもらうと嬉しそうにする様はかなり昔の子供達を思い出して愛らしい。壁に囲まれた住宅密集地を抜けると、きれいに手入れされ輝いた建物が現れた。コク・グンバズ・マドラサ(イスラム神学校)ウルグベクの息子アブドルラティーフは、進歩的であったに反発した保守的イスラム指導者達に騙されて父親に刺客を向け暗殺。このことを悔いたアブドルラティーフは、父の死を悼みこのマドラサを建てたといわれてい。今では敬虔なイスラム教徒達が学んでいます学生は授業中であったが親切な学生がトイレを案内してくれた。
夕闇迫るムグテパの丘で
シャフリスタンの町を一望する、ここは2500年前にアレキサンダー大王の攻撃を受け、中世にはモンゴルの攻撃も受けた都の址で、ゾロアスター教の聖地でもある。また、この町は職人の町とも言われるようだ。夕刻タジキスタン第2の都市であるホジャンドの町に到着。ここを流れるシルダリア川と背後の山々には、この町の攻防の歴史が刻み込まれている。
ホテルは2間続きの部屋で、見た目はダイニングテーブル付きのちょっと豪華な部屋で、ベッドルームはやや古びた感があったが、ベッドも大きく部屋も広った。
でも、やっぱりお湯の出はチョロチョロと貧弱なものだったし、シーツも枕カバーもちゃんと洗ってるのかな?と思わせるもので、観光地化への道のりは大分遠い感じ。

最終日 炬燵に出会う
昨夜は寒い上にお湯が出ない、体調がイマイチで、何だかお腹がシクシクする。今回はお腹を壊した人が多く、集まると正露丸の匂いがする。
アレキサンドリア・エスハータ博物館の見学。ゾロアスター教の祭壇などがありソグド人の歴史を見ることが出来る。地下に降りると広いホール壁に一面アレキサンダー大王の一生を描いた壁画が飾られていた。民家を再現した部屋には日本の炬燵と同じ様なものがあり昔を思い出した。炬燵は日本古来のものと思っていたが、シルクロードと炬燵は何を語るのだろうか、子供の頃、木炭を入れた炬燵で暖を取り、夜間は足を炬燵に入れて眠ったことを思い出した。

炬燵 バザール 神学校 アレクサンダー大王博物館 子供達



ホジャンドの町の中心にあるパンシャンベ広場に向かう、広場の中央に噴水があり、西側にモスク東側にソグド人の血を受け継ぐバザールがある。ソムニに両替して2階へ行くと、日本製のミシンが店先で軽快に動いている、自動刺繍中で、部屋の中では何人かの女性が手で刺繍をしている。階下を見ると色鮮やかな果物などたくさんの食糧品が並んで綺麗で活気がある。他の国のバザールは、どちらかと言えば不衛生さを感じたが、この国はあまり感じず、街中でも郊外に出てもゴミがほとんど見受けられない。帰国のために国境を越えなければならない、タジキスタン出国後は再びウズベキスタンの入国審査だが、我々だけかと思つたら中はかなりの混雑の上にどんどん割り込んでくる、しかし現地ガイドが『帰国便に乗り遅れる!』と抗議して特別に優先的に通過、さすが日本のパスポート問題なく通過出来たが1時間以上かかった。ウズベキスタンでもタジキスタンでも、税関申告書は手書きで2枚書き、更に持っているお金の金額まで記入しなければならず、あまりいい加減だと通過できない。
タジキスタンの僅かな部分を見ただけの旅であったが、ここでもソ連から解放された喜びのようなものが随所に感じとれた。
中央アジアに位置する天山山脈には、北側を通る天山北路と南側を通る天山南路という道がある。この道こそ、「シルクロード(絹の道)」と呼ばれているものに他ならない。この名は、中国名産の絹を西方へ運んだことに由来。 シルクロード周辺地域に住んでいた人々が残した文字記録は極めて少ない、寺院は石窟形式が圧倒的に多く、大乗仏教の宇宙観の影響を受けた大仏や多仏多菩薩の造像などがある。伝統的な部派の教義と大乗とが並存することも稀ではなく、ゾロアスター教など仏教以外の異教徒も多かった。シルクロードは、インドで誕生した仏教が中国へ伝来するのに非常に大きな役割を果たした。また、シルクロードは東西をつなぐパイプとして機能しただけではなく、ギリシャ・ローマや、ペルシャ的な要素なども取り込みながら、少しずつ仏教の形を変えて通り過ぎただけではなく、この地域にも根を下ろしていたしかし、長い間、栄えていたシルクロードの仏教も、1011世紀のイスラム教進出によって終焉を迎える。インド仏教と同様、シルクロードの仏教は、イスラム教の進出以前にかなり衰退していたものと考えられる。ところで、仏教はなぜシルクロードを東へと向かったのであろうか? 
数々の遺跡を見たが、あまりにも崩壊しておりコンピュータ・グラフィックスなどでイメージを示してもらわない限り理解できないと思った。
今回の旅行ではさまざまな料理を食べることができた。あまり口に合わないものもあったし、一度食べたらもう当分いらないと思うものもあった。ほとんど毎食、出されていたもので、いつ食べてもおいしいものがあった。まずナン。円形で平たく硬めのパンモチモチしていて冷めていてもおいしかった。また、スイカやウリは甘くておいしかった。あまりおいしいと感じなかったのは牛肉料理肉が固く味も良くなかった。
福禄寿会が行程を計画し、潟gラベルサライにお願いした。一般旅行では体験できない研修が出来た、しかし、今回の研修はかなり過酷な8日間であったがこの経験が後に役に立つことでしょう。
空の青さに負けない青の都を訪ね、見慣れない顔の人々や文字、意味のわからない言葉を耳にし、なれないスパイスの料理を食べてみることで遠い昔のシルクロードの一編を見、中央アジアの異文化を伺い知ることが出来た。


ロシア研修旅行記

69回目の研修会はロシア石造文化・美術の研修である。

 

ロシアは寒い・暗い・敵国の印象が強く、マルクス・レーニンらの学説を理論的基礎とした共産党の一党独裁体制の旧ソ連を思い出す。そして恐れられたKGB等の怖さを感じてしまうのは私だけでしょうか。

成田空港第2で参加者10名にて結団式を行い、各自荷物を出して搭乗するが767型機で大変狭くて座席は2・3・2であった。アルコール類は有料(ミニミニのウィスキーが5ユーロ、高い、$5かと思った)座席はあちこち壊れていて映画は面白くない、と言うよりまったく分からない。33年前に乗った以来のアエロフロートであるがサービスはあまり変わっていない。

二回目の機内食はあまり食べなかったと言うよりも食べられなかったと言うべき内容のものである。近くのロシア人はうろうろしていてうるさい、どこの国にも変な若者はいるものだ。

まったく長い一日、丸々一日がかかる行程は疲れるの一言・・・まだ半分で、モスクワ乗継まで5時間ほどある。ロシアはお昼を過ぎたぐらいだが日本は暗い夕方6時かな、やはり6時間の時差は大きい。

やっとモスクワに着いた、“ワ〜やっぱり寒いな〜”、11月5日なのに外を見れば雪が降っている。シエレメチエヴオ国際空港での乗り継ぎであるが30年前に出来た空港ターミナルのトランジットの待合室はなんとも薄暗くてガイドブックではかなり評判の悪い空港らしい。

乗り継ぎ時間1時間半ほどだが暗くて狭いところでバスが来るのを待つ。バス乗り場に行くが機体に問題があると言うことでまた引き返す、“大丈夫かなー”乗り継ぎゲートでバスを待つが搭乗時間が過ぎても一向にバスが来ない。遅れるのは当たり前のような感じであり、遅れのアナウンスもないので不安になるが、やっとバスが来て乗り込むと間もなくバスが動き、乗り継ぎゲートに向かうこと10分、いまだかつて空港内を10分もバスに乗ったことがない。

と言うことはかなり広いと言えるが、すでに暗くなっているのであたりはまるで分からないのである。

やっと搭乗した機体は3・3の座席で小さいがまだ新しく、国内線のフライトアテンダントは国際線と比べ、何故かかなり若くて美人(?)だ。足が伸ばせる場所に座らせてもらったので大変楽であった。

約一時間遅れて、かつてのロシア帝国の首都、サンクトペテルブルグに到着。

マイナス1度で寒い。

今夜はプルコチスカヤと言う大きなホテルである。お湯の出は悪いと聞いていたが熱いお湯も出るので温まって寝る。部屋は暖房がかなり効いているので外の寒さは分からない。12時過ぎに横になるがやはり眠れない。午前3時ごろからごそごそとラーメンを作ったりお茶を飲んだりメールをしたりで・・・まだまだ暗い。

青銅の騎手像 血の上の教会 ペトロパブロフスク聖堂 緑の碧玉と赤の薔薇輝石 イサク聖堂


2日目

天気は曇りでマイナス2度、サンクトペテルブルグは大変綺麗な町だ。300年前は何もない沼地であったと言うが信じられない。

最初に行ったのがデカブリスト広場の青銅の騎手像(ピヨートル大帝像)は、1500トンもある赤御影石の台(ガイドの説明では1500トンと言うが我々専門家の計測ではそんなにないであろうと思う)の上に立っている。又この巨石はフィンランド産で、石切り場から運んでくるのに約二年かかったと言うが・・・? 

あたりは霜が降りて白くなっていて風が吹くと大変寒い、落ち葉の清掃をする人々がいてロシアは清掃が行き届いている。

次にネフスキー大通りから見渡すと運河沿いにロシア正教のカラフルなネギ坊主(塔)が見える。

血の上の教会と言う何だか物騒な名前の教会だが、皇帝アレクサンドル2世が暗殺された場所に建てられている純ロシア風建築、隅々までモザイクや彩色タイルなどが施されにぎやかだ、外観だけの見学で内部は見られないのは残念である。

次は、ペトロパブロフスク要塞の中に入る。ペトロパブロフスク聖堂の中は、ひときわ目を引く緑の碧玉と赤の薔薇輝石(赤色はまさに血の色を連想させる)で造られたアレクサンドル2世と皇后マリアの棺があった。ピエトール大帝やエカテリーナ2世の棺が歴代の皇帝たちとともにこの教会に埋葬されているのである。

アレクサンドル・ネフスキー修道院に向かう通路の両側には18世紀から19世紀に活躍した有名人の墓地がある。このチフブイン墓地には、作家ドストエフスキーとチャイコフスキーの墓があり、お墓の前で記念撮影。そのほかにもたくさんの黒御影石や赤御影石とそれぞれ特徴のある墓石や案内板も設置されている。残念な事に時間が少なかった。日程の中にはなかったが我々としては一番興味深くて面白い。

次は、金色のドームでロシア帝国の大聖堂として建設されたイサク聖堂は世界の中でも大きい教会のひとつで聖堂内はイタリア産の大理石など数種類の石材が使用され、16トンの孔雀石・ラピスなどを使って柱や内装に使用、孔雀石などは細かく張るモザイク手法で飾られている。

外部の円柱に目が惹かれ、山本さん持参のスケールで計測結果、直径6尺、長さは測れないが40尺位だろうか?ひとつ石の赤御影であり、教会全体で112本の円柱の花崗岩はブイボルク付近から船で運ばれ、陸揚げ後はロシアで始めて敷設の鉄道で運ばれた。

この円柱の柱を設置するのが大変困難な作業であった、その設置方法が模型の足場で説明されている。又、湿地帯ゆえに基礎工事には5年の歳月が費やされたという。

昼食後は楽しみにしていたエルミタージュ美術館

ロシア・バロック様式建築で、漆喰が塗られ緑の壁に白い柱、金の装飾が施されて壮大な建築で、真の創設者はエカテリーナ2世である。

広大な都市計画により西欧諸国の建築家を招いて作られたということでモスクワから首都を移しロシアの中心都市として発展したということです。
その後エカテリーナ2世が啓蒙的な君主として活発な文化、芸術活動を行い発展した。
バロック、クラシック様式建築でとても大きく、美しい建物が並んでいます。革命・戦争を乗り越えて残された美しい都です。写真ではみていたが本物を見るとこのような建物があるのか!

皇帝の凄さ・偉大さ・ロシア帝国だと思いました。
館内は超広大と言うべきで、まずエジプトの展示館から入るが、そこは素通りして、有名な絵画を目指す。ガイドから、はぐれたら迷子になりそうだがレオナルド・ダ・ヴィンチの[リッタの聖母]ラファエロ・ ルーベンス・ エル・グレコ・ レンブラント・印象派セザンヌ・ ルノワール・ ゴッホ・ マチス・ ピカソなどの作品を観ることができる。

館内は汗が出るほど大変暑くどこの聖堂の中も暖房されていて暖かい、さすがに寒いロシアである。昼も夜もロシア料理、夜は楽団を呼んで賑やかに宴会。

リッタの聖母 ドストエフスキー チャイコフスキー墓 チフブイン墓地 エカテリーナ宮殿


3日目

エバタの橋を渡り東に向かう。大分気温が下がり一面に雪が見られる。バスを降りると歓迎の音楽が鳴り響く中、エカテリーナ宮殿西の門に向かうが早いのか入り口が開いていない。かなり風通しが良くて寒い中で待つが、突然、係員から入り口は東門に変わったとのこと、団体が来ないうちに反対側の東門まで移動するが、寒いので自然に駆け足になる。

中には有田焼の壺があり、東側窓辺には目覚める天使(キューピットの目覚めの彫刻)が置かれていて、西には眠れる天使(お休みの彫刻)がある。エカテリーナ2世の宮殿を見学し復元が続く館内は、寄木モザイクの床の修復作業や金箔を張る作業なども見学、我々にはこの作業のほうが目を奪われてしまう。中は金箔が張られ大変美しい。中でも琥珀の間は素晴らしいの一言に尽きる(しかし上段の部分はまだ琥珀の不足でその部分を絵で表現されている)が、第二次世界大戦中ドイツ軍に占領され、無残な姿になってしまった写真がありそれらの修復はまだまだ続くのである。

外はうっすら雪があり大変寒い。しかし勉強熱心な会員は昼食時間を遅らせて、エカテリーナ宮殿に向かう途中発見した一般墓地に寄るように現地ガイドに交渉して実現、一般墓地の見学である。

雪があり大変寒い、寒い中縁石工事をしている人々がいた。墓地の広さは一坪半ぐらいで、それ程立派なものはなく、有名人の墓地とはかなりかけ離れている、ステンレスの墓もいくつか見られた。新しく土盛りされた墓地にはたくさんの造花が供えられて、もの悲しさが伝わってくる。かなりの寒さと飛行機の時間もあり、急いでバスに飛び乗り、その後は国内線でモスクワに向かう。

大型バスが空港に迎えに来た。モスクワ現地案内人はサンクトペテルブルグのガイドと同じ名前のガリーナさんだがこちらは年輩だ。

ホテルはなんとも馬鹿でかいコスモスホテルである、19時前にホテルに入り夕食(バイキング)どうしてもバイキングは余計に食べてしまう。モスクワ・コスモスホテルは大変大きいが古く、カジノが(仲間の中に、数十万の勝利者もあり、敗者もあり)ロビーの中にある。どこの国に来たのか迷うほどの雰囲気である。24時間眠らないホテルのようで、やけにセキュリティが厳しくエレベータールームに行くごとに部屋番号のカードを見せなければならず、安全なのは良いが先ほど通ったお客の顔ぐらい覚えて欲しいものだ。

だいぶ眠れるようになったがいつものように5時には起きてしまう。

石造 目覚める天使 一般墓地 新しい墓 ノブォデヴイッチ修道院


4日目

今朝は9時の出発、ノブォデヴイッチ修道院に向かう。久しぶりに青空がのぞいているが寒いので格好は二の次、自分の事は自分で守らないといけない。冷えるせいか今日はトイレが近くなる。

ノヴォデヴィッチ修道院は、2004年世界遺産に登録されたばかりのものです。
現在は女子修道院となっていますが、元はクレムリンの出城だったそうで、堅牢な城壁に囲まれて上空から見ると十字架の形になっているようです。近くに湖がありチャイコフスキーが、あの名曲「白鳥の湖」が頭に浮かび上がったところだそうです。

修道院生は見ることなく次に行くのがお土産屋さん、キャビアを勧められるが天然物は大変高いので買う気にならない。

次は参考になる墓地見学である。エリツィンの墓のある墓地は前日の墓地とはかなり違い大変立派で、ここの墓地には、ゴーゴリ、チェーホフはじめ近くにはフルシチョフ、グロムイコ、ゴルバチョフ元大統領夫人などの有名な方々が静かに眠っている。

エリツィンさんとフルシチョフさんの墓の前で集合写真を撮る。ここもまた時間が少ないので駆け足で写真を撮りまわるがとても撮りきれなくて残念であった。

お昼前にモスクワ大学前の雀が丘展望台からモスクワの町並みを見学、モスクワは水が大変豊富であったので大きな町が出来たと言う、やっぱり水は一番大切なものなのだ。

人の集まるところ必ず出店がありマトリョーシカが売られていた。次はお昼、しかし昨日とまったく同じでは残念・・・ワインやウオッカを飲んで温まり、元気で赤の広場に向かう。

エー---赤の広場ってこんなに狭いの・・・もっと広い広場を想像していた、しかも聖ワシリー聖堂に向かい下っているぞ。

途中は寒いのでグム百貨店の中を通って聖ワシリー聖堂に行く事にした。赤の広場脇にある宮殿のような百貨店で内部は吹き抜け状となっていて日本の百貨店とは大分異なる。やはりもと国営なので感じが違う。

聖ワシリー聖堂は真ん中の高さが47mで1本のねぎ坊主(塔)の周囲をぐるりと8本のねぎ坊主が取り巻いている。9つのねぎ坊主は、それぞれがロシア正教の教会になっている。
聖堂は、イワン雷帝がカザンの汗(ハーン)を降したのを記念してポストニクとパルマの2人に設計を命じたものだが、完成して、あまりの美しさにびっくりし、2度とこんな美しい建築物ができないよう2人の設計者の目をくりぬいたという。昨年行ったインドのタージマハルにもこのようなむごい話があった。
現在は、博物館になっており、中のフレスコ画は16世紀のもの。今回の旅行ではイコン(キリスト教において神や天使や聖人を記念し象徴として模された絵や像で、敬拝(崇敬)の対象とされるもの。形を意味する)の説明が何回もあった。

赤の広場の「赤」は共産党の赤じゃなくて、ロシアでは革命以前から「赤」に「美しい」という意味で、だから「美しい広場」という意味にもなるらしい。

赤の広場に行く前に道路を挟んだ向こう側に、ギリシア神殿を思わせるボリショイ劇場がある。バスの中にてオプショナルの話があり、ボリショイ劇場(専属のバレエ団、オペラ団の公演は有名である)でバレエを見ることに決まり$220(一番良い席)を支払う、こんな機会でないとめったに見られないのでみんなで見ることにする。せっかくモスクワに来たのだから、バレエを見たいと思っていたところだったので良い機会に恵まれて素晴らしいバレエを見ることが出来た。

ボリショイ劇場は旧館が工事中のために新館での公演であり、1幕から4幕まで約2時間、楽しむことが出来た。

掛け声のブラボーも度が過ぎるとうるさい、そんな人が前にいた。

早くも今日でロシア最後の夜になってしまった。さてさて最後の夜である。最後の晩餐はバレエの前にいただいたがこれまた変わり映えしない。「これがロシア料理!」という特徴のある料理に1度でもお目にかかれなかったのは残念です。又の機会があったら、自分で選んで食事をしてみたいものです。

ホテルに戻り帰国の用意である。

聖ワシリー聖堂 エリツィンの墓 フルシチョフの墓 元大統領夫人の墓 モスクワ大学

最終日

ホテルを9時に出発するのだが、スーツケースはドアの外に出さないで、部屋の中においておくのです(サンクトペテルブルグのホテルもそうでした)。寒いのは変りがないが、今朝も天気が良くてみな元気です。最初にレーニン廟に行くが休みで見られない。どうもサンクトペテルブルグのガイドよりも段取りの悪いガイドだ、変に無駄な時間が多い。

クレムリン宮殿内は教会が多い。40トンもある大きすぎる大砲は一度も発砲されなかった。

大きいと言えば高さ6m、重さが200トンの世界最大の鐘があるが火災で水をかけたために一部が欠けてしまいかけらと共にある。

ダイヤモンド庫には世界最大のダイヤモンドの原石やプラチナなど目の保養どころか、きらびやかな光で目が痛い、クレムリンを出ると今回の研修はすべて終りになる。

昼食をレストランで食べていると若い女性の4人組の中に日本語が少し話せる人がいて、賑やかに昼食会が出来た。日露友好のお手伝いをしたわけです、これもまた福田業と言えるでしょう。

その後少し雪が降り出したアルバート通りでウオッカやキャビアを買い込んで空港に向かう。

渋滞でかなりの時間がかかってしまった上にセキュリティが厳しく、靴を脱ぎナイロンスリッパに替えての検査である。その後は搭乗手続き。通路側はすでにふさがっていて何十年ぶりかで窓側であった。

荷物の重量は20キロ(エコノミーの場合)を超えるとかなり超過料金が取られます。ちなみに32キロぐらいだと3万ほど超過料金がかかります。出発は少し遅れたが、成田には定刻に着きました。

どんな国であろうかと期待と不安が入り混じった今回の旅行であったが、寒さと鉛色の空はロシアの印象を少し変えた。

800年と言う歴史はそれ程古くない。他の国に負けまいとする姿勢が現在のロシアを牽引しているのであろう。フランスのパリに負けまいとするサンクトペテルブルグのネバ川との景色はセーヌ川とルーブルを重ね合わせた感じがしてしまうのです。

一番残念なのは石で作られている建築物などの多くは、漆喰で塗り固め色彩を施してあることである。見た目は綺麗だが、雰囲気と気品さが薄れ、希薄な内容に感じるのは私だけであろうか、石材に携わるものとしては、石文化を大切にしてほしいものだ。研修が4日ぐらいでは見たいところも見る事が出来なかった。広いロシアを再度見てみたいものです。

冬はマイナス30度にもなる中での生活は、この国を築くのに大きな障害になったかもしれないが、また逆にプラスにもなった事でもあろう。気候風土と広大な土地・資源が今のロシアを作り上げたとも感じた旅でした。

2007/11/5〜10

案内板 墓2 墓3 壁墓地


大砲 聖ワシリー聖堂 グム百貨店の中 クレムリン宮殿





インド研修旅行記

釈尊仏跡巡拝とブタガヤ大塔修復福田業の旅

今回の海外研修は添乗員を含めて14人。現地で解説をお願いした日光上人は〔タイ国バンコックで修行されインドで妙法山日光寺開堂・ボランティアでサッダ小学校・ニチコウミルクフアームの開苑など数々の業績がある〕タイ僧の服装である。現地小学校の生徒等に配布する荷物のダンボール箱(毛布100枚等)が山積みである。荷物の検査などを済ませて二階で結団式、石本副会長挨拶・日光上人から〔インドにボランティアをお願いしたい〕などの話の後、乾杯をして今回の旅の安全を祈る。

インド航空は初めてなのでどんな感じか思考中、心配をよそにインド航空315便は関西空港を定刻にフライト、約4時間半で香港に到着する。機内食は早速カレーである。香港で乗り継ぎ客の関係で待ち時間1時間のはずが2時間近く機内でカンヅメ状態。〔今までに乗った飛行機ではなかった事ですが、搭乗券をかばんのポケットに大事にしまっておきましょう。エアインディアでは飛行機から降りる時に搭乗券を回収します〕
そんなエアインディアもようやくゆっくりと移動を始めました。
すると通路前方に、右手を高く掲げた乗務員が登場しました。
高く掲げた右手には何やら筒状のものを持っています。いったい何なのでしょうか?
インドは産業革命では完全に遅れをとったものの情報革命では世界有数の〔IT先進国〕に変貌したバンガロールは有名である反面、汚い・うるさい・臭い国と言う判断や知識を持っていたのですが、はたしてそれは本当なのでしょうか?
実は乗務員が高く掲げている筒状のものは、スプレー式の消毒剤なのです。
インド政府の御達しにより機内を消毒しなければならないとのことなのです。防虫剤のごとく鼻につく匂いには閉口する。
インドはまだまだ遠い!

エアインディアが香港を飛び立つ、機内は満席に近い。まもなくまたカレーの夕食のようだ。

デリー空港到着は日本時間で真夜中の1時を過ぎた。空港建物が古いこともありとても暗く感じた。入国審査など難なく過ぎたが我々の荷物が多いこともあるのか、荷物がなかなか出てこない。外は霧であるが騒音と排気ガスの匂いがきついのでスモッグに感じて霧には思えない。ところかまわずクラクションが鳴り響く、確かにうるさい。40分ほどでホテルに到着。マリーゴールドの花のレイをかけてもらい部屋に向かう。インドの国旗のオレンジ色はお釈迦様の衣の色、ヒンズー教の人が神様に捧げるマリーゴールドという花の色、真ん中は平和の白そして緑は農業国を意味、真ん中に法輪がある。

そんな仏陀の国にやってきたのである。

仏足石 ナーランダ大学跡 舞踊団

2日目

ホテルを出てクトウブミナールへ、インドで始めて奴隷王朝を打ち立てたクトゥブデイーン・アイバクが勝戦記念に建てさせた赤砂岩で出来ている塔は5層で高さ73M、内部は380段、1層の部分にはアラビア文字でコーランが刻まれている、近くには4世紀から建っていてほとんど純度100%で錆びていない鉄の塔がある。右側には息子が倍の大きさの塔を作り始めたが途中で死亡、石をコンクリートで固めた未完の塔がある。(インドには900年も長持ちしているセメント技術がある)その未完の塔で数人の作業員が石を手渡しで運んでいる様を見た我々は、すぐさま彼らのお手伝い。未完の塔復元に彼等と共に働く。福田の旅の第一歩である。

デリーから(国内線)パトナに向かう。

しかし約二時間の遅れで見学する時間がなくなり直接ホテルに向かう。バスの車窓からはインドの生活のさまが良く見ることができ、日本の明治・大正・昭和の時代をこのインドで今見られるように思える。空気が汚れていないために真っ赤な太陽が沈んで行く光景は実に美しくなんだか好きになりそうなインドである。ホテル着後、インドには温泉が少ないが9箇所のうちの一つ、お釈迦様が入られた温泉精舎に行き胸までつかる深い温泉に入浴、極楽極楽。温泉は下から湧いてくるらしい、カースト制で入るところが決まっているが我々は一番上段の温泉に入浴。ここは昔マガカ国で高さ5M周囲40キロの要塞で築かれていた裕福な国だったようです。〔カースト制度、バラモン(司祭)クシャトリア(王族・武士)ビアイシヤ(平民)シュードラ(奴隷)この他にどの階級にも入れないアンカーストがたくさんいるのです。

このように人口比率ではヒンドゥー教(80%、)とイスラム教で大部分を占めているのですが、実は人口比率を無視して目立っている人たちがいるのです。それは・・・「シーク教徒」です〕
シーク教はイスラム教の影響を受けてヒンドゥー教を改革した宗教で、人口比率では約2%です。シーク教徒の外見的な特徴は、髪や髭を伸ばしていることと、頭にターバンを巻いていることです。私たち日本人がインド人のイメージとして持っているもののひとつに、この「ターバンを頭に巻いている」というのがありますが、私もインド人は皆ターバンを巻いていると思っていました。それは人口比率2%のシーク教徒の人たちだったのです。

3日目

外の寒さに目が覚める。ホテルを出発したのは5時であった。5時50分日の出時間なのでまだ暗い中釈迦が法華経を説かれた鷲山(りょうじゆせん)に登る。昨年整備されて大変歩きやすいのだが暗いので牛の糞を踏まないように気をつけなければならない。登る途中には香室跡や瞑想するための石窟などがある。空が少し白みはじめて峰が連なっているのが分かる。周囲を五つの峰に囲まれている五山信仰発祥地である。(日本では京都五山・鎌倉五山など)鋭く尖った岩が鷲に似ていることがこの名の由来。日本妙法寺の多宝塔や北東の鬼門を守るための祠、五山の説明などを受け煉瓦で囲われた香堂正面には金色のブッタ像が祀られ、マリーゴールドの花輪がいくつも供えてある。我々も線香と花を供え、そこにひざまずいて合掌、日光上人の読経により法要(ブッダン サラナン ガッチャーミー・ダンマン サラナン ガッチャーミー・サンガン サラナン ガッチャーミー。ブッタに帰依・その教え・修行者の集いに帰依しますの意)。そしてすがすがしい空気と静寂の中、御来光にあわせて参拝。春と秋のお彼岸に太陽の光は富士山頂上から出雲大社を通って一直線にブタガヤに結ばれているとのこと、日本とはこの輝かしい太陽の光で繋がっているのだ。大変気持ちの良い朝であった。

その後、仏教総合大学として発展したナーランダ大学跡(生徒数1万人、先生2千人)7世紀が全盛期の遺跡で周囲15キロの建物跡、当時すでにロケットの作成図が出来ていたという。学生宿舎や純度100%の鉄を作り出した製鉄所や玄奘三蔵法師も学んだ学舎などを見学。しかし12世紀のイスラム軍団の侵入と破壊により廃墟と化した。

次にマガタ国の王ビンビサラが作った竹林精舎見学、平家物語の祇園精舎は有名であるが竹林精舎がインドで一番早く出来た精舎である。何百本もある竹がまるで太い木のようにまとまって生えている静かなところである。

次にビンビサラ王牢獄跡を見学。ビンビサラ王の息子アジャセ王子が出生の秘密を知った後に父である王を七重の壁で囲まれた牢に閉じ込めた。王と同じように母も幽閉、幽閉された夫人に釈尊が阿弥陀仏の慈悲を説かれたと伝えられている。このことが観無量寿経に説かれている。

日の出 霊鷲山 迎佛の塔

ラジギールから四大聖地〔ブッタ生誕の地ルンビニ・第二に成道の地ブッタガヤ・第三に初転法輪の地サルナート・第四の聖地がブッタが80歳で生涯を閉じた入滅の地クシナガラ〕の一つ釈尊成道の地ブッタガヤに向かう約3時間のバスの車窓から見る光景は、日本の何時代なのか?哀愁が漂う。我々は大塔の館長から歓迎を受け大塔修復作業のボランティア活動の始まりである。52Mの大塔に足場が架かる中での修復作業、現場作業員達は一緒に修復作業が出来ることを大変喜んでいた。正にボランティアとはこのような事なのか。

足場下には釈迦が悟りを開かれた金剛法座(菩提樹のたもとを名づけられた)が菩提樹の木と並んでいる。その金剛法座を上から見ての作業、気温は30度を超え汗が流れる。二階部分では同行の花屋さんにより献花。(二階の釈尊は若い頃の釈尊)〔オウムの麻原が金剛法座に乗ってからは周りが囲われて、入れないようになっているが特別の計らいで中に入り金剛法座に手を掛け参拝する。〕偶像崇拝を禁じた時代、釈尊の仏像が出来るまでは釈尊の足跡を石に刻んだ仏足石が参拝の対象であった。仏足石もガラスの箱に入れられているので手を触れることが出来ない。日が暮れる大塔を後にホテルに向かう。

4日目

早朝にヨガ教室。その前に近くに在る日本寺の大きな宝篋印塔や本堂を参拝。そしてヨガの基本を30分ぐらい行う。あちこち痛かったが身体が軽くなったような感じであった。インドの気温は朝夕涼しいが日中は30度以上になり寒暖の差が大きくて体調を崩し易い。

朝食後に日光上人が作られたサッダスクールを訪れて生徒にプレゼント。今日はお休みだが特別学校に来てくれた生徒5歳から12歳の子供たち35名(普段は50名)目が輝いていてとても可愛いい子供たちである。しかし学校には一家に1人しか入れないとのこと、日光上人は、連綿と続くカースト制度やそれに起因する社会的な矛盾を断ち切るためには貧しい子供達にも生きる希望と階級に関係ないチャンスを与える教育こそがその手段となり得ると考えられた。

貧しい人々に食べ物などをいくら与えても発展しない、教育こそこの地域を豊かにしていくことである、正にその通りであることを次に伺った毛布の配布でしみじみ感じた。我々が向かった先にはどの階級にも入らないアウトカーストの貧しい人々がどこからか何百人も集まってくる。主に女性だが最初のうちは配布の毛布を並んで作法に従い受け取っていたが、わずかの時間に取り合いになってしまい危険さえ感じてしまった。一家に一枚の100枚の毛布が取り合いとなりわずか6分でなくなってしまうのであった。教育の大切さは学校の子供たちを見て良く分かった。

列車の時間が迫っているので急いで駅に向かう。駅は混雑している、乞食もいる、物売りは人の波を掻き分け移動する、線路もホームもまるでゴミ箱のようである。人糞以外は何でも落ちている。いや線路には人糞さえ落ちている。正に臭い汚いうるさいのである。予想外に列車は定刻より少し早く入り定刻に出発、ガヤ発1410特急列車でムガールサライ(ベナレス)に向かう。定刻にベナレスに到着したがこれが駅のホームかと思えるような有様である。ポーターがスーツケースを2個頭に載せて運ぶ様には驚いた。

今夜は民族舞踊団を迎え楽しく夕食会。時間の関係でブッタが乳粥を口にしたスジャータ村には行けなかったが、ガイドの計らいで乳粥(米をミルクで焚いて甘く味つけたもの)を試食出来た。

5日目

4時半モーニングコール。早朝からお祈りなのかスピーカーから賑やかに音楽が聞こえる。ガンジス川の沐浴風景を見ながら我々も沐浴に向かう。暗いうちから沐浴をし、御来光を拝む太陽崇拝。日曜日でもあり大変な人出であるが我々は小さな船に乗り川岸で沐浴している人々を写真などに収める。亡くなった人々の供養に花ローソクや魚をそれぞれ5ルピー(1ルピーは3円)で求め精霊流しを行う。

6時を過ぎると真っ赤な太陽の御来光、沐浴の人々が一斉に手を合わせ拝む。次に船を岸に寄せ、我々も沐浴である。聖なる川と言っても動物の死体やら時には人間の死体が流れてごみだらけの中に入るのは少し勇気が必要であるが、せっかく来たからには沐浴を試みた。〔死体を荼毘にふしてその骨をガンジス川に流す、荼毘にふすには日本円で2万円も掛かるのでお金の無い人は電気で焼き、さらに貧乏な人はそのまま死体をガンジス川に流す。今日は大きな犬の死体が流れて来ました。綺麗、汚いではなく、浄不浄の世界が混然一体となっている不思議なところです〕

ガンジス川の水は意外と温かく、澄んでいる。川底の砂が心地よく足に触る、穢れのすべてを洗い流す事が出来、もとの清らかな心???を取り戻したのでした。だが・・・ホテルに帰り急いでシャワーで洗い流す!!!インドの人々はガンジス川で沐浴をすることが一生の願いらしい。であるから祭りと重なり大勢の人々が感動と感激で大変賑やかであった。

仏教4大聖地釈尊初転法輪の地サルナート

まず最初に見学したのは「サルナート博物館」ここは、インドのお札に出てくるアショカ王の石柱のてっぺんにあった4頭獅子の彫刻が、入り口にデ〜ンと置かれていました。見応えがある。後は、有名な法輪が展示されています。他は、仏像とヒンドゥー教の石像などなど。

次に釈迦が悟りを開かれ、一緒に修行した5人に説法(初転法輪)するために歩いてサルナート(鹿野苑)に向かわれた釈迦の姿は金色に輝きオーラが出ていたと言う。釈迦を迎えるために建てられた迎仏の塔を見学
 
次に遺跡公園(Deer公園)。鹿がたくさん居た場所で、サルナートとは鹿の主を意味している、奈良春日神社の鹿はここを真似たのである。仏教遺跡ここにアショカ王の4本の石柱が折れたまま柵に囲まれてありました。大きなダメーク・ストゥーパ(高さ43.6M周囲36.6Mもすごい、ちょっと崩れかけですが側面の一部に綺麗なレリーフが残っています。足場がかかり修復の最中でしたのですぐさまお手伝いをしました。一緒に働く彼らの笑顔が印象に残ります。かなり大きなストゥーパなので日陰で疲れた体の休息。

次はムーラ・ガンダクテイ寺院。初転法輪寺内部にある壁画は日本が協力しています。野生司香雪(18851973)と言う画家が描いた作品です。これは戦前のことで全然知りませんでした。壁画はブッタの生涯を描いたものです。内陣に入り線香を供え、上人の読経に合わせ復唱し参拝する。
ここでの説法が始まりとなって、日本まで伝わり、今日の日本があることを思えば、ここが日本の原点のような気がしたのです。また、宗教的こころの喜びを感じてしまった。 
ベナレス1440発(9W724)の飛行機が遅れたために特急列車はキャンセルしてバスでアグラに向かうことにするがガタガタの高速道路を4時間以上で疲れた。ホテルに着いたのは22時を過ぎた。今回の釈尊巡拝の旅は終了。

6日目 

世界を代表する観光名所であるタージ・マハルへ訪れる日だ。バスは、直接目的地までは行けないので、駐車場で電気バスに乗換え数分で到着。バスを降りて歩くとかなり厳しいセキュリティがあり入場料は1000ルピーと高い、ミネラルウオーターのボトルと靴にかぶせるカバーが配られる。やがて異常に大きな赤砂岩の門が見えてくる。そして門の奥には、泉水と庭園を前景にしてあのタージ・マハルがある。左右対称の白い大理石の巨大な御妃様の墓。私の想像より大きかった。単純にすごい。22年の歳月と国家が傾くほどの莫大な費用をかけ作り上げた壮大な白亜の殿堂と言うべきか、壁の模様には宝石などが使用され埋め込まれている、建築方式にも色々工夫されているのが面白い。むごい話であるが、この建築に携わった職人たちの手を切り落としこのような素晴らしい建物が二度と作れないようにしたのです。

次に赤砂岩で95年の歳月をかけ作り上げられたアグラ城へ。ここも普通ならすごいと思うのかも知れないが、タージ・マハルのインパクトが強かったので印象は弱いのも事実.
どちらに入るにもかなりセキュリティが厳しい、おまけに物売りがうるさい。(何年か前の中国もうるさかったがこれほどではない)無視をするかバスに乗ってから値段交渉が一番得である。〔くれぐれもお金を先に渡さないことです〕物乞いの子に生まれた子供の腕や足をわざと切り落とし物乞いにするというすごい実話がある。

アグラ発デリーに向かう。またまた4時間以上のバスの旅になる。なにしろ高速道路と言えど整備が悪いうえにバスも悪く疲れます。途中道路反対側のドライブインに入る、出るときは入ったところまで逆走が出来るとは驚きである。バスは州を通過するごとに通行税を支払うために停車する。するとトイレ休憩である、周りにはトイレが無い、出店があるが薄暗いトイレと言っても野天である。出来るだけ車の近くでしないと靴に何かが付いてきます。インドではついに公衆トイレを見なかった、どこでもトイレになる国である。デリーに近づくにつれ車の混雑がすごい、大変な運転技術を要求される。やっとレストランに到着、インド風中華料理でした。

7日目

とうとう最終日になってしまう。多少の腹痛はあったようだがみんな元気である。

デリー市内観光と言うか午前中はお土産屋さん回り、これが意外と疲れる。買いたい人は時間が少ないが買いたくない人は時間が多すぎる、店員に付きまとわれるのはわずらわしいものである。乞食や物売りも同じことが言える。後は市内観光国立博物館は宗教関連の美術品・中央アジアの芸術品などがあり、館内は広くてとても時間が足りない。インド門はパリの凱旋門に似ているが第一次世界大戦の戦死者を弔うために建てられた高さ42Mの門で周りが広い公園になっていている。その後ガンジーが住んでいた博物館に向かいガンジーが暗殺された場所などを見る。マハトマ・ガンジーはインド独立の父・宗教家・政治指導者で身分差別となっているカースト制度、不可触民を撤廃の運動はしたがカースト制度を否定しなかった。昼食は最後のインド料理であるがやはり香辛料がきつく飽きてくる。

昼食後ラージガート公園墓地へ、黒御影石のガンジーの慰霊碑がある。ここも靴を脱いで入らなければならない、信仰厚き国インドではいたる所で靴を脱ぐところが多い。夕食は中華料理と言えどやはりインド風で(中華風インド料理と言うのが適切)あまり品数が無い。デリー発2315AI314インド航空は時間通りに飛ばない、したがって時間通りに着かないが無事関西空港に着きました。

金剛法座 ガンジス川の沐浴 インド門

釈迦が仏門を開いた国インドはやはり聖地なのだ。今年は釈迦誕生2250年の記念すべき年である。かって天竺と言われていたころは行きたくも行けない遠い道程であったが我々は一般ツアーでは体験できない数々の事とを見、聴きすることが出来た。一生に一度はインドに行ってみるのも良いであろう。先進国と言われる日本人の価値観を捨て世界にある価値観を実感することで世界にはいろんな人がいることを分かっておくべきである。私は最初大きなカルチャーショックを受けるがインドには違う価値観がある事に気が付いた。釈迦が35歳で悟りを開いた地であり動物と人間が一緒に暮らす国インド、南無不可思議な国、みな合掌して挨拶する国インドであった。機会があったら釈迦が80歳で入滅の地クシナガラにも行ってみたいものだ。

中国東北地方研修旅行記

今回の研修旅行は中国東北地方の石材生産地でした。中国の石材加工産地と言えば厦門で製品加工されているのが主ですが、より良い石材を求める福禄寿会は中国東北地方の研修を決めたのです。今や日本の石材産業に中国石材は切り離すことが出来ないお互いに大切な国になっていますが今年2月頃から反日デモが繰り返され、石やたまごを投げられないか心配をしていたのですが各地の石材業者の献身的な案内に感謝、感謝である。しかし今なお政治的にギクシャクしたところが見受けられる昨今で実に残念なことです。

大連空港 蓮華・亀腹の加工 石材市場 市民マーケット ロシア人街


5月14日。全日空NH947便、関西空港より元気に出発。大連着(遼寧省)、人口580万人で平均気温5度〜16度と聞いていたので寒いかと思っていたのですが、天気が良い為か意外と暑いのです。
ところが第一の問題が発生、牡丹江行きの飛行機が18:40分まで飛ばない事が分かり約5時間の待ち時間が発生してしまう。どうしましょうかと現地案内人(女性)は不安顔で問う、しかし中国通の福禄寿会員少しもあわてない。まずはのどを潤してから次の段取りは、大連小林石材工場の見学と大連市内観光に決定し行動開始。急遽チャーターしたマイクロバスで工場へ向かい、智子社長の案内で工場見学。工場内では石目がきれいな2002の石を蓮華・亀腹の加工に一生懸命である、ほこりの多さが生産量に比例していると言うのは昔の話だと思っていたが当っていそうです。
その後石材市場を見に行くと広い場所に建築石材が積み上げてあり、石材業者や一般市民が訪れ希望の寸法にサンダーで切断してもらって買っていくのです、工具屋さんもあり値段がいくらするか興味深々である、たどたどしい中国語で値段の交渉もまた楽しいものです。安いので研磨砥石をお土産に買う人もいました。市民マーケットには果物・衣類・食料品など様々なものが並べ売られている、犬の肉が美味しいと言う話があるがその肉は見当たらなかった。どこで見つけたかいろんな物を買い込んで来るから面白いしまた格別値段が安い。これでは日本の100円ショップ顔負けでしょう。時々異様なものや異臭がするがこれまた体験である。
大連はきれいな街である。中国の印象の一つに自転車が多いはずが、この大連は坂道が多いのでほとんど見受けられない。
ロシアに近いので交流があり、ロシア人街(ロシア人は住んでいない)があり異国の情緒が感じられなかなか面白い。望遠鏡がかなり多く並べられていたが人気があるのかな?北朝鮮の観察それとも広い世界を見るのかな?海産物が豊富で美味しくて安い。
搭乗時間が近づいたので空港に戻ると構内のアスファルト舗装工事中で異様な臭いと工事機械が道をふさいでいる、日本ならこんな時間に工事をやるだろうか!ここは中国だ気にすることもないさ。
小さな飛行機(山東航空)で19:30分にやっと牡丹江(黒龍江省)に荒っぽく着陸。ホテル着後レストランで夕食となりかなり長い一日であった。

泥濘悪路 石材採掘場 石材採掘場 石材採掘場 脇道にジープ
農耕牛 林口入り口の碑 K12採掘場 小割 火薬小屋


15日
大変よい天気だ、中国語では很好天气である。早朝4時ごろからホテル近くの公園でなにやらにぎやかな音が響いて起こされた感じだ。早起きして色々体操をしているようだ、見に行こうかとも思ったが眠いのが先行してしまった。いやはや元気な人の多いこと!
昨夜合流の2人を含め、りん林こう口に向かう高速道路を利用しても一時間程かかるのでバスの中で現状の石材情報について、『石材業界はまだまだ20年は混乱するでしょう、これからは「汗の時代から頭の時代である」上手く頭を使いたくさん儲けて下さいと』福禄寿会顧問で石材新聞社松井記者のお話がありました。
田園風景の中、突然バスが停車。その脇道にジープが並んでいる。馬社長の案内で石材採掘場へ向かう為のジープ4台であった。それぞれ分乗し大変な泥濘悪路の格闘の始まりであった。採掘を始めて10年のぬかめ糠目いし石の採掘現場に到着、30分格闘して着いた採掘場だ。誰かが庵治石採掘場に似ているなと言うが?大分大きな石が出そうな層である。石目も色もなかなか良いのでユーザーが希望している石と思うのだが思いは色々である。休息所は半端石で上手く作られていて煙が出ていた。
山から見る景色はまた格別で一面に紫色のつつじが咲き眺望が大変良い。しかしこの道を大きな石を積んで下るトラックは想像に絶する。事故のないことを祈ります。
もちろん我々も来た道を又命懸けで下るわけである。バスが見えたときはほっと胸をなで下ろしたのでした。広い舗装道路を行き来する農耕牛はなんと長閑なことだろうか。そして広い畑を耕すのは牛2頭、そのありさまは何十年か前に見た日本の風景である。まもなく林口入り口に建つ大きな案内石像を写真に収める為にバスが停車した、高さも才数もまるで見当がつかない巨大な物でさすが石材産地だ。比較のために大竹君は急坂を駆け下り、川を飛び越え碑の前に立ち手を振る彼に、それでは皆さん手を振ってお別れしましょうと冗談が飛び交う。
つぎは昼食を抜いても良いからと予定を変更してK12採掘場に向う、皆さん昼食も忘れ意欲的に見て回る。この採石場はかなり大きいし道路状況も良い。機械力と人手が上手く動いているように感じた。ジブクレーンが休み無く動いている近くでは豆矢を上手に使い小割をする人が数人働いていました。
此処にも半端石で上手く作られた火薬小屋があった。次は2000年に廃坑になったK7採掘場へ(大きな石材が出なくなった為)。確かに粒が小さいものばかりだ。大きな穴に水が溜まっている廃墟の跡はやはり寂しいものです。
昼食が遅くなったが片田舎のレストランの食事はなかなか旨い。店の中奥に仏さんが置かれていた香籠の脚が三本だが位置が少し違うので覗き込んで見ていると、店の人が触れてはだめと態度で示した。言葉が通じなくても分かるものですね。
またまた舗装されていない道路を引き返す、分岐点に楚山石の碑というか道標が建っていた。こんな感じの道標が日本の石材産地にも建っているといいなと感じた。
夕食は予定通りの時間にこの地方の名物水餃子12種類が出た、どれも很好吃(大変美味しい)であるがとても多すぎて食べきれない。しかし餃子が主食なのでご飯は出ません。焼き餃子も出たがあまり人気が無いのです。実は水餃子のあまりを焼いたものが焼き餃子なのです。日本の焼き餃子は違うと思いますよ。今夜は食べられませんがとにかくこの地方のご飯は美味しい日本の米に負けない美味しさなのです。明日の朝は早いので早く休むことにする。

福禄寿会会員 K7採掘場 片田舎のレストラン 楚山石の碑


16日
ホテル内の停電で6時前からエレベーターが動かないし何も出来ないので、早めに出発して駅の特別待合室で休憩、牡丹江駅よりハルピンに向かう。7時定刻に列車が出た。4時間15分の旅が始まった車内は満席で、最後部の車両で日本人は我々のみ、やがて通路の何箇所かで乗務員から借りた台を置きトランプを始めた中国人の人達がいたが通行には実に邪魔であった。列車の旅もなかなかのもので列車乗務員(若い女性)と中国語の勉強に余念が無い我ら仲間の若人達、その成果は如何に?彼女らの売上にはかなり協力したと思うが?車窓の景色は曇り空で行けども行けども田園風景が続きさすがに広いと感じる。
大都市ハルピン駅は大変にぎやかで、ホテルは駅のすぐ前であった。
昼食はホテル内ですませてから馬社長の石材加工工場三国石材の見学に向かう。停電で工場は休みで残念でした。電気が付いていない工場と人がいない工場は何かわびしい。林口の採掘場から出た石がこの工場で加工しているのだ。この寒いハルピンで年間を通じ加工していると言うが、その様な工場には見えない、時折強い風が砂埃と共に舞い上がる。この砂埃は日本に飛んでくる黄砂と同じなのか、目に入った埃を手で拭い去る。
林口の採掘場から無事に運ばれたたくさんの石を見ると感無量と感じるのは私だけなのか?良い製品が出来ることを望むのです。
「あまり時間がありません市内観光してホテルに行きますか?時間がかかりますが墓地に行きますか?」ガイドが問う。一も二も無く遠くても墓地に行きましょうと決まる。40分ほどで乾坤園霊園に着きました。写真撮影禁止といえどもやはり写真が撮りたい。監視人が付いている中で何とか撮影をすることに苦心惨憺。墓地の向きは全て南向きになっていて規格・自由墓石があり公園式になっている。入り口より段々奥に行くごとに大きなお墓がたっていて一番奥には立派な納骨堂がある。土地は国の物ですが墓地の使用権は70年(マンションの使用権も70年)、二代〜三代の使用でその後は更新するのでしょう。
ハルピン市内に戻る途中レストランで夕食になり。お客さんを交え16名でにぎやかに中国式に白酒で乾杯の連続、飲めない私には少々残念であった。

列車 馬社長 ホテルは駅のすぐ前 加工工場 三国石材
大きなお墓 公園式 奥に納骨堂 乾坤園霊園 中国式白酒で乾杯


17日
ハルピンから大連に移動7:15分ホテルを出発、駅前にあるので大変混雑しているバスはライラックが綺麗に咲く道を50分程で空港に到着。お世話になった馬さんと別れ搭乗口に着く。これからが第二のハプニングの始まりとなる。大連空港は雨・きりの為に飛行を見合わせていると言う情報に中国生活の長いK氏曰く、経験上午後2時過ぎにならないと飛ばないからビールでも飲みましょうと言う。ビール10元でコーヒー25元あなたはどちらを選びますか?私はビールが飲めないので高いほうを選びました。
いやはやK氏の言葉が現実になるとは!
11時飲み物が航空会社より支給調達・その後はただひたすら待つのみ。しかしなにもしなくも空腹になる。カップラーメン(これがまた大きい)売り切れないうちにと注文して昼食にする。その後航空会社より弁当の支給あり、若い人達が頑張って調達して来てくれた。しばらくは良いが、さすがに5時間過ぎると(来るときの大連空港5時間遅れは、観光が出来たが)動きたくなるが、空港内ではどうにもならない。朝早く出たので眠いので寝てもまだまだ時間は余るほど有る。こんなときにこそ、その人の人間性が出るものである。
中国で生き抜くには川の流れのようでなければとても生きられないとK氏曰く、正にその通りでありました。
8時間を経過しやっと搭乗開始のアナウンス。占拠してしまったショップを後に搭乗口に向かう。中国人が搭乗口で航空会社(中国南方航空)の人に詰め寄っていたが飛ばないものはしょうがないよ。乗務員が乗り込みやっと搭乗が出来た。そしてわずか1時間20分のフライトに8時間の待ち時間であった。
大連空港の雨はあがっていたが霞んでいた。ホテル着18時。レストランでの食事はいろんな食材を選んで料理してもらうのです。とにかく疲れを癒す為に豪華にしましょうということとなり長く忍耐の一日であった。

大変混雑 ライラックの花 弁当の支給 カップラーメン 占拠してしまったショップ
若い人たち 若い人たち 旧大和ホテルより 旧満鉄本社のマーク 旧満鉄本社


18日
最終日、今日の一日は帰路の時間を含めると大変な長さになりそうだ。昨日までの雨が上がり大変良い天気になりました。8時出発、金工地区にある宋さんの石材加工場に向う。50人規模の会社だがみんな若い。しかし工場内は石粉が舞いあがりあまり良い環境とはいえないが、Kシリーズの石材で大分活気があります。もう一軒の会社が見たいのでなかなか忙しい。どんどん皆さん意欲的に動き回ります。
二件目も忙しく見て回る。いずれも若い人たちが働いていて、しかも一生懸命に働いているその姿は美しく感じた。大連市内に戻りトイレ拝借のために旧大和ホテルに停車する。古いが一流ホテルだ。旧満鉄本社前にあるマークが入ったマンホールに人気があるようだ。日本人街(実際は日本人が住んでいる訳ではない)などを車窓から観光して次はガイドの仕事のひとつ、買い物に案内された。(50分の時間をとる)石材工場の時間の短さが残念に思える。だがお金があれば買いたくなるものだ。買い物の時間がオーバーしたのでその分食事の時間が短くなった。
大連飛行場へ25分ほどで到着。荷物を預けたり、座席を決めたりのチエックインする(いつもはガイドがやってくれたのが昨日からガイドの空港内立ち入り制限の為)。今日は予定通りに飛んでほしいと願う。幸い14:20分関西空港に向かう。やはり日本の航空会社であると妙に安心したのはなぜだろう。
今回の研修旅行は十分研修出来たと思う。日中感情がいろいろ言われ心配していたがまったく心配は無かった。中国国内の石材業者には大変お世話になりました。ご案内いただいた中国石材業者の方々大変日本語が上手でした。
アカシヤの芽吹きが大変きれいな大連の街は青葉がキラキラ輝いて心に残りました。あと1週間ほどできれいな花が咲くようです。そんなときにもう一度訪れてみたいものです。帰りのハルピン空港での長時間待ちについて中国南方航空の対応はけっして良いとはいえないが様々な経験のひとつだ。
ライラックの綺麗な花に免じ許してやろう。中国語を勉強して出かけたが50%も使えず、筆談が先行してしまったのは残念である。現地の人達は日本人か中国人かを確実に見分けることが出来る。以前北欧に行った時でも日本人にはこんにちわ、中国人にはニイハオと使い分ける。すばらしい才能だと感心する。残念な事は、携帯電話のアイモードが使えない事と、インターネット料金が高い事です。やがて世界中何処でも無線でインターネットの接続が来る日が近いでしょう。
2005/5/28

トルコ旅行記 2005/12/18〜25

12月18日(大雪)

何十年ぶりであろうか12月の雪は・・・大雪である出発の日から降り続いた雪は1mを超えた。

11:50搭乗開始、14:25離陸。
現在16:45だ、夕食が終わり、外もだいぶ暗くなっているがこれからこんな状態が10時間ほど続く13時間のフライトである。
トルコ航空は初めてだ・・・機体は古いぞ
映画は面白いのが無いし、スポットライトは故障でパソコン等をするにも具合が悪い、仕方が無いのでしばらく寝るとするか。
今日の一日は長い長い。
イスタンブールに着いてから国内線に乗換えだが大変な雪降りで、明日からの天気が心配である(ガイドの話では天気の悪い日が続くようだ)。イスタンブールから国内線でイズミールに向かうのだが、20分遅れが何回か続き、結局イズミール到着がかなり遅れ夜中である。急いで寝ることにするが??

エフェソス遺跡 エフェソス遺跡 大劇場 トイレ


12月19日(晴れ) 
朝だか夜だかわからない2:30分頃に寝たが眠れない、結局4:00に起きてしまい、天気が良いのかも分らない。
時差が7時間で電話などするにも考えてしなければならないので、海外で使える携帯電話をインターネットで申し込み一日100円で借りてきた、十分に使えるので楽しい。
トルコの天気予報がはずれ、だんだん天気が良くなってきたので少し元気が出た。
大型バスに10人程乗車して聖母マリア教会に立ち寄る、朝のうちであるのとオフシーズンなのでかなりの寒さと静寂がある。次に、エフェソス博物館やエフェソスの遺跡らを見学、かなり広い場所である。やはりギリシャに近いので様式が似ている。それもその訳だ、ギリシャからやってきたイオニア人が都市国家を建設したことの始まりなのだから。セルスス図書館・大劇場・メミウスの碑・トルコ風呂などを見学。貴族が生活していた場所なので豪華さが感じられた。
雪化粧した景色を車窓から眺め昼食場所に進む、トルコがこんなに寒いとは・・・
14:00やっと昼食。ベイシュヒル湖で名物料理である『しし肉の串焼き』であるが、匂いがきつくて少ししか食べられない(キツイ香辛料は苦手なのです)。
湖畔の景色はまた格別ですが、風が強のと寒いので早々にバスに戻る。その後は途中ドライブインでトイレ休憩以外はバスの中、18:00前にホテルに着く、まずはお湯を沸かして日本のお茶を飲む(数年前から急須とお茶を持参)。7:00から夕食(ホテルのバイキング)だが簡単なものである20:00には部屋に戻る。この方法も好きなものを選択すればよいのと早く終るので時には良いでしょう。パムッカレで泊まる。

ヒエラポリスの遺跡 古代の墓 セルスス図書館 聖母マリア教会


12月20日(晴れ)
まだ5:30である。昨夜は10時前に寝た、3:30頃から寝たり起きたりであるから5時には起きてメールの確認、今日も晴れだ。しかしかなり寒い。昨日観光できなかったヒエラポリスの遺跡に向かう、古代の墓が無造作に掘り出されていた。その墓地の中をバスが進み神殿の遺跡を見学。朝日が円柱の柱に輝き大昔の荘厳さが感じられた。水溜りは氷が張っていてより寒さを感じる。
谷側にパムッカレの石灰棚がある。温泉の成分が蓄積して300メーターもあるという真っ白い段が出来て温泉が流れている様は壮観だ。
観光客が少ないのでらくらく素足で入ってみたり、写真を写したり楽しむことが出来た。氷が張るような寒い所だが温泉が出るので温泉の池で泳ぐ人もいる。昼食後はただひたすら440キロバスでコンヤへ。
天気は良いが昨夜降った雪がいてついている。だがそれもまた綺麗な風景をかもし出してくれている。コンヤ市内観光は暗いので明日にして17:30ホテルに入る。大きくて綺麗だ、無線のインターネットに無料で接続できたのであちこちに送信を試した。パソコンを持参してどの位インターネットに接続できるか試すことも楽しみの一つである。

石灰棚 パムッカレ 温泉の池 ターバンの巻き方


12月21日(晴れのち曇り)マイナス3度
トルコの古い学校(神学校)をまず見てからメブラーナ霊廟。神学校のシステムは上級生が下級生を教える、このシステムが自分のためにもなりそして人間関係にも良くなると言う。こんな教育システムをなぜ現在取り入れないのだろうか。
メブラーナ霊廟では、寒い中でも信者は入り口近くにある水道で手・足・口などを清めてから中に入り死者に対してお祈りをする。イスラム教のお祈りの仕方は特徴のあるものだ。霊廟の中には棺がたくさん並んでいる、館の上に置かれたターバンの巻き方でその人の功績を表している。
今日はハイライトのカッバードキア(美しい馬の町)に向かう230kである。バスが通る道路を昔はらくだに荷物を乗せて通ったシルクロードである。5~6キロごとに隊商宿があり、人間・荷物・らくだが同じところで休める隊商宿の見学、シルクロードの起源は絹の高価さにあった。絹5Mは馬1頭に値したのである。どこに行っても寒い。昼食は暖かいもので良かった、焼き栗があったので買ってみたが焼きが足りなくて生だった。15時ごろカッパードキアに到着今まで見たことも無いような景色だ。
夕刻のローズバレイは夕焼けはしてるのだが雲が邪魔であった。明日もここを重点に見学になるので天気が良くなることを期待する。
今回の夕食もホテル内でバイキングである、従って早い。20:30田舎なのでインターネットもだめ携帯のIモードもだめである。

メブラーナ霊廟 信者 隊商宿入り口 隊商宿中


12月22日(晴れ)
出発が9時とかなりゆっくりである。今日は暗くなるまでゆっくり見学だ、天気は朝から最高に良い。
外の寒さはマイナスでかなり寒い。ギョロメ野外博物館の見学から始まる。岩を掘りキリスト教徒が迫害から逃れる為に教会を作り生活したところなどの見学。ここもまた朝早いのとシーズンオフで我々だけの見学であり大変楽である。カッバードキアは50〜60K離れたエルジエス山(3916m)の大噴火により積み重なった疑灰岩や溶岩が長い年月に雨風に侵食され、きのこの形をしたものや、らくだの形をしたものなど不思議な形が出来て、数千年の月日の造形を楽しむことが出来た。カイマクル地下都市は、地下8階の巨大都市で、キリスト教徒がアラブ人の迫害から逃れるために作られたもので中の天井は低く狭い通路が迷路になっており、何回か頭を岩に当てる羽目になる。
ゼルベノ谷など時間があるので細かく見学が出来た。昼食は洞窟レストランでますの魚料理は嬉しい。
暗くなってからカイセリに向かい。21:20飛行機でイスタンブールに向かう、天候悪く、飛行機が遅れホテル到着23:30眠い、ホテルは最高に綺麗なホテルだがインターネットに無料で接続できない。残念

ローズバレイ カッバードキア ギョロメ野外博物館 きのこ岩


カッバードキア ゼルベノ谷 キリスト教徒 らくだ岩


12月23日(晴れのち曇り)
心配していたイスタンブールの天気は晴れである。これで4日間晴で本当に有難い。まず旧市街に向かい、オベレスクがある古代競馬場跡の観光から始まった。オベレスクはエジプトのルクソール神殿から持ってきたもので占領品だ・ブルーモスクの大きさに驚く、
内部は教会とは異なり広々している、外光を取り入れる窓は200以上あり、青が多く取り入れられたステンドグラスは色鮮やかである。お祈りをする人は少なく、静寂の時が流れる。
この大きな建築は最近騒がせている日本の建築者に大いに研究してもらいたいものである・トプカプ宮殿(宝物殿はまさに輝く宝石の山・ハーレムについては認識を新たにした)
地下宮殿(500年以上前に造られた貯水槽である)地下に宮殿のような立派な貯水槽を作るとは・・・やはり生活上に一番大切なのは水である事が切実に感じられた。しかし湿気が上のモスクに影響を与えることまでは予測できなかったようだ・グランドバザール(エジプトのバザールよりは大変綺麗である)誰が教えたか日本語が飛び交う・昼食はケバブ料理

グランドバザール ハーレム ボスポラス海峡 トルコ石


12月24日(雪のち曇り)
外の様子が大変気になるところだ。雨かな地面が濡れていたことから朝食後は大変な雪に変わり一面真っ白になった。イスタンブルーは何年ぶりかの大雪になった。遅い出発で船乗り場に向かう。滑りやすい道を歩いて船に乗る。寒い・だが雪が降った景色もなかなかのものである、まずはヨーロッパ側を先に見て進み先端でUターンして帰りはアジア側、金閣湾からボスポラス海峡をクルーズ、ヨーロッパとアジアを分かつ距離は1キロも無いこんなに狭いとは・・・
塩野七生書(コンスタンチノープルの陥落)コンスタンチノープルの城壁は偉容である。雪、そして時折陽を感じる、色んな景色を1時間45分の間に見ることが出来た。

18:00イスタンブルー発
成田12:25

古代競馬場跡 地下宮殿 ブルーモスク 神学校


12月25日(晴れ)
まもなく成田に到着するがトルコで雪を見て日本の大雪を見なければならない。
今回、認識を新たにしたことは、イスラム教の考え方であった。
コンスタンチノーブルの陥落によりイスタンブールになる歴史がこの国の発展につながったのであろう。有名なトルコ石の原石はトルコ国内では産出されないのだが、トルコ青は代表する色と言える。
トルコ石の加工する工場に行ったが、あまりの高さに驚いた。本当はもっと安いはずだが?
今までトルコと言う国はあまり認識が無かったが今回の旅により少し知る事が出来た。


コンスタンチノープルの城壁 コンスタンチノープルの城壁 カイマクル地下都市 トルコ絨毯


オランダ・ベルギー・パリ・旅行記 2005/2/10〜20


2月11日 (晴)
KLM862 成田発11:00スキポール空港に14:40着11時間40分(映画ハリーボッターなど3本見ていた)でEゲートに到着。
MERUCURE AAN DE AMSTELホテルには20分ぐらい、現地の時間で16:30だけど早めに休むことにする。



2月12日 (曇り時々雨) 現地ガイド 趙さん(中国人女性)
最初に国立博物館約一時間。フエルメール作(牛乳を注ぐ女)観賞
次は、ゴッホ美術館、(意外と近代的な建物でした)ひまわり、カラスの群れ飛ぶ麦畑、等、たくさんの作品に出会えた。

牛乳を注ぐ女 国立博物館 ゴッホ美術館 アンネ・フランク像

オランダは風車の国の印象が強い、風が資本だ、さすがに風が強い、時折り雨が降ってくる、
アンネ・フランクの家は多くの人が並んでいた、(20分)寒かったが添乗員と話をしていたのでまあまあ気がまぎれた。中に入っても狭い階段を何階か登る、
(家は5階建て隠れ住んでいたところはより複雑な構造になっている)アンネの日記(ナチスから逃れるために隠れ住んでいた時の日記)予定の時間を大分過ぎてしまった。

アンネ・フランクの家 自画像 ひまわり アムステルダム駅

昼食は、ニシンの料理(小骨が苦になった)次は、運河めぐり、アムステルダム駅(東京駅の原型)の近くから約一時間入り組んだ運河をめぐる。乗り合わせは台湾から来た人達、船内での説明は、日本語と中国語だった。最近中国人の観光客が目立つ、席が向かいの若い2人と少し会話が出来た。(中国語の必要性を感じた)
今日の最後は、ダイヤモンド工場、オランダでダイヤモンドが取れるわけではないが加工が盛ん、(原産地は南アフリカ)ブリリアントカットの加工を見る。
1カラットのダイヤモンド(480万円)目の保養か?目が痛い。

運河めぐり 跳ね橋 運河の橋 1カラット・ダイヤ


2月13日 (曇り・雨・雪・晴れ) 
今日は移動スーツケースを出して、朝食(やはり8時間の時差にやられているようだ)
大型バスで、オッテルローヘ83キロの移動、一日に四季がある雨・雪・晴ほんの僅かの間に一面の雪景色、オランダ最大の国立公園内にある国立クレラー・ミユラー美術館

ゴッホ・跳ね橋 クレラー・ミユラー美術館 ロダン作 ゴッホ・ひまわり アムスレルダム 真珠の耳飾の少女

沢山のゴッホの絵がある。(4本のひまわり・アルルの跳ね橋・浮世絵・夜のカフエテラス)ルノワールの作品もある。入り口付近や中庭にはいろんな彫刻がある。
公園を出たところで昼食(スープ・ジャガイモを主にした料理)ハーグに向う92キロの移動。
ハーグも鉛色寒々としている、国会議事堂の反対のマウリッツハイス美術館(レンブラントのテユルブ博士の解剖学講義・フエルメールのデルフト眺望・真珠の耳飾の少女)
30分ほど国会議事堂(ビネンホフ)周辺自由行動(30分では?)。
16時位にGOLDEN TULIP NAALDWIUK ホテルに着く、夕食までは約3時間ゆっくり休むことにする。
夕食(肉ソテー・コロッケ)はホテル内なので楽である。

ノートルダム大聖堂 聖堂内 マウリッツハイス美術館 国会議事堂 マルク広場 陶器工場

2月14日 (曇り・雨・あられ) 現地ガイド 田島さん(ベテランの男性)
デルフトに向う11キロ移動して、陶器工場見学、デルフト焼物が素晴らしい。

オランダといえば風車だが今までお目にかからない、どこの国も同じく今は観光用に保存されている、キンデルダイクがその保存地帯だ。昔は500基あったのが今は19基、駆けずり回って写真を撮ったので汗がでた。昼食は中華料理
アントワープへ99キロ 気温は3度だが風と雨で大変
フランダースの犬(日本では有名だが現地では、終りがhappyでないのであまり人気がない。)で有名なノートルダム大聖堂、ネロ少年が見たかった、キリスト降架(三連祭壇画)ルーベンス作。マルク広場などを見学。(ネロ少年とパトラッシュの記念碑は(日本人が作った)広場にある)。すこし自由時間があったがチョコレートとワッフルを買うのにやっとであった。(今日はバレンタインデーであった。)バスに乗る前に大変なあられが降る。バスはオランダ・ベルギーの国境を何時の間にか通過して、ブルージュに移動TER BRUGHEホテルは古い建物で小さい。

デルフト焼 キンデルダイク 風車 キリスト降架(三連祭壇画)

夕食はブルグ広場付近のレストランで魚の煮込み料理。

2月15日 (曇り・雨・のち晴)
ブルージュ市内半日観光は徒歩で見る所はたくさんある、中世を感じる建物・石畳・などなど、魚市場ものぞいて見た。東山魁夷画伯がモデルにした鐘楼、聖母マリア教会(ミケランジエロ作聖母マリア像)ベルギー最古の市庁舎。ベギン会院を出たところは、白鳥がたくさん舞い遊び、正田美智子さんが皇室への思案をしたと言う“思案橋”(タジマガイド曰く)付近など大変良い。鐘楼にも登る狭いラセン階段で366段、入場料は5ユーロ。
イルマでレース(20ユーロ)を買う。
昼食はトマトを繰り抜いて小海老を詰めた、トマト・オ・クルペット午後はゲントへ52キロ
古都ゲント観光 聖バーフ大聖堂88m フアン・アイク兄弟の祭壇画(神秘の子羊)
ブリュッセルへ54キロ JOLLY HOTEL DE GRAND SABLONホテルに泊。

母マリア教会 東山魁夷画伯がモデルにした風景 思案橋 魚市場 神秘の子羊


2月16日 6日目 (晴)
観光最終日大阪の人達(12名)と一緒にブリュッセル市内観光半日 凱旋門(サンカントネール公園)と軍事歴史博物館・
王立古典美術館(地下8階地上3階)グランプラス・セルクラスの像・小便小僧・ギヤルリー・サンチュベール
昼食は食べ物横町で、ムール貝その後自由行動

王立古典美術館 小便小僧 グランプラス ムール貝 グランプラス


2月17日 (曇り)
ツアーの人達と別れ個人で行動。ブリュッセル中央駅6番線11:00発タリス2等8号車43.44の席、料金は2人で143ユーロ1時間25分の列車の旅。パリ北駅着、現地案内人(小野・男性)LE MERIDIEN MONTPARNASSE8階447の部屋(モンパルナスタワーの近く)
今日の計画はオルセ美術館に行くことにして、まずカルネを買った。地下鉄ゲーテ(13号線)よりアンバリットで乗り換え始めて乗るRER線(RER線乗換はかなり歩く)でオルセ美術館、オルセ美術館は長蛇の列であった、ミレーの落穂拾い・ロダンの彫刻等を観賞。今度は歩きでオペラ・ガルニエまで行く。

タリス パリ北駅 オルセ美術館 ロダン作 落穂拾い


2月18日 (晴)
朝食後天気が心配だったが幸い晴だ、まずモンマルトルの丘へ2号線ANVERS駅下車、
サクレクール寺院(中に入る)天気は良く白く浮かぶ寺院は素晴らしい。
モンマルトルの丘ではたくさんの絵描きが似顔絵を描いている。今回は左のオープン・カフエテラスでカプチーノ(5.5ユーロ)歩く人々や画家達を眺めながら、風情に浸る。
次は、一度は登って見たかった、凱旋門に向かう、2号線でシャルル・ドゴール・エトワールで下車、凱旋門上から放射線状に伸びるパリの街を眺める。次は1号線でコンコルド駅下車、オランジュリー美術館の睡蓮(モネ)が見たかったが館内工事中。残念
ロダン美術館に行くことにしアンバリットから歩く、二回目だが作品が多いのには驚いた。
VARENNE駅からオペラ・ガルニエへそしてギャルリー・ラフアイエットで買い物。(その頃には薄暗くなり雨が降ってきて寒くなる)出た頃には雨が上りはしたが寒い。

ロダン美術館 モンマルトルの丘 サクレクール寺院 凱旋門 オペラ・ガルニエ


2月19日 (雨から雪)
ホテルから50分程でシャルル・ドゴール空港9:50分発KLM1224便は1時間遅れ(雪の影響)でオランダ。スキポール空港Cゲートに到着、乗換でF2ゲートまで歩き。スキポール空港14:00 KLM861便、成田到着9:35

チュウリップ コンコルド広場 地獄の門 凱旋門より トマト・オ・クルペット カプチーノ



オランダの風景とはチュウリップと風車が代名詞だったが国を築いた人々は風車により水が高いほうに流れるようにし、水との戦いから水をうまく利用することに力を注ぎ運河をうまく利用する事で国を築き上げた。しかし風車は大型の機械に変わり保存地帯のみのものとなり、一面の花畑は天然ガスを利用する事で巨大な温室を作り花の栽培等が進んでいる。チュウリップが一面咲く景色はほんのわずかな期間らしい。山の合間に生活するものにしては、どこを見ても平らは羨ましいと言えるかな?建物の保存にも大変気を使っている、表面は前のまま残してその他を改修する手間とお金がかかる。
帰りのスキポール空港で花の種や野菜の種を買って来たので芽が出て咲くのが楽しみだ。
ベルギーは食文化が盛んな国で、オランダ人は生きるための食事に対し食を楽しむ国民と言える、
チョコレートを代表に色々である、中世を思える石畳や建物はやはり心に残るものだ。
今回の旅行で一番楽しみにしていたのは何年ぶりかのパリであった。それとともに、ツアーから別れ二人で行動する冒険も楽しみの?一つだった。今回は冬とは思えない大変良い天気に恵まれ楽しみが倍増した。元気でいれば又いけるかも知れない。
何回か道を聞いたりしても親切に教えてくれたフランス人の人々に感謝・感謝。

石畳 改修工事 サクレクール寺院 日の出 聖母マリア像


万里の長城 2004/10

月から見える唯一の建造物、6000kmに及ぶ世界最大の城壁、万里の長城に登山。

1日目〜2日目
北京空港より高速道路280キロ秦皇島にむかいホテル泊。2日目、10月1日は国慶節で一週間連休、
休日に、毎年結婚式が集中して行われ飾りのついた車が多く見られる。
龍の頭が海に突き出た様に見える(25m埋め立てた)老龍頭が長城東端である。

長城の最東端老龍頭 老龍頭 老龍頭 秦皇島

天下第一関(万里の長城第一の関所、明代1381年将軍徐達が築いた)北を見れば険しい山々の間を
龍のように角山長城が縫って走り、南に5キロ先には渤海に龍の頭が海底にもぐりこんでいるような老龍島になる。
天下第一関の壁上はかなり広い通路で現在は土産品を売る店などが多くあり観光用になっている。
秦皇島は夏は涼しく、冬は比較的暖かい清代から続くリゾート地であまり日本人観光客に会わない。

第一の関所山海関 山海関壁上通路 山海関壁 ホテルの湯沸し 角山長城

3日目
秦皇島から北京郊外慕田峪長城までは280キロで高速道路で3時間程、途中燕山連峰が綺麗に見える、天気が良くて有り難い。
国慶節でお休みなので各地からの観光客で賑わっていた。ロープウエイで登り、次に行き止まりまで行く事が出来るが
段々急坂になり観光客の人数が減っていくのです。

高速道路 慕田峪長城 慕田峪長城 慕田峪長城

修復された慕田峪長城は観光客が多い、修復が出来ないところは危険なので通行禁止。かなり急な階段があり、
息切れや、汗だくの人も多く見受けられた。夕食は、老舗(全聚徳)で本場の北京ダックを堪能。

これより登頂禁止 階段が続く 店が多くにぎやか 北京ダック

4日目
今日は目的としていた金山長城に登ります。幸い天気は良いがお休みなので行きも帰りも車が多く2時間半程で行ける所が
3時間以上かかり登山より時間がかかってしまった。突然道路脇に車が止まった、そこが出発点の古北口であった。
盤龍山ウォーキングの始まりは民家の脇(民家に積んである古いレンガは長城から持ってきたもの)
を通るがあまり外国人が来ないらしい、20分位で壊れた頂上の一部に到着し見晴らしが良くなる。

道路脇に駐車 民家の脇を通る 畑のわき道を通る現地ガイド 陥落した長城に到着

延々と続く長城は明の時代に造られたままの長城で、少し歩いて振り返る毎に変化した長城が見えて楽しい。
壮大な景色に圧倒されてしまう、自然ではなく、人の手によって作られたのだからすごい!!

所々通行不可 楼内から見た長城 楼の上で昼休み 幾つも楼がある

長城に使われている黒いレンガは大きくて硬い、この重たいレンガを人間の力だけで運び重ね築き上げたものだ。
お昼は楼の上で頂く。澄み切った青空と爽やかな風、360度見渡せるので長城の景色を充分楽しめた。

延々と続く長城 長城上 二十四眼楼 陥落して巾狭い

1000m級の山々が連なっているが長城が築かれているのは1000mまではない、紅葉は10月半ば頃らしい。
今は、とうもろこしの収穫期で農家は忙しい、一輪車に乗せて山道を駆け下りていく青年がいた。

良い景色 まだまだ続く 警備する兵隊 とうもろこし

秦の始皇帝の時代長城建設の労役にたくさんの人々が駆り出されて、亡くなった人も多くありその悲話のヒロインが
孟姜女(もうきょうじょ)で悲しい伝説があります。
下りは6キロほど歩く中、山の中の生活の様子がうかがえる。上海・北京の都会も同じ中国である。

下りに写した長城 やぎがいた 山中の民家 眼下に車が待っている

世界遺産の万里の長城には何年も前から行きたいと考えていたが今回実現出来た、
心配していた天候にも恵まれ最高の思い出となった。
このコースは数年で数箇所陥落してしまうでしょうしこのままであれば消滅の危機に至るでしょう、
尊い犠牲の基に作られた遺産が長く保存される事を願うものであります。


エジプト旅行記

5000年の歴史ある不思議な国を訪れました。

1日目
成田空港(11:00発)から途中ヒースロー国際空港で乗り継ぎカイロ着は22:55
ホテル着0:25。飛行機で成田を出て19時間を経過。

ホテルから見たピラミッド 3大ピラミッド らくだに乗る ピラミッドの巨石


2日目
部屋の窓からギザの3大ピラミッドがまじかに見える、9:30キザの三大ピラミッド(クフ王・カフラ王・メンカフラー王)に向かう、
ホテルから10分程で古代文明の象徴とも言えるピラミットに到着。
胸躍らせてクフ王のピラミッド(137m)の中に入る。頂上部分の表面は化粧版(石灰岩)で覆われている。背をかがめたり急階段を上る石組みは素晴らしい。4500年前に作られたとは不思議、階段を登った所には不思議な空間(玄室)があり、空の石棺が置かれていた。天井は石が張り出す工法ですごい技術だ。中は観光用に階段と手摺が付けられ玄室までの石組みの素晴らしさと玄室の空間は何を語っているのだろうか
ピラミットが大きすぎるので3大ピラミッドが写せる場所に移動し駱駝乗りなどを楽しむ。乗るに1$、写真を写すのみでも1$ならやはり乗ってみたいものだ、しかし駱駝が立ち上がる時と、座るときは大きく揺れ怖い思いをする。
太陽の船(埋葬された船)の見学のち、大きなスフインクスを見学。石灰岩で出来たスフインクスは4500年の風雪に耐え、崩れかけてはいるがピラミッドとマッチしていて美しい、裏側も見てみようの興味から回って見る。これまた大きさが良く分かって面白い。昨日までは涼しかったようだが今日は暑い、バスを待つ間ゴムの木の木陰に入る。
昼食はエジプト料理アエーシ(パン)はなかなかうまい。デザートの甘さはとても食べられない甘さだ。昼食後は(3時間)お昼休み

太陽の船 スフインクス スフインクス裏側 階段ピラミット

3日目
朝が早い(暑いエジプトでは早朝行動し午前中観光をするのが多いらしい)3:45ホテル出発。エジプト航空でルクソールに向う。大変セキュリテイが厳しい。最初にルクソール西岸に向う。カイロ国内線空港発5:30ルクソール空港発7:00ナイル川を渡り西岸観光へ(西岸は死者の町)30分ほどバスが走ると朝日に照らされたメムノンの巨像を見る。更に30分ほどで幾つかある内の貴族の墓(ラモーゼの墓)に入る。広大なハトシェプスト女王葬祭殿、まだ復元できないままの遺跡が幾つも残るこの場所から山越えして王家の谷に行くコースもあるらしいが暑さの中の山越えは大変だろう。送迎用電気自動車で駐車場へ戻る。

メムノンの巨像 貴族の墓(ラモーゼの墓) ハトシェプスト女王葬祭殿

王家の谷には沢山のお墓があるが、ラムセス6世・ラムセス1世・ツタンカーメンの墓、この三箇所に入る。それにしても暑い事、小坂さん(添乗員)から冷たい麦茶(日本製)を頂き元気回復(感謝・感謝)。昼食はエジプト名物の鳩・ラム・コフタ・ビーフをいただく。鳩とラムは大変美味しかった。昼食後は夕食までお休み。

王家の谷の送迎車 エジプト名物の鳩・ラム・コフタ・ビーフ ラムセス6世の墓 ツタンカーメンの墓


4日目

今朝はゆっくりの9:30ホテルを出発。東岸観光(生者と神々の住む場所)羊の顔したスフインクスが並ぶカルナック神殿観光(3800年前)2000年間増改築をしたと言うが、未完のままである。何もかもが大きい、なかでもオベリスク(赤色花崗岩一枚石で30メーター)。大列柱室(134本)スカラベ(糞転がし)は幸運を呼ぶと言われている。
ルクソール神殿(アモン神の南のハーレムへと呼ばれている場所)。神殿入り口の右側オベリスクはパリのコンコルド広場にある・・・昼食は高級日本食レストランでご飯はジャポニカ米(通常の米の40倍の値段)
夕日がナイル川に沈む夕方ルクソール博物館観光(ルクソール近郊の出土品が展示されている。展示の中に出土されたばかりでビニールが掛けられた像がある、見られないと見たくなるのが常、小坂さん、植村さんの懇願・チップで見ることが出来た、まさにエジプト。

カルナック神殿 ルクソール神殿 ルクソール博物館 モスク

5日目
ホテルを7:30出発アスワンに向かう。空港からアラビア砂漠をバスが行く、ナセル大統領時代に作られたアスワンダム見学(3,6kの長い水門でナイル川を堰き止めている)ナセル湖は500kmもある湖、まるで海だ。
フイエラ島のイシス神殿(移転して水没を免れた)オシリス(冥界の神)の妻であるイシスに捧げた神殿。

アスワンは良質な赤色花崗岩の産地。切り出し途中で傷が出て中止した大きなオベリスク(焼き串の意)を見学。奴隷が石の玉を何百日か投げ続け、切っていったとの事。

昼食後少しの休憩後、バザール(スーク)へ。羽を切られ飛べなくされた鳩や野菜・水タバコなどあらゆる物が正札なしで売られているので交渉次第と言うけどなかなか買える物ではない。夕方涼しい風が吹くころフアルーカ(帆船)に乗りナイル川をゆったりオールド カタラクトホテルまで風まかせで進む。こんな静かな一時も良いものだ。

フイエラ島のイシス神殿 キズがあるオベリスク原石 帆船 オールド カタラクトホテル

6日目
ホテルを7:00アスワン空港に向かいアブシンベルに向かう、空港から15分ほどでアブシンベル神殿(3300年前、ラムセス2世統治30周年を記念して建設された大神殿)小神殿は最愛の妃(ネフェルタリ)結婚25周年の記念に建設された。

どちらの神殿もハイダム建設に伴いナセル湖に水没するのを防ぐ為に現在の場所に移築された。大神殿、確かに大きなラムセス2世の青年期・亡くなるまでの像4体で表してある。神殿内の一番奥の聖所に3体の像があり、年に二回朝日があたる奇跡があると言う。暑いが木陰で休息は爽やかであった。

アブシンベル神殿 大神殿左・小神殿右 アラバスターの加工 焼芋屋さん

7日目
ホテルを7:30出発カイロに向かう。アスワン空港に向かう途中砂漠の砂で戯れる(黄色で、細かくて綺麗だ)カイロ空港に戻った。空港は大統領が利用との事で警戒が厳しく、待機させられた。

昼食後カイロで最高のホテルにて休息し、夕食はナイル川ディナークルーズ。食事と有名なベリーダンス(エジプトの美人はポッチャリ型が良いらしい)と夜景を楽しんだ。

砂漠 ベリーダンス ベリーダンス バザール 水タバコ

8日目
ツタンカーメンの黄金のマスクに会える考古学博物館に2時間入場木製金張りの厨子が4個・石棺・人型棺3個・カノポス(内臓入れ)下着特別公開のミイラ室(ラムセス2世など料金は40ポンド)を見学。
モハメット・アリモスク見学 フランスより送られた時計台がある。ハンハリーリバザールで昼食。
水タバコに挑戦、りんご・バラ・などのタバコを交替して吸い込んだ(たばこは吸わないので少し頭が痛くなった)

何でもあるバザールで買い物、交渉次第で幾らでも安くなるのが面白い

黄金のマスク 剣(いん石) ツタンカーメンの下着 カノポス(内臓入れ)

9日目
ホテルを出てわずかでかなり静かな田園になりメンフイスのオープンミュージアムに。メンフィスは約5000年前に上下エジプトを統一したナルメル王が都に定めた場所。ラムセス2世の横たわっている巨像があり、野外にはハトシプト女王に似たスフインクスなどがある。
砂漠の中をバスが進みダハシュールの屈折ピラミットと赤のピラミッド等が砂漠の岩盤の上に作られている。
絨毯スクール(子供達が指先で絨毯を織っている)
サッカラの階段ピラミッド(世界最古のピラミッド約4650年前と推測)

ラムセス2世巨像 ハトシプト女王に似たスフインクス 絨毯スクール 砂漠の中をバスが進む

10日目
ルームサービスの朝食ご6:00ホテル発成田着11:05解散
今回の旅で心配した事は、気温(服装)・食事・水でしたが、しかし無事に帰国できました。
11日間の比較的ゆっくりコースを選んで良かった。今度はエジプトを極めるコースに挑戦したいと思うのです。


チベット旅行記   

チベットと四川省研修記

福禄寿会の勉強会に参加するうちにチベット研修会の話が持ち上がった。私はすぐに参加を申し出た。チベット人の生きざま、芸術、宗教に興味があったからだ。しかしチベット法王ダライ・ラマ14世はインドに亡命、主役のいないチベットとは残念なことだ。そして現在は中国の一部でチベット自治区になっている。中国化したチベットとはどんなものなのか、また遅れ閉ざされた世界で、妖しげな風土、宗教、高地、食生活、どれ一つとっても秘境、神秘な国なのだ。不安と期待の入り混じる旅になる。

1日目10月91340分 関西空港中国東方航空にて上海経由成都(錦江賓館)2030分。時差は1時間の中国だ、夕食はレストラン2110、関空集合時間の関係などで、前日の夜行列車で家を出て24時間になった。
二日目、ホテル8:30出発、天気は小雨、武候祠、杜甫草堂見学後、世界遺産(都江堰)雨が段々激しくなった。雨の中見学、雨具のない人は大変な有様であり、景観はうまく見られず残念であった。治水利水問題でもめる長野県はこんな方法を勉強するのが良いのかな。ホテルに帰り成都大学院生(美人学生)とのカラオケで楽しんだ。

飛行機から見るヒマラヤ山脈 クンガ空港 ポタラ宮

三日目、5時のモーニングコール。いよいよラサに向かう快晴のヒマラヤ山脈を眼下に楽しんでいると、機内放送で15分後に空港に到着のアナウンスに、こんな山だけのどこに降りるのか、まさか落ちるのではないだろうかと不安。しかし、心配をよそに無事成都より2時間チベット、クンガ空港に着く。ここは海抜3600メートルの高地、まず澄んだ空気と空に迎えられた。高山病を甘く見た事に気づくのにいくらもかからなかった。呼吸困難と頭痛、極度の乾燥にこの後、数日悩まされるとは思わなかった。クンガ空港から車で2時間、ツエダンに向かう岩と石だけの山々の中に少しばかりの草木の中を羊やヤクを見ながらツエダンホテルに着く。陽のあたる所は暖かいが部屋の寒さには困る。酒はだめと現地案内人は言うのでアルコールは断念。かなり古い電気ストーブを入れてもらい暖を取って、2時間程休息後チベット最初の建築物とされている小山の上に建つ宮殿、ヨンブ・ラカンにゆっくりゆっくり歩いて登る。まるで登山、頂上の宮殿内と素晴らしい景色を見て下山、次に最古のお寺タントク寺を見学、夕食後はなにはともあれ寒さ対策の厚着をして寝る。

ヨンブ・ラカン ヨンブ・ラカン内部 ツエダンホテル

四日目、9時30分ホテルを出発(時差は中国内西蔵区という事で1時間、実際は3時間)、8時ではやっと明るくなり始めるがそのかわり夕方は8時頃まで明るい。4時間かけてラサに向かう。高山病のひどい人もいて見学予定を変更、ホテル到着後は休息となる、またまたホテル内は寒く、暖房のエアコンは風を送るのみ。何とか暖かくしてほしいと電話してホテルマンにきてもらってもこれでOKと言うのみで仕方ないので風呂に入ったがそのあとは大変な震えにおびやかされ何枚も着込んで寝る・・・しかし一晩中良く眠れないまま朝になってしまった。夜中に何回か起きるたびに喉の渇きと息苦しさにおびやかされ、携帯酸素を吸い込んだり、水を飲んだりして再度眠る。

近くの山と川 トラクター(大切な交通機関) タルチョ

五日目、いよいよポタラ宮、チベット文化を象徴する荘厳な建築物。この宮殿でダライ・ラマは17世紀から300年間チベットの政教を支配した。張り切ってロビー集合してもバスは来ていても現地案内人が来ない。運転手が会社に電話したりして代わりの案内人が来たのが1時間遅れ、いい加減な国だ。(いい加減な観光会社と言うべきか)しかし、ポタラ宮の素晴らしさは期待どおりでダライ・ラマ政権の象徴と言える、ポタラとは観音の住む霊場の名で、観音信仰の盛んなこの国でダライ・ラマはその化身とされて崇拝されてきた。観音様を主尊とした霊場、ダライ・ラマ権力、チベット曼荼羅の世界などが描かれている。つぎに、主尊は釈迦牟尼仏の大昭寺ではたくさんの五体投地をする人々、祈りをささげる人々で一杯。服の汚れも体の傷みも気にせず「オン・マニ・ペメ・フン」と唱え、全身を地面にたたきつけるように投げ出し、仏への祈りを続ける人たちに出会った。ただ寺内には修業僧が作るバター茶の強烈な匂いに閉口する。繁華街の八角街は五体投地をする人や経典の入ったマニ車を回しながら巡拝する人々が多く見られた。今回の目的の一つ胎蔵曼荼羅、金剛界曼荼羅を求めた。曼荼羅と言うのは、仏や菩薩の姿をさまざまに描いた仏画のことであるが、チベット曼荼羅にはグロテスクな雰囲気を感じる。大日経によって描かれたのが胎蔵界曼荼羅、金剛頂経によって描かれたのが金剛界曼荼羅と呼ばれている。

チベット曼荼羅 ポタラ宮広場 五体投地 バター茶を作る僧

六日目、晴れ。バスで山に登りデブン寺に向かう。歩いて行く信者達を追い越し、ほこりを上げてバスが行く。かなり上に寺があり眺めが素晴らしい。主尊は弥勒仏であった。午後はセラ寺、独特のジエスチャーで問答をする若い僧が大勢修行していた。主尊は馬頭観音、寺院内の岩には仏が描かれていた。僧侶に旅の安全を祈願して頂く。これで研修は修了し夜はチベット料理と民族舞踊

セラ寺 デブン寺修行僧 セラ寺修行僧の問答

七日目、上海に向かう。朝まだ暗い中バスにてクンガ空港まで2時間、車中朝日に山々がきれいに映し出される風景を眺め今度はいつ来れるだろうか、おそらくもう来れないだろうと思うと、高山病の辛さにもチベットの中にひと時の感謝と幸せを感じた。高山病者は成都の空港に降りただけで元気回復、そして上海の食事の美味さに皆堪能。さてさて空気の有難さ、食の有難さが身にしみた。

民家 大正寺 ヨンブ・ラカン途中

八日目、無事関西空港12時35分到着今回の旅では、航空機を乗り継いで高地順応をせず直接ラサに入ったためほとんどが高山病にかかり、頭痛、喉のカラカラ、更には夜寝ても息苦しく眠れない状態に置かれた事で日頃は当たり前と思っている事が、一番大切な物は何かを知ることになった。

いろんな物に教えられ楽しまされ感謝、感謝の旅でした。

平成14年10月20日

 

MyTravel record

New Zealand's SOUTH ISLAND

Left narita for New Zealand Feb. 25. 2001. Returned home from New Zealand Mar.05.2001.

Milford Track very good scenery
Feb.27.2001
Mount Cook
Glacier specially nice. Feb.27.2001
Milford Sound.
Milford Overnight Cruise Feb.27.2001.
Sheep are grazing here and
there in the pasture.
Mirror Lakes
Feb.27.2001
CHRISTCHuRCH
Mona Vale Avon River
Feb.27.2001

New Zealand is famous for its fine scenery. Evergthing is really beautiful.
I enjoyed the natural beauty to full and I will never forget the beauty of that mountain.

New Zealand's NORTH ISLAND

ROTORUA Whakarewarewa
Mar.02.2001.
Rainbow Farm
Mar.02.2001.

ROTORUA Maori Dance
Mar.02.2001.
Polynesian Spa
Relax in Rotorua's hot springs
Mar.02.2001.
AUCKLAND
Sky Tower
Mar.03.2001.
AUCKLAND Mt Eden
Mar.03.2001.

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